晴雨堂の耕晴雨読な映画処方箋
 晴雨堂ミカエルの飄々とした耕晴雨読な映画処方箋。  体調に見合った薬膳料理があるように、 料理に合う葡萄酒があるように、日常の節目に合った映画があります。映画の話題をきっかけに多彩な生活になれば幸いです。

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↓私の愛車と野営道具を入れたリュックです。

晴雨堂ミカエル

Author:晴雨堂ミカエル
 映画好き・猫好き・ドイツビール好きです。よく晴れた爽やかな日はマウンテンバイクでサイクリングをしながら風景や野良猫を撮影します。
 リタイア後は田舎に帰り、晴天は畑仕事や庭いじり、雨天は読書や映画鑑賞の文字通り耕晴雨読の日々をおくるのが夢です。
 お金があれば郷里に「晴雨堂オタク記念館」を設立して地元の文化交流の発信基地にしたい、連れ合いは怒るだろうが。館長に任命してやるといったら言下に断られた。
 
 ブログを始めたのは2007年5月から、本格的に参考書に目を通しながら運営を始めたのは同年11月から、操作方法で度々ミスがあると思いますがご容赦のほど願います。
 現在、少しずつですがブログを観やすいよう整理を行なっています。


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晴雨堂が独断と偏見で処方した映画作品。
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バター不足
【2008/02/29 13:00】 日誌・・食生活・食文化
よつ葉バター

 
 聞くところによると、近頃はバター不足だそうだ。在庫が無い状態が続き、自治体によっては学校給食に出されていたバターパンの供給を止めて別のパンに代用しているとか。
 
 そんな馬鹿な、とPCを開けてインターネットを閲覧したら、確かに国内産バターが不足している。不足の原因は地球温暖化云々の大層なものではなく、単に牛乳が余った時期が3年前にあって生産調整をしたからだった。
 
 むかし、コンビニでバイトをやったときに、品が余り気味だったので発注を控え目にしたら、今度は売れすぎて客から「なんで無いんや!」と怒鳴られたことがあった。それと同じ理屈のヘマだ。
 ただ、乳牛の生産調整はコンビニのヘマと違って埋め合わせがなかなかできない。「調整」と言えば綺麗な言い方だが、歳をとって乳の出が少なくなった乳牛を殺して肉にしたり、種付けを控えて乳牛の数を減らしたりしているので、今から乳牛を産ませて育てるのに2・3年はかかる。
 
 なんとも馬鹿げたヘマに見えるが、生産現場では今日のような状況を予想して議論はあっただろう。日本の畜産業界も厳しいので、判っていても余剰の乳牛を抱えたり、ミルク・バターの値崩れを大目に見る余裕は無かったと思う。
 余裕が無いと、どうしてもその場の対処方法しか取れなくなる。そういうとき、長期的展望の対策をとるべき役割を担っているはずの存在が政府なのである。が、乳牛の「調整」を通達?あるいは指導?したのは政府だった。
 
 いま輸入食材の汚染が騒がれている。学校給食の場合は積極的にパンから米飯に切り換える事で解決とするべきだ。
 問題はパンやケーキなどをつくる業者だ。大量にバターを使うから死活問題だ。私もケーキもどきをつくったことがあるが、マーガリンでは代用はしんどい。
 
 ページトップの写真は、私が加盟している消費者団体関西よつ葉会の有塩バター。スーパーなどで流通しているバターより少し高い。
 

テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

「麦の穂をゆらす風」-
【2008/02/28 06:45】 映画・・独りで考え事をしたい気分に
直視しづらいテーマ
 
 

 
 96年にリーアム=ニーソン氏がアイルランド独立戦争のリーダー・マイケル=コリンズを演じた。あれから10年、末端の活動家たちを描いたのが「麦の穂をゆらす風」である。
 M=コリンズは既に歴史上の人物となったが、末端の活動家たちの軋轢は今でも現在進行形である。アイルランドを代表するロックバンドU2のボノ氏がIRAの爆弾テロを批判したことで物議を醸したのが僅か20年前である。(余談1)だから、今回の作品は内戦問題に一層踏み込んだものと言えよう。
 
 主人公は独立闘争の末端リーダーを務める兄弟である。物語はこの兄と弟を軸に進められる。独立闘争に熱心な理想主義の兄に対して、気が優しく現実的で戦嫌いの弟。ところが弟は英国軍の狼藉を目の当たりにしてから気が変わり兄と行動を共にする。闘争を守るため裏切り者を弟は手にかける。その中には幼馴染もいた。
 精神的にも肉体的にも多大な犠牲を払って勝ち取ったのが、完全独立ではなく自治領の地位だった。兄は政治的判断でその条件に妥協し、弟は納得できず樹立したばかりのアイルランド政府に反逆して捕らえられ、兄が泣きながら指揮する銃殺隊によって処刑される。(余談2)
 この兄と弟の物悲しく切ないコントラストを帯びた相関関係が、この作品の真髄である。また内戦の悲しさを象徴しているがステレオタイプではない。
 
 多くの日本人はアイルランドは馴染みが無いだろう。ところが、アイルランドとイギリスの関係は、韓国朝鮮と日本の関係に似ている部分がある。アイルランドと韓国朝鮮は隣国に併合された歴史があるし、形は違えど南北分断が現在進行形である。日本の芸能界で在日コリアンの活躍が目立っているのと同じように、在英アイリッシュの活躍も目立っている。(余談3)
 むかし、来日したイギリス人留学生に在日コリアンの問題について質問されたとき、私はアイリッシュの問題に似ていると答えたものだ。だから馴染みが無いどころか、日本人にとっても間近い問題であり、本来は辛い内容の映画である。
 
 日本では「パッチギ!」程度の描写でさえも嫌韓バッシングが大挙行われる。在日コリアンにとっても評判は必ずしも良くない。それだけ双方はまだまだ正視できないデリケートな政治的問題である。
 ケン=ローチ監督はイギリス人?で、キリアン=マーフィ氏ら俳優はアイルランド人。イギリスを完璧に悪者に描いているのでイギリスでのバッシングはどうなのだろうか? 内戦の被害者遺族が健在のアイルランドでの評判はどうなのだろうか? 
 
