私は映画を差別しない。 ミカエル晴雨堂の作法〔5〕
ミカエル晴雨堂は別け隔てしない。
【我的想法】残念ながら、社会的制約とFC2の規則で、当ブログでAVのレビューは掲載できない。アダルト作品を取り上げたら、ブログ・ジャンルを「アダルト」に特化しなければならないからだ。
それでなくても、アダルト作品に関わるとアダルト専門だと世間は偏見の目で見る。
70年代の話だが、アフリカ系アメリカ人の低所得者層がかたまって住んでいたニューヨーク・ハーレムで写真を撮り続けた報道写真家吉田ルイ子氏が「郷ひろみのような美少年の写真を撮りたい」とインタビューで答えると世間のバッシングを受けたそうである。社会派が何を破廉恥な、という批難だ。
しかし、表現者にとってジャンルや興味の対象を他人様の勝手な意思で固定されてしまうのは苦痛だ。表現者にとって大事なのはまず「自分がやりたい、自分が見たい」事であり、他人様のためだけに作品を制作しているのではない。
もしかしたら、吉田ルイ子氏は撮影者として様々な可能性があったのに、世間のバッシングとニーズによって、左翼市民が喜びそうな写真に限定させられたかもしれないのだ。
篠山紀信氏が発作的に戦場カメラマンやってもいいし、渡部陽一氏が美女のヌードを撮ってもいい。晴雨堂は世間様のようなレッテル貼りはしない。私自身がレッテル貼りされるのが大嫌いであり、自分が嫌な事を他人様にもしないだけの話だ。
私はアダルトビデオはもとより、一般作、自主制作映画、テレビCM、プロモーションビデオ、ポルノ(あいうえお順に列挙)を分け隔てなく鑑賞し分け隔てなく評価する。
映画の評価基準の一番は、まず私が観て「面白い」と思ったかどうかである。当ブログの処方箋をご覧になれば判るように、客観性を優先したスタンダード評価では「優」なのに主観を優先したマニアック評価では「駄作」にしているものがあれば、その逆もある。世間が酷評しても私は絶賛する場合もあるし、それは正直にレビューに反映している。
たとえば、保守右翼市民は韓流映画を低く観る傾向が強い。私も保守だが反日映画であっても作品として面白ければ評価はする。
客観性の評価基準も、制作目的と投下資本が内容と釣り合っているかどうか、制作目的が達成されているかどうかを診る。たとえ韓国の反日映画であったとしても、反日キャンペーンが効果的に達成されていれば、スタンダード評価で完成度の高い作品だと讃え、マニアック評価で酷評するだけだ。
アダルトビデオ、一般作、自主制作映画、テレビCM、プロモーションビデオ、ポルノすべての映像作品を私は分け隔てなく「映画」として楽しみ評価する。
この姿勢は映画レビューに限ったことではない。日常にも及ぶ。だから私はよく誤解される。左翼から保守反動と批難されたこともあれば、右翼からアカとか朝鮮人と呼ばれた事もある。
愛情に飢えている人から水臭い人と批難されたこともあれば、調子に乗ってる人からはお節介屋と鬱陶しく思われもする。熱心なファンもいれば、蛇蝎のごとく嫌う輩もいる、それは仕方の無いことだ。



