近年、原作漫画の実写映画化の失敗が相次いでいる。どんな佳作に仕上げても必ず低い評価を下す原作ファンはいるものだが、興行的にも成功とは言い難い作品が多いような気がする。その点、本作は成功例に加えてもいいだろう。
原作と違い映画では
本物のヒーローとなった英雄。 もし実写映画化するとしたら英雄役はやはり歳頃とキャラからいって
大泉洋氏以外にいないだろう、と思いながら原作漫画を読んでいたらホントに
大泉洋主演の本作が公開された。
原作は単行本22巻に及ぶ長編であり、本作公開の時点ではまだ連載が続いており、当然の事ながら2時間尺の映画にまとめるため、登場人物の数や相関関係などが大幅に割愛されている。
本作では主人公英雄がZQN(ゾンビ)パンデミックに巻き込まれ、逃げる途中で知り合った女子高生比呂美をともない、高地ではウイルスの活動が停止する噂を信じて富士山を目指し、山麓にある廃墟と化したショッピングモールで元看護師小田と出会う。ラストはモールでの死闘を切り抜け辛くも3人は脱出するところでエンドロールとなる。
原作でいえば物語の中盤、単行本1巻から10巻あたりのエピソードに限定して抜粋割愛しており、主人公英雄は趣味で特技のクレー射撃を武器にZQNの大群を倒し、女子高生比呂美にとってのHEROへと成長を遂げる。
原作ではもちろんこの後から話が大きく展開していく。映画では英雄・比呂美・小田の3人があてのない新たな出発をするところで一応のハッピーエンドとなるが、それは原作物語の序章に過ぎないのかもしれない。半感染の比呂美を見た看護師小田がZQN感染症に対抗できるワクチンの可能性を見出し、一行は東京にまだ存在しているかもしれない研究施設を目指すのだが、巨大ZQNなどの登場で話が仰天の方向へ展開していくのだ。(余談1)
原作のZQNパンデミックは壮大な地球外生命体の意図があるように見える。それが少しずつ明らかになっていくのはショッピングモール脱出以降だ。
映画が制作されている期間、原作では主人公たち3人の甘酸っぱいロードストーリーが展開中なので、映画ラストが主人公とヒロインの3人組結成で終わるのはやむを得ない。その結果、他のゾンビ物映画やTVドラマとは変わらない「平凡なゾンビ物語」になってしまったが、2時間尺の映画としては詰め込み妥当と思う。
しかしそのためテーマ性では原作は奥深いものなのだが、映画はシンプルなヒーロー物に留めたような感がある。
原作の場合、英雄と契った比呂美が英雄の元を去り巨大ZQNに吸収されて新たな次元の生命体へと変化してしまうのに対して、英雄は独り廃墟の池袋でサバイバルを続けていく。
英雄も半感染だと比呂美から指摘され、実際に半感染独特の他感染者との意識交流を行えたりしていた。なので英雄がその気になれば比呂美の後を追って巨大ZQNに同化吸収される「資格」があったかもしれない。しかし英雄は頑なに「英雄」という個人であろうとし、パンデミック以前の日常を取り戻そうとする。そんな英雄の姿を巨大ZQNに肉体を取り込まれた比呂美の意識は半ば呆れ憐れむ。
原作ラストは淡々と着実に英雄はたった独り東京池袋の廃墟でサバイバルを続ける。結局、比呂美は巨大ZQNの一部になったまま硬化してオブジェか枯れ木のように高層ビルに絡んだまま。英雄はオブジェや標識などに向かって独り言を発しながら農耕や狩猟をする様はパンデミック以前の不遇な漫画家アシスタント時代とあまり変わりはない。むしろ煩わしい人間関係が無くなった分、英雄にとっては楽かもしれない。
たぶん私や多くの読者が期待したラストは英雄の同業者で盟友の漫画家中田コロリが請け負う。一見すると飄々として威圧感の無い中田コロリの活躍は獅子奮迅と評してもいいくらいで生存者リーダーとして戦い続ける。辛くも東京をヘリで脱出して離島に避難したコロリは巨大ZQNに飲み込まれそうになった仲間の初老女性を助け上げる。ZQN作用のおかげか一気に20歳前後の美女へと若返り、コロリと内縁関係になって子供を何人も生んでいく。
感動なのはそんな状況でも「漫画家」である事を捨てず、盟友英雄を意識しながら描き続ける。彼の子供たちも漫画を描いたり編集したりする。なんて良い奴なんだ。なんて理想的家族なんだ。
この原作のオチに賛否両論があり、たぶん大半の読者はこのオチを想像できなかったか、あるいは希望していなかったと思う。私も比呂美と英雄が所帯をもって中田コロリのような子沢山のヒーロー一家を形成してほしいと思った平凡な読者だったが、このオチで裏切られた感と寂寞感が充満、その一方で英雄らしいラストだと納得したりもする。