(余談1)アメリカでの「ヨシュア・トゥリー・ツアー」だったか、「Sunday Bloody Sunday」の間奏での発言。「革命なんて糞くらえだ!」
 
(余談2)優しい人間が戦うと決めると過激派に転ずることが多々ある。
 条約批准をめぐっての議論がよくできていた。日本人でも、会社や運動団体を立ち上げた経験のある人には身につまされる場面ではないか。双方の意見に理があり、双方の感情が当然のものであるがゆえの平行線。
 欧米の秀作に多い特徴は、ディスカッション場面が優れていることである。
 
(余談3)ビートルズが代表例。Paul McCartneyの苗字にMcが付くのはアイリッシュ特有。意味は、カートニーの子孫。
 ポールはナイトを表すSirの称号をもっている。日本的に言えばポール=マッカートニー卿だ。
 かつて、ビートルズの成功でメンバー4人にMBE勲章を授けられたが、後にジョン=レノンは返上している。理由は大英帝国の世界侵略に貢献した者に授ける性格の勲章だからだ。さらにジョンはIRAに資金援助までしている。対してポールは勲章を持ち続け、90年代にSirになった。なんとも対照的な2人だ。
 
 

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「アデルの恋の物語」-
【2008/02/27 00:33】 映画・・深夜の静けさを味わいたいときに
アデルと招弟(チャオ=ディ)
 
 

 
 若い男に付きまとうストーカー的恋愛をするヒロインとして、「初恋のきた道」の章子怡氏(チャン=ツィイー)と「アデルの恋の物語」のイザベル=アジャーニー氏を思い浮かべてしまう。
 奇しくも、双方とも二十歳前の若い女優が演じ、同じように若い男に激しい恋心を抱いて追い掛け回す展開で、邦題も一見すると切ない思春期の恋愛を描いているかのような感じである。
 
 ところが恋の結末は全く正反対である。章子怡氏が扮する招弟の恋は、物語冒頭から既に成就されていることが判明している。原題を直訳すると「私の父と母」で、語り部である息子は立派に成長してビジネスマンになっていた。父の死に直面した母親である招弟の激しい落胆ぶり、病持ちの身体に鞭打ち葬儀の準備に取り掛かる気合の入れ様、生前の父親が教壇に立っていた小学校へ父親の声が聞きたいがために毎日欠かさず通っていたなど、恋愛が成就しただけでなく関係は最後まで固く結ばれており、その成果が立派に育った息子と小学校の存在であることがうかがわれる。
 
 一方、イサベル=アジャーニー氏扮するアデルの恋は、史実として破綻していることが判明している。招弟らカップルが守り育ててきた学校や息子の存在は無い。招弟らは親だけでなく村全体からも祝福され盛り立てられることになるが、アデルは一方通行の恋に終わるばかりか、親には恋愛関係が成立していると偽ってまで家を飛び出し男を追い掛け回している。
 招弟の恋は、最初は男性のために弁当をつくることから始まり、やがては男性の職場である学校の掃除や修繕まで行うようになる。アデルは激しい恋には違いないが、概ね追い掛け回すことしかやっていない。男性を振り向かすために札束まで撒き散らすが、男性のために何かボランティアをやったわけではない。やがて、男性に対するというよりは、恋愛に対する執着ゆえに精神に破綻をきたすようになる。良家の教養ある令嬢がまるでホームレスのような風体になり認知症の患者のように徘徊する。(余談1)
 
 どちらの恋が良いとかは一概には言えない。どちらもストーカーだし、アデルの方はまだ一方通行である分、男性は良心の呵責なく逃げやすい。招弟のほうが献身的につくしている分、男性によっては恐怖のストレスになるかもしれない。
 文豪の令嬢アデルと農村の文盲招弟は男性への訴え方も異なる。アデルの相手は些か遊び慣れた若い将校に対して、招弟の相手は村の子供に教育を普及させる使命感を持った生真面目青年だ。
 しかし恋の出発点に大きな違いは無い。双方とも思い込みの激しい少女である。どこから破綻と成就の決定的な違いが現れたのか?
 
 招弟にとっては愛情を注ぎ込む対象が、相手の男性だけでなく、男性に関係しているもの、やがて男性が夢を注ぎ込んでいた学校へと広がり、おそらく結婚後は男性と2人で家族や村の学校へ教え子たちへと情熱を注ぐ対象が拡大していったのだろう。
 ところがアデルは常に男性は逃げて居ない。1人で追い掛け回し孤立する。もはや相手の男性への恋愛感情は行き詰まり、男性を追い掛け回しながらも男性が対象ではなくなり、恋愛への恋愛、恋愛に対する信仰のようなものへと煮詰まってしまった感がある。他のレビュアー氏が指摘しているように、作中の言葉「私の宗教は愛」へと袋小路に行き着く。あるいは昇華というべきか?(余談2)
 
(余談1)次第に壊れゆく女性を演じきったイザベル=アジャーニー氏の演技は当時評判だった。章子怡氏は初々しく清純な美少女ぶりが評判だったが、彼女の壊れいく女性の演じ方を見てみたい。溥儀の皇后は阿片中毒で精神破綻をきたすので、その役をやったら似合うだろうなと考えている。
 
(余談2)個人的には破滅型ヒーローは好きだが、破綻型ヒロインはあまり好きではない。
 


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中華饅頭の悲劇。
【2008/02/26 00:21】 日誌・・近頃の現象
 私が中高生だった頃、人民中国はモラルの高い国と教えられた。毛沢東の三大規律八項注意(余談1)が行き届き、町は隅々まで清掃され、人民は質素ながらも貧富の差はなく健康で文化的な生活を営んでいる。
 
 高校生のとき、府の主催で日中友好の高校生親善使節団に参加した。出発の際に受けた注意の中に、「中国人はモノを大切にするので、要らなくなった下着をホテルで捨てたら、忘れ物と判断されて次の宿泊地に届けられるから、捨てずに持って行くように」というのがあった。なんと高潔な精神だろうか。私は素直に感動した。
  
 また、一応国賓だったので、三度の食事はどれも素晴らしく、いわゆるジャンクフード的なものはなかった。食べ飽きない朝のシンプルな中華粥と漬物、昼のボリュームある軽食。そして夕方の高級宴会料理、いくら食べても次から次へと料理がはこばれる。しかも全て日本ではお目にかからないご馳走ばかりだ。
 
 そんな贅沢な中国の旅だったが、印象に残っている料理は、上海から南京までの特急列車で食べたシンプルなサンドイッチだった。厚切りの茶色がかった食パンにハムや野菜をふんだんに挟んだ食べごたえのあるサンドイッチ弁当だった。
 
 当時、学校では有吉佐和子氏の「複合汚染」を教材に食品添加物や農薬の毒性について学んでいた。真っ白い食パンは漂白されている、そんなイメージから中国の薄茶色食パンはナチュラルに見えたし、実際に麦の香ばしさを強く感じだ。
 
 ある観光地を見学したときは、全員にアイスクリームが配られた。形状が細長い延べ板のようで、ちょうど書道に使う墨のと同じ大きさだった。クリーム色のボール紙の箱には赤い宋朝体で○○碑と書かれていた。
 アイスクリームは黄色っぽく、味は麦の香ばしさがあった。食べた時は、これこそ漂白剤・安定剤・増粘剤を使っていないナチュラルなアイスクリームだ、と感動したものだ。今から考えると、たんにバニラ抜きアイスだったようだ。
 
