2月26日は二二六事件が勃発した日だ。 近頃の現象[一〇七九]
カニヤのネイビー乾パン。 晴雨堂の晴耕雨読な食生活[百八十三]

【雑感】上記写真の乾パンはハートランドを買いに近所の酒屋へ行ったら偶然みつけた。まるでクラッカーを分厚くハードにしたような形状である。
乾パンというと世間では下記写真のような一口サイズで窪み二つのものを連想するだろう。スーパーの菓子売り場や災害用非常食コーナーでお馴染みだ。

小型乾パン。ウィキペディアから参照。
この一口サイズの乾パンは主に旧日本陸軍が採用し野戦口糧にしていたタイプである。「乾パン」は口語で書類上では「乾麺麭」と書いていた。
長期保存できるよう極限まで水分を抜き、調理はおろか水で浸して戻す必要も無く野戦時でも簡単に食べられ、連食しても飽きがこないよう味付けは必要最小限の淡白なものにし、なおかつ携行に便利で大量に輸送できて、運ぶ途中の振動や衝撃にも強く割れにくい、という条件を満たすためあれこれ試行錯誤した末に辿りついた形がこの一口サイズの乾パンである。
現在も陸上自衛隊の戦闘糧食として引き継がれている他、民間の非常食としても根強い人気が有り、スーパーの菓子売り場でもよく見かけるポピュラーな菓子でもある。
私自身、若い頃に行ったチャリンコ日本一周旅行の時はこの一口サイズの乾パンの世話になった。通常は飯盒やコッヘルで飯を炊いたり味噌汁を作ったりするが、炊事用の燃料がきれたりコンロが壊れたりすると非常用携行食ばかりを食べる事になる。
当初は大塚製薬のカロリーメイトが栄養価に優れていると思って食べていたのだが、補助食品とするには値段が張りすぎる。また変に中途半端な味があるのがかえってストレスになった。ところがそんなコンディションになると乾パンの味気なさが威力を発揮する。シャバでは不味くて硬いビスケットもどき(余談1)だが、非日常の野営生活では仄かな小麦とゴマの香ばしさが空腹を和らげ飽きがこない。値段も手ごろ、一口大なので1個まるごと口に放り込め、欠片がポロポロ落ちるなんて勿体無いことも起きない。
さすが先人が練りに練って開発したミリ飯だけある。極めて合理的。
おっと、解説が長くなりすぎた。話を戻そう。この一口サイズの乾パンは世間でお馴染みだが、冒頭で写真紹介した大きなクラッカーを分厚くしたようなタイプは珍しい。
この形は旧日本海軍が採用した乾パンそっくりなのである。現在の海上自衛隊でも似たような乾パンが利用されている。たぶん、製造元のカニヤもそれを意識して「ネイビー(海軍)カンパン」なんて称しているのではないか。下記写真は市販用パッケージのものだが、実は同様の乾パンを「大形乾パン」と称して海上自衛隊に卸している。

カニヤのトレードマークとネイビー・ビスケットの表記がある。
少年時代に図書館で見た海軍兵学校の図説資料に、兵学校の士官候補生たちの日々の食事の配膳写真が掲載されていて、このタイプの乾パンが登場していた。陸軍は合理性と利便性を追及した一口大の乾パンだが、海軍はお洒落に見えた。紅茶にジャムが似合いそうな特大クラッカーか素朴なビスケットのようで、如何にもイギリス海軍をモデルに発展した海軍らしい。
このカネヤのネイビービスケットは、一口大の乾パンよりやや柔らかくて甘味があり、焼き菓子のビスケットにやや近い感じがする。もっと味気ない物を想像していたのだが、けっこう美味い。もちろん非常食として美味いという意味で、これを食べていたら明治のマリービスケットなんか甘すぎると感じてしまうだろう。
実際、普通の焼き菓子のビスケットでは食べ過ぎると砂糖が作用して口の中が粘っこくなるが、乾パンなら口をゆすぐだけでよさそうに感じる。そういう意味でも非常食に適しているのかもしれない。
2歳児の息子はさっそくこの乾パンに興味を持ち、食べさせろと催促する。硬すぎて食べられないのではと思ったので息子の一口サイズに割って与えたら味が気に入ったらしく何度も催促する。変に甘いビスケットやクッキーを食べさせるよりもこの乾パンの方が健康に良く顎を鍛えられるので良いかもしれない。ゴマも練り込まれているし。
さて、なぜ海軍と陸軍とでは乾パンの大きさと形が違うのか。最も大きな理由は輸送方法にあるらしい。陸軍では主に歩兵が食べるので携行に便利である事と、軍用列車やトラックなどの輸送で割れたりしないために、粒状といってもよい一口大になった。
海軍は言うまでも無く艦上任務が主なので最初から軍艦に糧食を積む。トランプみたいな形状は箱詰めしやすく、船倉に積み上げるのに便利だ。
しかしこれは私見なのだが、こういった尤もらしい理由だけでなく、やはり海軍は欧米好みで、その伝統が海上自衛隊にも引き継がれているのではないかと思う。
(余談1)そもそもビスケットは、ラテン語のBiscoctum Panemが由来で、意味は2度焼いたパン。通常のパンよりも水分が少なくて硬くて保存がきくものを指し、狩猟に携行したりローマ軍が糧食として兵士に支給したようだ。
今ではビスケットとクッキーの区別は曖昧で同義語になってしまっているが、もともとは違うものである。しかもビスケットは焼き菓子というよりもかなり昔からミリタリーの臭いがする食品である。
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地震列島 [東宝DVD名作セレクション] 大森健次郎監督 1980年
勝野洋氏主演。乾パンが印象的に登場。