一方、映画の方は原作の雰囲気を踏襲してはいた。なおかつハリウッドのゾンビ映画と同様の生々しい描写は見事、かつてハリウッドのメジャー作品に比して邦画は予算規模が小さいゆえにスケールの大きさを感じる事ができなかったり、監督や俳優たちの感性の問題なのか群衆場面の描写が稚拙で緊迫の臨場感や臭ってきそうな生々しさにかけ過ぎていたが、本作は見事に体臭と腐臭漂うゾンビ映画になっている。群衆描写も迫力があった。
原作の脱力しそうなオチと違い、映画の英雄は向かってくるZQNの大群に向かって猟銃を乱射しまくり、比呂美と看護師小田(余談2)を守り抜く。この手の映画定番のHEROになってラストとなる。観客が納得しやすい劇終だろう。
女子高生比呂美の台詞が月並みながら萌えだ。
「英雄君といたら大丈夫な気がする」
この台詞は本作前半と佳境の2回登場する。一度目は英雄が自分と同じ社会に適応するのが下手な同種人間という意味合いを挙げる人が多いだろうが、やはり私は深読みせずに草食系で優しい男性という意味合いが強いと考えている。2度目はZQNに取り囲まれて決死の顔で銃を構えようとする英雄に発せられた。殆ど同じ台詞だが、2度目はヘタレの鈴木英雄を名前通り「ヒーロー」と比呂美が認めた瞬間だ。本作では原作にあるようなテーマも伏線も複雑な人間関係も無いシンプルな物語である。
原作の英雄イメージに近い
大泉洋氏に戦う女が良く似合う
長澤まさみ氏に
有村架純氏起用(余談3)など、キャスティングも活きている。
近年の原作漫画の実写映画化の失敗で駄作を覚悟していたが、予想に反した佳作だ。原作の奥深さは犠牲にされてしまったが・・。 (余談1)原作では英雄は比呂美たちと男女の関係になっていくので、続編映画がもし制作されるとしたら、原作通り全裸の
有村架純氏が同じく全裸の
大泉洋氏に両腕両足でしがみつく場面があるかもしれない。
また男女関係になった直後に比呂美は半感染状態を単なる「病気」ではなく新たな生命体への昇華と悟るようになり、自ら巨大ZQNに同化する。この同化場面も続編ではどのように描写されるか。
原作の場合は具体的に描かれておらず、骨が折れる音や吐き出され落下する靴やスカート・ブラウスの描写だけに留めている。
原作の通りの続編となれば、小田つぐみの退場と比呂美との決別を描かなければならず、またあの終わり方は映画としては華が無いのでスポンサーの要求から改編の可能性がある。
因みにZQNの設定はかなり理に適っていて原作者
花沢健吾氏は制作以前の企画段階から綿密に練っていたように見える。しかもその設定を丁寧に少しずつ開陳しているところが憎らしい。
パンデミック初期は他のゾンビ映画と変わらず発症者は心停止して意識が消失し生前の習慣を残したままヨチヨチと徘徊する。非感染者が粗方いなくなり感染者飽和状態となるとZQNたちは一つの巨大なZQNへと合体吸収されていく。つまり、初期のゾンビ状態のZQNは感染を拡げるための形態であり、その目的がほぼ達成されると別のZQNと合体し始め、巨大ZQNが形成されると周辺のZQNも集まり取り込まれていく。
吸収された比呂美は巨大ZQNの集積意識と交流していく際に英雄のかつての恋人徹子と会話している事から、むしろZQN人格は消失しているように見えて実は存在していて、ゾンビ化によって上手く自我を表現できなくなっているようだ。これは米映画「ウォームボディ」に似ている。
(余談2)看護師小田を主人公に前日譚「
アイアムアヒーロー はじまりの日」が制作されている。
モールに籠城するグループに合流する前の、病院で看護師として勤務していた頃のエピソードだ。当然の事ながら、この頃は戦闘服っぽい姿で斧を振り回す女戦士ではなく、白衣を着た優しい看護婦さんだ。
映画ではハッキリとは判らなかったが、政府高官の記者会見で官房長官らしき人物が顎のあたりに大きな絆創膏を貼っているのが視認できる。これは政府中枢にまで破滅が迫っている事を暗示していてゾクゾクする。
(余談3)このキャスティングは見事なのだが、私の趣味ではない。比呂美の容姿に近い俳優といえば、やはり吹石一恵氏の10代の頃や人気上昇中の平祐奈氏と思う。長い黒髪と太い眉の色白女性だ。
比呂美というキャラを完璧に演じられそうな俳優となれば、私は洪潤梨氏がイチオシだ。
単行本10巻から15巻あたりに相当する男一人女二人のロードムービー編では比呂美と小田が腋毛の話で盛り上がる場面が気に入っている。
晴雨堂スタンダード評価
☆☆☆☆ 優
晴雨堂マニアック評価
☆☆☆ 佳作【受賞】第48回シッチェス・カタロニア国際映画祭コンペティション部門・最優秀特殊効果賞(2015)
第36回ポルト国際映画祭コンペティション部門・オリエンタルエキスプレス特別賞(2016)
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