 あれから四半世紀が過ぎた。ここ10年の中国は「社会主義」と「共産党」の看板は掲げ続けてはいるが、タチの悪い資本主義のように見えてしまう。貧富の差はヘタすれば日本以上に拡がり、街にはゴミが溢れ、その一部は東シナ
海を渡って九州沿岸に漂着している。
 大勢の市民が健康的にチャリンコ通勤する清々しい風景からマナーの悪い運転の自動車に排気ガスで溢れ、近年では偏西風に乗って日本で光化学スモッグを起すようになったと指摘する学者がいる。光化学スモッグなど、私が小学生の頃は頻繁にあったが、ここ20年はなりを潜めていたのに。
 
 そして、中国産の餃子や中華饅頭から農薬が検出されて、体調を壊す方が現われるとは。かつて一緒に中国へ行った知人たちも、あの頃の思い出が遠い昔話のように思っている頃だろう。
 
(余談1)「三大規律・八項注意」とは、毛沢東らが人民の支持を得るために紅軍兵士に課したルールである。後のキューバ革命ではゲバラが同様の規律を厳格に兵士たちを縛ったことでも有名だ。
 
「三大規律」とは以下のとおり。
・命令には服従
・民衆のものは針一本糸一筋もとらぬ
・敵や地主からとったものは公のものにする
 
「八項注意」とは以下のとおり。
・言葉はていねいに
・買い物は公正に
・借りたら返す
・壊したら弁償する
・人に暴力を行使しない
・農作物を荒らさない
・婦人をからかわず乱暴しない
・捕虜をいじめない
 


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「刑務所の中」-
【2008/02/24 23:12】 映画・・独りで考え事をしたい気分に
小春日和のような日常
 
 

 
 まず最初に薦めたいのは、青林工藝舎刊の花輪和一氏原作を読んでほしい。(余談1)精細な刑務所内部の描写に解説だけでも勉強になる。しかも、日常の作業や食事の献立などこれも細部に渡って描写されている。刑務所内では大っぴらにスケッチやデッサンはできないだろうから、後で思い出して描いたものも多かったろう。同時に、刑務所内の関心事は寝起きする部屋と仕事場と食事に限定されてしまう事がよく現れている。
 それにしても、花輪氏の観察力と描写力に敬服する。私も学生の頃にバイト先でスケッチをやって漫画のネタにしようとしたが、観察力と描写力の無さに苦しんだ。
 
 雀洋一監督作品と聞いて、少しだけ不安に思ったことがある。というのも、雀監督が手がけた作品には喧嘩・乱闘などの暴力シーンが多いというイメージがある。ましてや刑務所が舞台であり、出演する俳優たちの顔ぶれを見ても、原作に無い暴力描写を色付けで挿入するのではないか、という警戒心があった。(余談2)
 ところが、プリズン物のお約束?である服役囚同士の乱闘、看守の暴力、同性への性的暴力といった場面は一切無かった。また花輪氏が囚人仲間から聞いた犯罪を作中で回想シーンの体で実写再現するのでは、とも思ったが、あっさり口頭の台詞だけで済まされた。
 一言で言うと、原作の良さが完璧に再現された作品である。長閑な小春日和の空気の中で日常の繰り返しに委ねる主人公たちの生活臭と滑稽さが心地よい。(余談3)監督・スタッフ・俳優の気合を感じる映画だった。
 
(余談1)前身は青林堂。漫画雑誌「ガロ」はあまりに有名。団塊の世代からヤマト・ガンダム世代の私たちにとって一種憧れの存在だった。白土三平氏や蛭子氏、つげ義春氏らを輩出。私が学生だった80年代には経営悪化で原稿料が出なくなっていたが、それでも入稿は多かったと聞く。
 
(余談2)ところが雀監督のインタビューでは、企画の段階ではお約束の暴力シーンを加味する案があったそうだ。脚本までできていたが、幸いボツにされた。
 
(余談3)美術スタッフの小道具やセットの再現技術にも敬意を表する。花輪氏の漫画描写に負けない気合の入れようだった。
 
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「スターリングラード」(門の敵)-
【2008/02/24 07:40】 映画・・独りで考え事をしたい気分に
予想外の秀作。
 
 

 
 同じ邦題の映画がドイツで93年に製作されている。主演はいまやハリウットのスター俳優トーマス=クレッチマン氏、リアルな市街戦描写が特徴の優れた反戦テーマの群集劇だった。(余談1)
 が、今回紹介する映画は邦題がたまたま同じになっただけで、内容も趣旨も全く性格が異なる作品である。優れた群衆劇でもあるが、主人公と敵役の2人が物語展開を完全に支配するヒーロー劇でもある。(余談2)
 
 2000年前後に製作された戦争モノ大作といえば、ハリウッドの「プライベート・ライアン」「シン・レッド・ライン」(余談3)があるが、この「スターリングラード」のほうが完成度としては優れている。構成自体は単純なヒーローと敵役の対決でしかないが、ヨーロッパ諸国による合作映画らしく政治状況や民族同士の相関関係(余談4)をさりげなく絡めている。あくまで私個人の趣向であると断った上で評価すると、映画史に残りそうな秀作がスピルバーグ氏らの営業に負けた。
 
 全編英語台詞だが、この作品の場合は違和感は少なかった。(余談5)もともと史実に沿って実在の人物を主人公にした映画であるし、廃墟と化したスターリングラードや赤軍兵士やドイツ軍の描写も大きな間違いはなかった。だから後でロシア語とドイツ語に吹替えたら、さほど不自然は感じないほどにはなっていると思う。
 
 ワシリー役のジュード=ロウ氏は期待以上のロシア人振りだった。ポスターやパッケージでは眉間に皺を寄らせた渋いアメリカンヒーロー的表情だが、作中では田舎から出てきた純朴なロシア青年、ソ連映画「誓いの休暇」を思い出すほどだ。(余談6)
 エド=ハリス氏扮するドイツ軍将校ケーニッヒ役も、それに少しも劣らないドイツ人ぶりである。終始冷徹な狙撃将校であると同時に軍人としては私怨で動いているところに味がある。
 
(余談1)おそらく東西ドイツ統一後初の大作。東ドイツ出身のクレッチマン氏が主役を演ずる。彼はこの出演を足がかりに世界的スターへと駆け上る。
 
(余談2)原題を直訳すれば「門の敵」。内容を意訳すれば「前門の狙撃兵」か。「スターリングラード」のほうが興行的にはシックリくるか。
 
(余談3)「・・ライアン」は仏戦線、「シン・レッド・・」は太平洋ガダルカナル戦線が舞台。
 
(余談4)スターリン政権下のソ連軍描写が辛辣だ。反乱を恐れてか、最前線に着くまで武装させない。兵員輸送の貨車には鍵をかける。銃は2人に1丁しか支給しない。銃を持った兵士が先に突撃し丸腰は後について行き、前が倒れたら銃を拾って突撃を続行。これは中国軍も中越紛争で同じ手法の人海戦術を行っている。
 公開時、第二次大戦(ロシアでは「大祖国戦争」)からの赤軍兵士らが「いくらなんでも、あんなヒドイ軍隊ではない。やりすぎだ」と抗議した。
 