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レビューを否定する者に作品公開の資格なし ミカエル晴雨堂の作法〔4〕
映画レビュー(ユーザーの声)を否定する者に
作品を公開する資格は無い!
【我的想法】映画レビューを書いていると、ときおり耳にする言葉がある。「無意味な事すんなや」「自分では作品つくらんくせに偉そうに」「暇人め」などだ。
そもそもレビューとは何ぞや。ローマ字で書くと「review」となる。(余談1)評論とか論評を意味する英単語だ。
実は私も学生の頃までは評論というものは嫌いだった。評論家は嫌いな職業ベスト5に入れていたほどである。なにしろ、おのれは作品をつくらんくせに他人様の作品を偉そうにあーだこーだと知っとるげに言葉ならべる輩は社会のクズだとさえ思っていた。
しかし加齢とともに考え方も変わっていく。ふとした事で学生の頃までの認識は誤りだと気がついた。
まず、出発点に立ち返ろう。創作者は何のために創作するのか? 何のために作品を発表するのか?
他人に見せない創作(余談2)もあるだろうが、多くは不特定多数の人間に魅せる事を前提としている。大勢の人の前で「自分」を表現する動作が創作と言ってもよい。他人に見せるということは、他人からの反応を受ける事も付帯条件である。公開するということは、世間からの反応に晒される事を覚悟の上であると見なす。それが嫌なら、自分独りだけで閉じ篭って独りで創作を楽しめば済む事だ。
特に映画の場合は世間の評判が重く圧し掛かる。なにしろ一般的な映画作品は1人で制作できない。監督・スタッフ・俳優・スポンサー・配給会社などなど、実に多くの人々が関わっている。多くの人々が関わっているという事は多くの利害関係が交錯しているという事だ。世間では映画を「総合藝術」なんて呼んでいるが、それは甚だ不正確だと思っている。私は語気を強めて「藝術のゼネコン」であると主張する。
中でもスポンサーはタダで銭をくれるわけではない。映画を媒体に自社の宣伝を行うのも目的だ。興行成績が悪ければ作品への投資が無駄になる。興行成績が悪くても作品評価が高ければ、藝術に理解のある会社として宣伝になるし、後にブレイクする可能性も残される。爆発的に売れなくても、永く名作として語り継がれれば永く「支援者」として社名が残るのでスポンサーとして万々歳だ。
だから世間の反応は制作に関わった人々にとって貴重な声であり重要なデータである。とりわけ鑑賞者のレビューは、わざわざ何処が気に入ったのか、あるいは気に入らなかったのかを懇切丁寧に説明する奇特な声なのだから、ありがたいと思うことはあっても否定することは断じてあってはならない。レビューを書いてくれるほど気にかけてくれているのだから、「声援」と思って甘受するのが作品公開者の責務である。
もし、映画制作者にレビューを否定する者がいたなら、その者は無人島で上映会を行うべきだ。世間様に作品を見せる資格は無い。
これは映画に限らず、他の分野の藝術にもいえる事である。いや、藝術だけでなく、私のようなモノづくりに従事している労働者にも当てはまる。世間様からの公的抑圧に何人も逃れられないのだ。
(余談1)フランス語の「revue」もある。カタカナで表記すると同じ「レビュー」になるが意味が若干違う。
元来は英語と同じく批評・論評の意味なのだが、ここでは大衆芸能の意味に転じている。その時代を風刺した歌や踊りを披露する。
レビューで有名な女優はジョセフィン・ベーカー氏、彼女の作品や生き方には衝撃を受けた。現在のマイクロビキニもビックリの半裸衣装で歌って踊る。時代は1920年代から30年代のフランス、黒いビーナスと呼ばれていた。初めて見た時は彼女の美しさに萌えよりも畏怖を感じたものだ。
(余談2)子供の頃、誰彼に見せることなく絵を描く動作が面白くて、片面印刷の広告チラシの裏や答案用紙の裏などに漫画やデッサンを飽きもせず描いていた時代があった。だから、人に見せない創作もありだと思っている。第一鑑賞者は自分自身だ。創作の基本中の基本は「俺がやりたいから」「俺が見たいから」だ。
基本、作品は処分せずに残す性格なのだが、引越し等の節目で散逸してしまった。



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B級映画は宝の山 ミカエル晴雨堂の作法〔3〕
【我的想法】正確にはB級以下映画やポルノ映画は宝の山である。
映画とは「総合藝術」である、とよくいわれているが、これは正確ではない。むしろ藝術のゼネコンと称したほうがしっくりくる。なにしろ映画一本を制作して映画館へ送り出す過程で様々な業者が絡んでくるからだ。これは他の分野の藝術と比べても群を抜いている。
文藝・出版・音響・音楽・演劇・美術などなど、1つの作品に様々な分野の藝術家や職人や業者が関わってくる。さらに映画興行を媒体に企業宣伝や自治体宣伝にも多々利用されるので、様々な立場の人間が出資者・協力者として参画してくる。超大作ともなれば、動かされる資金や人員は莫大、映画1作で一産業のようだ。
藝術に似つかわしくない金銭的な生臭い話になってゆくが、それだけ映画を創るということは大掛かりなのである。極端な話、絵画や漫画や小説なんか紙とペンがあればつくれる、音楽はその辺の棒切れ叩いたり道具なしで歌ったりすれば成り立つ。映画だけはどんな低予算であっても機材がいる。
様々な人間が関わるという事は、その分の利害関係も複雑である。制作総指揮(プロデューサー)は監督以下スタッフ・俳優たちが映画制作に没頭できるよう様々な業者との利害調整を図って制作環境を整える。監督はその下でスタッフや俳優を統括して絵を描く。
大作になると動く金もスポンサーも多いため、映画内容が気に入らなかったり、社会の「良識」に抵触するような事になれば自社宣伝にも影響するため口を出す者も出てくる。制作陣は予めスポンサーが口を挟む口実を与えないよう作品内容を調整したりする。
つまり、大作であれば金銭や人員は潤沢に使える反面、様々な利害関係も背負い込むので表現方法に制約がある。特に子供向けや家族連れで観るような大作は不自由極まりないかもしれない。
ここまで述べれば、なぜ私がB級以下映画か好きなのかお判りだろう。B級以下映画はその縛りが緩い。予算規模が小さいので人員確保に難儀するが、利害関係は大作ほど複雑ではないので、表現方法に様々な思い切りの良い実験的試みに挑戦できる。「13日の金曜日」や「死霊のはらわた」「ターミネーター」などはそんなB級映画たちである。
もちろん、大作であれば概ね実績のある監督や俳優が起用され、潤沢な資金はその道の高度な技術者たちが参画するので、そこそこ面白いものが作れるし作れて当たり前だ。また少々の突っ込みどころはスポンサーの配給力と宣伝力で誤魔化される。B級以下映画ではもろに生身の制作陣の資質が問われるので、ハズレも多いが当たれば宝くじに当たったみたいに面白いのである。
前述した作品たちのように、未来の名監督や名俳優の下積み映像が隠されている事も多々ある。