 主人公と友情をかわす政治将校ダニロフと女性兵士ターニャ、彼らはソ連では知識階級でユダヤ人という設定。ロシア革命では知識階層の担い手であるユダヤ人が大勢参画している。領袖レーニン自身がユダヤ人である。レーニンの後を引き継いだスターリンの強権政治ではユダヤ人は粛清の対象にされた。作中でもその雰囲気は滲み出ている。
 したがって、単純にソ連VSナチスドイツという図式だけでなく、ユダヤVSナチスとスターリンといった入り組んだ背景の上で狙撃兵ワシリーとケーニッヒ少佐のタイマン対決が展開される。
 
 つくづく思うのだが、社会問題をストレートに表現するのも悪くはないが、この作品のようにさり気なく複雑な政治的背景を臭いたたせて、単純構成のドラマを展開させるのが制作難易度の高い「名作」ではないか。
 
 ヨーロッパの戦争映画とハリウッド単独でつくった戦争映画の違いを見比べる意味でもサンプルになる。
 
(余談5)とはいえ、最前線なのにドイツ将校はヘルメットではなく正帽をかぶっていたのは不自然。
 他のレビュアーは戦地に女性がいることを不自然に思っているようだが、赤軍には女性兵士がけっこう従軍している。女性パイロットや狙撃兵もいて、英雄にされていた。
 
(余談6)実際のワシリー=ザイチェフは建築学校や経理学校を出ているので、作中のような無学の羊飼いではない。終戦時は大尉。
 


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「マーシャン・クロニクル」-
【2008/02/23 16:05】 映画・・深夜の静けさを味わいたいときに
火星年代記
 
 

 
 原題のカタカナ化が「正式」なタイトルになっているようだが、やはり「火星年代記」のほうがシックリくる。(余談1)
 主演は「武器よさらば」で有名なロック=ハドソン氏。後にエイズで亡くなられたのが些か衝撃で、しかも同性愛者であったのも話題になった。(余談2)ここでは、多くのアメリカ人が理想に描く上司と父親を演じている。火星探険の大佐で、良妻賢母型の妻と小学生くらいの子供2人の4人家族。
 
 SFといっても、原作者はレイ=ブラットベリー氏だ。アイザック=アシモフ氏やアーサー=C=クラーク氏のような綿密な科学考証によるハードSFではなく、詩情的幻想空間が広がる。製作された当時、既に火星がどんな星であるかは大よそ明らかになっていたが、作中は無視している。
 アメリカ西部の砂漠のように荒涼としているが、青い空に水を湛えた湖、呼吸ができる大気、白い衣装に耳を隠すだけのありふれた宇宙人メイクの火星人、ストーンヘンジを彷彿させる火星の古代遺跡、火星をネオンと鉄骨のアメリカンに改造していく移住者たち。そして最終戦争で滅ぶ地球。
 特撮は60・70年代のウルトラマンや仮面ライダー並に微笑ましいものだが、叙情あふれるBGMと映像と台詞まわしで物語が展開するのでむしろ効果的に彩っている。

 ラストで、ロック=ハドソン氏がある踏ん切りをつけ、「火星人を見に行こう」と家族を誘い、火星人遺跡がある湖へピクニックに行く場面がある。「火星人はどこ?」と怪訝そうな子供たちに向かって、父親は「ほら、湖のなかを見てごらん」とにこやかに語る。湖面には家族4人の顔が映っていた。今でもこの最後の場面が好きである。
  
(余談1)1981年頃だったと思うが、1日に何度かの時間帯に分けてTV放送されていて、1日中「火星年代記」ざんまいだった。故手塚治虫氏が解説を務められた。彼の説明によると、原作の日本語版が出版された当時は「火星人記録」というタイトルだったらしい。SF小説のオールドファンの中には今でも「火星人記録」と呼ぶ人がいる。
 このTV放映は日本語吹替え版だったが、数年後に読売テレビの「シネマだいすき!」にて字幕完全版放送。
 
(余談2)後にクイーンのフレディ=マーキュリー氏がエイズで亡くなったときも、衝撃ではあったが彼らしい最期だと妙に納得したのを覚えている。
 


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「ミートマーケット ゾンビ撃滅作戦」-
【2008/02/23 15:19】 映画・・深夜に賑やかさを感じたいときに
エド=ウッド臭さのあるゾンビ映画
 
 

 
 噂によると僅か数十万円で制作したそうなので、ほとんど自主制作の規模であり、ゾンビメイクをした監督自身が作中冒頭に登場して挨拶をするノリも自主制作の気分である。(余談1)それがDVD化されて日本でも一部マニアでウケているわけだから監督たちは幸せ者である。日本ではイマイチ望めない羨ましい制作環境だ。
 
 監督が撮りたいモノを好きなように撮った感があり、スタッフも俳優たちも仕事というよりは趣味の延長で楽しんで制作に参加している雰囲気が滲み出ていて、観ているほうも楽しくなる作品である。
 つまり、これはゾンビ映画というジャンルには入るかもしれないが、ホラー映画ではない。友人たちが自主制作したエロチック・アクション・コメディ・ゾンビ映画を楽しむ感覚で観るべきだ。但し、やはり一応ゾンビ映画なので、人肉を生のまま喰らう場面はきちんとグロク撮れている。ビールや肴を前にして観るのは勧められない。
 
 キャラは定番通り、元特殊部隊で銃器の扱いに慣れているヒーローとその相棒の美女、町が崩壊し助役たちも死体かゾンビになっているのに平常通りの会議を続ける市長に、ゾンビを飼うマッドサイエンティスト。それに加えて新機軸はゾンビに関節技を仕掛けるキレた覆面レスラーに、ノースリーブの黒いレザースーツに身を包んだレズっ気のある女バンパイア三人組が主人公たちと合流してゾンビの大群に立ち向かう。(余談2)
  
 昔の8ミリ映画かビデオ映画の感覚で楽しめば納得できる作品だ。ゾンビ映画はホラーから独立したジャンルなのだと実感させる一品である。
 
(余談1)白いクリームを分厚くゴテゴテ塗りたくっただけかと思ったら、意外にしっかりしたメイクだった。ラテックスか? 
 
(余談2)三人のバンパイアは主人公たちに「ゾンビより私たちバンパイアのほうがスタイリッシュよ」という。たしかに特に美女ではないが黒のレザースーツに白い牙は似合っており、銃を撃つ姿も様になっている。
 さらにお約束?なのか、バンパイアたちはセックス好きで場末のポルノのようにエッチしたりレズったり主人公を誘惑する。
 
 

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「パッチギ! LOVE&PEACE」-
【2008/02/23 03:37】 映画・・深夜に賑やかさを感じたいときに
井筒監督独裁の成果
 
 

 
 監督というのは様々なタイプがあるが、デリケートな政治問題を孕みタブー視されてきたテーマに取り組むには、映画界における一定の地位と、独裁がしける強固な統率力と、様々な醜聞や非難にも堪えうる鉄面皮的主体性と、他者に対する激しい攻撃性がなければ達成できない。(余談1)
 
 でないと、「スパイ・ゾルゲ」の篠田監督のように踏み込みが甘くなって何が言いたいのか不明な映画になったり、「村の写真集」の三原監督のように本当は目前に大きく横たわっている地域問題には敢えて触れない作品になる。周囲の意見に謙虚であったり、及び腰であったり、わがままが言える地位でなかったら、特にこの手の作品に挑戦することは無理だ。
 その点、井筒監督のキャリアと影響力とアクの強さは定評があり、どんなに巧く撮ってもバッシングは避けられない企画に取り組む人材としてうってつけである。この作品のテーマは最初から明確であり、石原慎太郎氏らの「俺、きみ・・」へ反発と対抗心を持っていることも明々白々である。
 
 では、作品としての評価はどうかと言うと、私は前作と同じく及第点と言わざるを得ない。むしろテーマや舞台が大きくなってしまった分、大味になった感がある。
 というのも、前作は妹キョンジャと日本人高校生の恋という判り易いハッキリとした軸があった。ハリウッドの「ウエスト・サイド物語」という雛型もある。ところが今回の場合、幼い息子チャンスを軸にしたのは良いのだが、主人公アンソンと元国鉄職員のエピソードと、妹キョンジャと先輩俳優のエピソード、さらに主人公の父親のエピソード(余談2)へと分散し過ぎたきらいがある。
 これだけ盛り沢山のエピソードをよく2時間でまとめたものだと構成の努力には感心するが、井筒監督がいう「パワーアップ」とは違うだろう。
 
 とはいえ、メジャーな映画人が娯楽作品として在日コリアンという難しいテーマに切り込んだ先駆けとしては好意的に評価する。良くも悪くも井筒監督独裁チームの成果だ。(余談3)
 また、石原慎太郎氏が映画を使って「君のために死ぬ」というのに対し、この映画では「生きろ」と主張するのは、社会のバランスを保つ意味で意義がある。
  
(余談1)珍作「パールハーバー」への反米非難は歓迎。全く同感だ。
 
(余談2)徴兵が決まると真っ先にしたのが坊主頭にすることだ。髪が長いのはおかしい。坊主頭を見て、周囲が「お前、とうとうきたんか」と心の中で嘆いたものだという話を諸先輩から聞いてきたので違和感がある。
 
(余談3)「日本人」として活躍している在日コリアンは大勢いる。名誉毀損の「公然の摘示」にあたるので、カミングアウトした有名人に限って紹介すると、岩城晃一・伊原剛志・松田優作・和田アキ子・金田正一・張本勲・桧山進次郎・徳山昌守(敬称略)と、ざっと浮かんだだけでもこれだけの人々が活躍している。
 「本名」ではなく「日本人名」で仕事をしなければならない社会は、残念ながら在日コリアンへの差別が根強く存在する要素を示したものである。在日コリアンであるのを隠さずデビューした芸能人といえば、ソニン氏くらいだろう。
 今回の作品で、最初から悪意と拒絶感を露にした酷評の多さが、コリアン差別を裏付けてしまった。
  
 在日コリアン問題というと、暴力描写が付き物という風潮に辟易している在日コリアンの友人たちも少なくないことを付け加えておく。
 

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

今日(2月22日)は「猫の日」である。
【2008/02/23 00:02】 日誌・・猫たち
猫の駅長2

 
 貴志川線の駅長たまはどうしているかな? 写真は昨年の桜の季節に連れ合いと2人で貴志川線を観光したときに撮ったもの。


テーマ:日々のできごと - ジャンル:ライフ

「村の写真集」-
【2008/02/20 19:27】 映画・・郷愁を体感して止揚しよう
テーマは良いのだが・・。
 
 

 
 監督は良いテーマに着手された。上海国際映画祭で最優秀作品賞と最優秀男優賞を受賞したのもうなづける。言い方は悪いが、日本特有の渓谷や山村の生活描写と、藤竜也氏扮する背広にリュック姿の写真屋も味がある。それらが審査員にウケたかもしれない。(余談1)
 
 ただ、いまどきこんなまとめ方で済ませて良かったのだろうか? というのも、舞台となった徳島といえばダム問題で揺れた木頭村がある。ダム建設をすれば村全体がダム湖に沈む、木頭村は長らく建設反対派村長をたてて国と県を相手に闘ってきた。木頭村には私の知人がいる。そして私の身内には土建屋もいる。つまり、私は開発する側とされる側の気持ちを知っている人間(余談2)なので、こんな牧歌的描写だけで勝負されると、なんだか浮世離れしているような印象を持ってしまう。(余談3)
 もっとも、日本映画界の現状や徳島県との絡み、そして監督の地位を考えたら、ドロドロとした利害関係は割愛し、無難に美しい山村描写と家族の確執と結束に焦点を絞らざるを得ないだろう。とすれば、2時間弱では長すぎる。90分程度にまとめられたのではないか。
 
 三原光尋監督作品で私が印象に残っているのは、1990年頃に発表した栄養成分表示である。大阪の藤井寺あたりを舞台に女子高生を主人公にした初々しい物語だった。残念ながらヤフー映画サイトのデーターには載っていない。
 
(余談1)映画の舞台となった山村の風景は、私の郷里にそっくりである。映画の舞台は徳島だが、私のところは高知の物部川流域なので文化的にも近い。 藤竜也氏のキャラも昔気質の写真館のオヤジという感じが出て良い。あそこまでステレオタイプに昔気質を演出するのなら、背負うリュックも大型のキスリング(昔の登山家やカニ族が背負う横幅の広い帆布のリュック)にすればインパクトがあった。
 
(余談2)話せば長くなるが、ダム建設は必ずしも治水や発電の「必要に迫られて」つくるわけではない。むしろ第一の目的は土建屋を食わすためである。土建業界には様々な関連業者が裾野広く結びついているので、単なる一業者の利権ではなく地域経済にとって死活問題でもある。だから土建屋と建設推進の政治家は必死である。そのためまず建設ありきだから、ダムによる治水効果や発電などの見積もりは数字合わせのデタラメが多い。
 しかし食うために村一つ潰すことを今後も続けていけるほど国土は広くない。それにダムの耐用年数は半世紀から一世紀、泥がたまるので決壊すれば被害が倍増される欠点もある。村や山河を潰してまで建設する魅力は年々褪色している。
 事は「環境保護VS経済と生活」=「綺麗事VS現実」という単純な図式ではない。
 