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映画は現実逃避だけのモノではない! ミカエル晴雨堂の作法〔2〕
苦しい現実から
一時の癒しへ逃がしてくれる事もあれば、
現実を見ずに浮かれている時に
叱咤して残酷な現実を見せる。
【我的想法】映画レビューを書いていると、昔の友達から苦言をたまに聞く。「現実逃避だ」とか「地に足のついた事をしろ」とか。
「地に足のついた事をしろ」は、意味がよく解らない。私は片道10キロの職場までチャリンコで通い、油と鉄粉にまみれながら目一杯残業して稼ぎ、給料は連れ合いに渡してその中から小遣をもらっている。映画鑑賞とレビューはその合間に行っていることだ。これのどこが地に足が着いていない事なのか?
「現実逃避」と言われても、映画鑑賞をしただけで何故「現実逃避」と言われなければならないのか? 逃避したくても現実というモノは常に私を攻囲している。
映画というものを一面だけしか捉えていない姿勢には困ったものである。たしかに大昔の映画は大衆に夢を与えるモノだった。特に体制権力は大衆に現実を見せないように取り繕うメディアとして悪用してきた。
しかしそれだけのモノだったら、アメリカンニューシネマなどはどうなるのか? 主人公が理不尽にも権力や世間に押し潰されていく様を見せられるのだ。これになんの夢がある? これを観て何から逃避できるというのか?
映画は多面的である。いや、映画に限らず、その他の藝術も労働も、人それぞれの人生も人格も全てにいえる。一面だけの肌触りで短兵急に決め付け否定するのは愚かな事だ。それだけで「私」を否定されてたまるか。



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100%の駄作は無い。 ミカエル晴雨堂の作法〔1〕
【我的想法】61番目のカテゴリーである。もう増やしたくはないのだが、たまに頓珍漢な事を言ってくる方がいるので、私の映画鑑賞の姿勢を示す自作の「格言」を公開することにした。
これは単に映画に対する姿勢に留まらない。日常・社会、そして人生そのものに対する考え方でもある。
さて、映画の観かたは十人十色、ある人か傑作と賞賛しても、別の人間は駄作とこき下ろす。「お前がええ映画というてたから観たけど、全然おもろなかったぞ」と文句を言われた事は一度や二度ではない。
しかし、世間から名作と讃えられている映画でも必ず何人かの人間は「おもろない」という。逆に世間から駄作と批難されている映画でも必ず何人かの人間は「おもしろい」という。むしろ100%の人間が「傑作」と讃えたり、100%の人間が「駄作」と蔑む作品を見つけるほうが至難の業である。
社会も人生も同じ。100%の善もなければ100%の悪もない。しかも時代や環境が変化すると善悪のパーセンテージも変わってくる。日々変動するから、1つの処方箋で万事うまくはいかない。
私は少年のころから社会に対する考え方は一貫している。どんなにくだらない占いの類でも人に希望を与える事ができるし、どんなに素晴らしい思想や宗教でも大量虐殺の口実になる。この考え方が映画の観方に反映しているだけだ。



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