(余談3)ダム建設に反対する村民と建設推進の土建業者と県と対立、各々の生活をかけたぶつかり合い、綺麗事の口先だけの現場を知らない推進派の中央官僚と反対派の都会の環境保護運動家、これらの素材をまとめたら確実に欧米で絶賛される映画になる。
 井筒監督がやったら面白いだろう。持ち前のアクの強さと独裁体制で在日コリアンという日本映画界でタブーの素材に挑戦できたのだから、これにも挑戦してほしいなぁ。
 


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「四月危機」
【2008/02/20 12:15】 日誌・・食生活・食文化
4月から小麦の値段が上がるという。原油高だから輸送コストもあがり続ける。あらゆるものの値が急騰するだろう。
 
 我家は豆腐・キムチ・腸詰め・コロッケなどの加工食材を関西よつ葉から、主食の玄米および野菜・精肉などの生鮮食材を大阪愛農から仕入れている。いずれの団体も無農薬・無添加・有機農法・地場流通にこだわる消費者団体だ。
 
 家の近くにイズミヤがあるが、安い駄菓子や晩酌用のヱビスビールを買う程度である。だから、もともと割高の食材を買っているので、一般に流通している食材に比べれば影響はすぐには現れない。
 
 しかし、経済の連鎖は複雑に絡み合ってつながっているので、時間差で影響が出てくるのは必定だ。食糧自給率が今日ほど騒がれている時期はない。

 日本は農業を犠牲にして経済大国になった。日本と同じ敗戦国ドイツは8割程度の自給率を維持しながらの経済発展。
 経済力がいくらあっても、食糧輸出国が干魃になれば、銭を積んでも買うことはできない。しかも今の日本経済はかつての勢いはない。泣きっ面に蜂だ。さらに干魃の原因である温暖化についての対策はアメリカに追従?しているかのようで消極的とくる。
 
 そもそも、今日のような事態、いやもっとヒドイ時代がくることは以前からいわれていた事である。
 
 

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「スパルタカス」-
【2008/02/19 19:21】 映画・・人生に絶望したときに観よう、元気が出るかも
普遍的テーマの傑作ローマ史劇
 
 

 
 ローマ史劇は多数製作されている。中でも有名なのはキリスト教をテーマにした「ベン・ハー」「クォ・ヴァディス」「聖衣」、ローマ帝国衰亡の兆しを描いた「ローマ帝国の滅亡」「グラディエーター」、退廃のローマをポルノチックに描いた「カリギュラ」「サテリコン」。
 その中でこの「スパルタカス」は異色であると同時に、たぶん世界中で共感される傑作だろう。何故なら、前述の諸作品はキリスト教圏の観客が対象だが、「スパルタカス」がテーマとする被支配者の解放と自由は世界中の人々が抱く普遍的テーマだからだ。(余談1)
 
 前半の非人間的で非情かつ過酷な剣奴(余談2)の生活、中盤で主人公がついにキレて反抗し仲間たちも呼応して大規模な反乱へと発展、周辺の奴隷たちがスパルタカスの下へ集まり、剣奴の格闘技知識を生かして強力な「解放軍」が誕生、ローマ正規軍に連戦連勝する。
 しかし、ローマは有能な軍人政治家クラサスがローマ軍全指揮権を掌握し、狡猾な謀略でスパルタカスの友軍を買収して追い詰め、老獪な戦術でスパルタカス軍を攻囲殲滅する。
 
 監督は当時30歳の若きスタンリー=キューブリック氏。至るところに大胆かつ繊細な描写が光る。一見すると肥え太って野卑で成金的な役柄のピーター=ユスチノフ氏やチャールズ=ロートン氏が人間的で現実主義者、潔癖で理想主義者の軍人貴族に扮するローレンス=オリヴィエ氏が冷酷さと虚栄心の固まりの本性を現し、スパルタカス扮するカーク=ダグラス氏の純情で一途に自由を求める姿勢、凛とした瞳の光を見せるヒロインのジーン=シモンズ氏。これら人物設定と相関関係は本来複雑なのだが、組み立て方が良いので判り易い。
 
 特に圧巻なのは、最後の決戦を前にしてのスパルタカスとクラサスの演説が交互に同時進行ではじめられる。クラサスは整列する軍団兵を前にしてローマの威信と秩序と名誉のため勝利することを宣言する。スパルタカスは大勢の仲間を前に深刻な状況を真正直に打ち明け、ローマ軍を打ち破りイタリア全土の奴隷解放をぶち上げる。
 決戦はスパルタカスの大敗となり、スパルタカスをはじめ捕虜は全員磔刑に処される。クラサスに囚われたスパルタカスの妻バリニアは、クラサスの政敵の計らいで脱出し、まだ息のあるスパルタカスに向かって赤ん坊を見せ、腹から搾り出すような低い声で「この子は自由よ。自由・・」と潤ませながらも闘志あふれる凛々しい瞳でスパルタカスを見つめる。(余談3)

 「死ぬことは、自由人たちにとっては楽しい人生の終わりだが、奴隷にとっては苦痛からの解放だ。だから戦に勝つ」の台詞に代表されるスパルタカスの信念と決意は、おそらく世界中で支持共感されるだろう。
 この映画に感動した少年が、後に俳優となり監督して「ブレイブハート」製作を手がけた著名な映画人メル=ギブソン氏の逸話は有名である。
  
(余談1)世界史上でも特筆すべき農民や奴隷の大規模な組織的反乱は、東に中国秦時代の陳勝の乱、西にスパルタカスの乱がある。しかし陳勝は王を号して秦に取って代わる支配者になろうとしたが、スパルタカスは文献を見る限り王になる意志は無く、あくまで奴隷解放とローマからの脱出、故郷への帰還だった。だから、搾取者から労働者を解放する事が建前の共産圏諸国ではスパルタカス研究が盛んだった。
 そういう意味では、ハリウッドが巨費を投じて製作したというのは今から考えると興味深い事件かもしれない。
 
(余談2)殺し合いを見世物にする奴隷。ローマ市民は格闘技か闘牛を鑑賞するかのような感覚で狂喜していた。帝政期になると奴隷ではなく職業として従事するローマ市民も現れる。4世紀中頃からキリスト教勢力の拡大とともに廃れ禁止される。
 
(余談3)日本語吹替えの声優は、まるで「御奉行様、ありがとうごぜぇますだ」に近い語調で台詞を言っていた。不愉快である。やはり、「自由」の概念が市民革命を経験した欧米と、そうでない日本の差なのか? しかし日本でも自由民権運動があるんだけどなぁ。
 
晴雨堂の関連書籍案内
スパルタクスの蜂起―古代ローマの奴隷戦争 (1973年)
 
 


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「ズール戦争」-
【2008/02/18 14:13】 映画・・気晴らしに観る戦争活劇
大英帝国讃歌の「秀作」
 
 

 
 子供の頃に観たときは、アメリカの戦争映画のような派手さは無いにも関わらず妙に心に迫る説得力を感じたものである。史実を映画化したらしく、実在の人物が登場する。
 一概には言えないが、ハリウッドの戦争映画はとにかく派手に鉄砲や大砲を撃つ。そして敵国がアメリカ軍より装備も数も優れていても、一方的にアメリカ軍の銃火で倒れていく。いかにも撃たれるために突撃したり、撃たれるために馬鹿みたいにボーリングのピンみたいに立っていたり、不自然きわまりない場面の羅列である。
 この映画にも、英軍の銃火器によって一方的に撃たれ倒れるアフリカ先住民ズール族の軍勢が描写されるが、ハリウッドのような意図的な不公平描写ではない。というのも、ズール族側に感情移入しても納得のいく戦術であり、ズール族の戦力を冷静に考えれば、英軍に勝つ戦術はこれが妥当だろうと思う。(余談1)
 
 舞台は南アフリカ。英国の植民地支配がすすむ1870年代。ズール族が周辺部族を併呑して大英帝国に対し蜂起するが、当然のこと?ながらイギリス製作のこの作品にそんな背景描写は無い。
 作中では唐突にズール族が敵に豹変して連隊規模(千数百名)の英軍部隊を壊滅させ、別の砦に立て篭もる主人公ら英軍僅か百名がズール族の攻囲に勇敢な戦いをして守りきる。(余談2)意外にもズール族への露骨な蔑視描写は無い。これはアフリカへの配慮か。
 したがって、観客はほぼ英軍の視点からではあるが純粋にズール族との戦闘描写のみを鑑賞する事になる。子供の頃は英軍側に感情移入して観ていたので、ズール族が不気味な軍勢に思えたものだ。ところが面白いもので、社会問題への関心が強くなった学生の頃に観るとズール族視点に変わっていた。
 
 砦の守備隊を守る英軍百名の指揮官は性格が全く異なる2人の中尉で、最初のころは指揮系統に不協和音が生じる。スタンリー=ベイカー氏扮する中尉は野性味溢れる風貌の工兵隊指揮官。場数を踏んでいそうな物腰で的確に指揮をとるのでズール族との戦闘指揮を執ることになるが、傲慢とも思えるほどクセ者。マイケル=ケイン氏扮する中尉は金髪碧眼の白面、いつも身なり正しい上品な紳士で、もともとの戦闘部隊指揮官。エリート風吹かすと思いきや意外に部下想いで兵達の人望が非常に厚い。
 全く個性が違う2人の指揮官に加えて、アフリカをキリスト教で染めるためにやってきた牧師が砦に駆け込んで、兵士らの指揮を削ぐ説教をしたりと、砦は不安材料を抱える。
 
 対してズール族は大軍であるにも関わらず最初から統制がとれていて、最初は姿を見せずに足音だけで威嚇する。姿を現したら整然とした威嚇ダンスで砦の将兵を心理的に圧迫する。囮部隊に攻撃を仕掛けさせて砦に銃撃をさせて兵力を見切り、英軍から奪った銃で丘の上から砦を射撃させ、本隊は戦闘陣形を組んで巧みに波状攻撃をかける。(余談3)攻撃をかけながら威嚇の歌を合唱する。
 これがアメリカ映画なら、おそらくズール族を数に任せてゾンビみたいに突撃させ、勇気ある英軍将兵が銃弾を雨あられと撃ちまくる場面に終始しただろう。
 
 結局、英軍の獅子奮迅の戦いぶりで砦を守り抜き、大英帝国の面目を守ることでハッピーエンドとなる。ズール族は負けを認め潔く去っていく。イギリスでは溜飲下げる名作だろう。当時の映画としては、先住民と白人をイーブンで描こうとした努力のあとがある。(余談4)
 いま同じテーマで映画を製作したら、たぶん双方の視点で描かなければ世界的世論が納得しない。
  
(余談1)記録によれば、砦に篭城する英軍は一個中隊規模百名ほど、軍服は鮮やかな紅色で武器は一発装填式小銃のみ、基本的にナポレオン時代と変わらない。ズール族は数千人、武器は新石器時代から続く伝統的な木製の盾と槍のみ。
 
(余談2)正確には教会の周りにバリケードを築いた簡単な陣地。
 このズール族は別の戦場で英軍との大規模な戦闘を展開、見事な用兵術で勝利し、英軍は師団規模の増派と機関銃を導入して辛勝、これが英国にとってトラウマとなり、後のアパルトヘイト制導入につながったのではないかとも言われている。
 つまり、大英帝国を局地的であれ最初に打ち負かしたのは、中国やインドでもなく、国民国家になりつつある日本でもなく、木製の槍と盾しかもたない部族ズールである。
  
(余談3)ズール族は、中央の部隊が敵主力の注意を引きつけている間に、両翼の部隊が側面へ回り込み攻囲して打撃、さらに後方の予備隊を中央に投入して殲滅。鶴翼の陣に似ている。
 
(余談4)監督のサイ=エンドフィールド氏はチャップリンと同じくアメリカのレッドパージで追われた人物、だからハリウッドの娯楽西部劇とは違って敵味方をイーブンで描いたのか。
 


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「マイケル・コリンズ」-
【2008/02/18 14:03】 映画・・独りで考え事をしたい気分に
IRA創始者の短い一生。
 
 

 
 アイルランド史やIRAなど、大半の日本人には馴染みも無く関心の対象でも無い。(余談1)本来はマニアックなレンタル屋にしか置かないだろうし置いていない部類の映画である。さすがアメリカ大手映画会社が参画し、「シンドラーのリスト」で名をはせたリーアム=ニーソン氏が主演したことで、日本でも容易に観れるようになった。
 アイルランド独立戦争を別の角度で描写した「麦の穂をゆらす風」も近年公開されている。これも合わせてご覧になると良いだろう。(余談2)
 
 アイルランド史に関心が持てない人には、些か解りづらく退屈な作品かもしれないが、L=ニーソン氏の熱演とアラン=リックマン氏の怪演が観られるので、それだけでも価値がある。(余談3)
 予算に余裕が無かったにも関わらず、当時の記録フィルムと違わない光景が再現できていて良い。
  
 ただ、実際のコリンズは金融畑のビジネスマンだった経験を生かして、資金調達や組織管理など実務面で手腕を発揮し若くして頭角をあらわした現実主義者でもあるが、作中ではあまり描写されず、過激なテロリストの側面ばかりが強調されていた。そのため、史実では英国からの屈辱的条件に妥協して自治政府レベルの独立条約に甘んじるコリンズの路線変更が唐突に感じられて観客は呆気にとられるかもしれない。
 同じような理由で、一見すると現実的で穏健風なデ=ヴァレラがなぜ後半で急に過激な言動に転じてコリンズたちの足を引っ張るようになったのかも、描写不足の感がある。
 私としては、観客への迎合はやむを得ないだろうが、やはり内部抗争の部分を丁寧に描いてほしかった。人々の足並みを揃える難しさ、様々な思惑に振り回され神経をすり減らす若きリーダーの悲哀を精細に描写してほしかった。
  
 ラストは史実を知っていても泣かせる場面である。アイルランド民謡風の物悲しい女性の歌声(余談4)をBGMに、コリンズたちは待ち伏せを受けて殺される。殺され方もあっけなく、まるでエキストラが撃たれて倒れたかのような描写だった。
 
(余談1)私も二十歳代の頃は、U2の故郷、ビートルズのルーツの国という程度の認識しかなかった。今でも、アイルランドといえばエンヤかウイスキーかギネスが浮かんでしまう。重たいイメージは無い。

(余談2)他に「アイルランド・ライジング」も手に入りやすい。ジェームズ=ダーシー氏(「エクソシスト・ビギニンズ」)が主演。

(余談3)アラン=リックマン氏はコリンズのライバルになるデ=ヴァレラを演じているが、歳・背格好・風貌とも実物に酷似している。
 対してL=ニーソン氏も実際のコリンズに面影が似てはいるが、二十歳代で独立戦争に参加し31歳で殺される青年革命家には見えず、44歳のL=ニーソン氏はどう見ても壮年だ。しかも貫禄と安定感があるので、ニーソン氏のような風貌なら分裂は起きなかったかもしれない。
 作中で「引退したい」と弱気を吐く場面があるが、若者のクチから発すれば過酷な内戦時代を仕切る羽目となったリーダーの悲劇を反映できるのに、壮年のクチでは当たり前すぎてインパクトが薄い。
 もしニーソン氏が10歳若かったら、デ=ヴァレラの狡猾さと頑迷さとコリンズへの嫉妬心が観客に判り易く伝わったかもしれない。
 
 映画を観て気になったのは、コリンズを主人公に史実を脚色して製作された映画なのでやむを得ないと思うが、デ=ヴァレラを悪役に描きすぎている感がある。しかも彼は歴史上の人物と化したコリンズと違い、つい30年前まで存命していたのだ。アイルランドで賛否分かれた論議が巻き起こったと思うが。
 
(余談4)。



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「レッド・バロン」-
【2008/02/16 20:23】 映画・・郷愁を体感して止揚しよう
「赤い彗星」のモデル
 
 

 
 どちらかというと、第二次大戦モノの方が大量に製作されていて、第一次大戦モノはその影に隠れてしまっている印象を受ける。やはり19世紀的な時代劇雰囲気を色濃く残しているので、第二次大戦のほうが現代史に直結していて馴染みがあり、軍服やメカなども現代戦の基本形なのか格好良く感じるのだろうか? ゼロ戦やスピットファイヤーのファンは大勢いるが、ソッピースキャメルのファンは周囲には居ない。(余談1)
 
 しかし意外なところで、現代の日本アニメに影響を与えている。第一次大戦時のドイツ軍エースパイロット、レッド・バロンだ。直訳すると「赤い男爵」となる。本名のマンフレッド=フォン=リヒトホーフェンが示すように貴族を示す「フォン」が付いている。(余談2)彼が搭乗する戦闘機には全面赤い塗装がほどこされているので、付いた呼び名が「レッド・バロン」だ。ここまで話すと、「ガンダム」に登場する赤い彗星シャアのモデルであるのが判るだろう。(余談3)
  
 レッド・バロンを演じたジョン=フィリップ=ロー氏も面長で白面の上品な顔立ちをしており、真面目で騎士道精神溢れる空の貴公子になりきっていた。これが若き日の野卑なゲーリング(余談4)と対照的で、作品として良い構図となった。
 既に負け戦を自覚して保身に走る軍上層部との対立、育ちの良さと若さから闘い方に理想を追求しようとするレッド・バロン
 基本的な戦術は未だナポレオン時代と変わらないスローな展開、これは空中戦でも同じで、それも巧く表現されていた。アメリカ映画だがアメリカ臭さは感じられず、アメリカにおけるレッド・バロンの思い入れが伝わる作品だ。

 ただ、出演時のフィリップ=ロー氏は33歳頃。実際のレッド・バロンは24歳である。地上にいると若々しくても、戦闘機に乗って飛行帽をかぶると側面の肉が前に移動して些か不細工な顔に見えた。
 ドイツでは年齢の近い俳優がレッド・バロンを演じる映画が最近公開されているようだ。日本でも上映してほしいものである。(余談5)
  
(余談1)ソッピースキャメルはイギリス軍の戦闘機。この時代の戦闘機は複葉機。レッド・バロンの愛機フォッカーは三葉機。
 初めて知ったのは、子供のころよく読んだ英語日本語併記の漫画「スヌーピー」。「スヌーピーの撃墜王」で主人公スヌーピーが自分の犬小屋の屋根の上をコクピットに見立てて第一次大戦の撃墜王になり切る。レッド・バロンの名を知ったのもこの漫画から。
 
(余談2)「平民」も将校を長年務めれば「フォン」を付けることがあるそうだ。93年の「スターリングラード」でドイツ軍の青年将校を演じたクレッチマン氏の役名も「フォン」が付いていたが、代々将校を務めた家系で爵位は無いかもしれない。レッド・バロンは男爵の爵位をもっている。
 
(余談3)アニメのシャア大佐は弱冠二十歳の若造なので、「大佐」がどれだけ偉い地位か知っている人は「ありえねー」と思うだろう。ところがモデルとなったレッド・バロンは二十歳代前半で大尉の大隊長だった。シャアも初登場は少佐、ガンダムの製作者はかなり意識していたか。
 実際のレッド・バロンの顔は、「Uボート最後の決断」の艦長役・「キングアーサー」のサクソン人王子役のティル=シュヴァイガー氏に感じが似ている。
 
(余談4)後のナチスドイツの国家元帥でドイツ空軍最高司令官。地味なファッションを貫いた菜食主義のヒトラーと違い、でっぷりと太った身体を華美な空軍元帥用の軍服で包み美食と道楽に励んだイメージがある。映画でも野卑なキャラで描かれることが多い。
 第一次大戦時は戦闘機パイロット。作中でもレッド・バロンと対立する。
 
(余談5)よく映画化されたものだ。マンフレッドの3歳歳下の従弟はヒトラー政権下で空軍参謀としてスペイン内戦に参加、ピカソの絵で有名なゲルニカの空襲を指導した。第二次大戦時ではなんと40代で元帥に昇格しているところから、ナチ政権への貢献ぶりがうかがわれる。つまり、輝かしい空の英雄を輩出したリヒトホーフェン家にはマイナスイメージもあるのだ。
 
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