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夫婦別姓、特にフェミニストに言いたい、その論理であれば自分の姓名をまず捨てるべきではないか? 何故なら殆どの人間は自分のあずかり知らぬうちに勝手につけられた名前であるからだ。 近頃の現象[一〇七八]
夫婦別姓を認めない民法の規定は、個人の尊厳や男女平等などの憲法の理念に沿うのか。最高裁が判断することになった。
地裁、高裁で退けられた事実婚の夫婦ら5人の訴えが、最高裁で大法廷に回された。判決はまだ先だが、最高裁は、高裁の判断をそのまま追認するわけではない姿勢を示唆している。
生き方や、家族の形が多様化するなか、例外なく夫婦の一方に姓を変えさせる民法は、もはや時代にそぐわず、柔軟さを欠いている。最高裁は現実をつぶさにみて、考えてほしい。
結婚を機に同姓になりたいと思う夫婦もいれば、そうできない、望まない人たちもいる。……(朝日新聞)
【雑感】朝日新聞らしい着眼点だ。最高裁は大法廷で審議するそうである。大法廷とは長官以下15人の裁判官全員参加を意味し、この場合は何らかの判例変更が視野に入っている。判例維持や上告棄却であれば小法廷で済ます。別姓支持の朝日新聞が色めくはずだ。
だが、多様な家族を認めるべきといいながら、実は別姓派も多様化は認めていないのである。本音では夫婦同姓を嫌悪して同姓という制度を根絶したいはずだ。
広く世間に支持を集めやすいよう多様化を訴え、夫婦同姓か別姓かは選択制にすればいいと意見しているだけで、まずは自分たちの別姓を認めさす事が目的だ。
私は友人の義理で20代半ばから30代後半までの10年余り左翼系・護憲派の市民運動に参加した。そのとき痛感したのは皆さん口ほどに多様化に臨む覚悟ができていないという事だ。基本はあくまで自分たちの存在を世間に認めさせることのみ、逆に自分が他者を認める立場に立たされると無知無理解を暴露させてしまう場面を何度も目撃した。
本来、多様化を許容する行為は強靭な忍耐がいる。あくまで私が出会った複数名(数百人単位)の運動家や運動参加者たちの例だが、多様化を口にしている人間の多くは実は内面に問題を抱えている事が多く、本当は自分の事で手一杯でいざ本当の多様化に直面すると狼狽する。
むしろ多方面から批難される事が多い自民党のほうが多様性に富み多様化を許容する器量が有るのでは、と思ったほどだ。
話を夫婦別姓に戻そう。以前に当ブログで何度か説明したが、姓というのは既得権がある世帯にとっては便利な看板である。既得権とは金銭的財産だけではない。例えば歌舞伎役者の家庭であれば代々受け継いできた文化や技術がそれにあたる。
逆に無産階級であれば江戸時代の庶民が好例で、姓は有っても無くても特に問題は無かった。商人は姓は持たなかったが屋号が姓と同じ機能を果たした。
現状の戸籍制度下で別姓が流行りだすと、いくら選択制でも付和雷同しやすい日本人は一気に別姓が主流になる。中国や韓国では子供は父親の姓を名乗る事になっているが日本では子供も選択制になるだろう。
そうなった場合、名家や資産のある家は同姓を選ぶだろう。その方が便利だからだ。あのアメリカのヒラリー・クリントン氏も当初は革新的に別姓を選んでいたが、夫が政治家の階段を上がる過程で同姓に変更した。そのほうが都合が良いからだ。今や夫の姓で積極的に政治活動を行いアメリカ建国史上初の女性大統領の地位を狙っている。
が、私のような無産階級は別姓を公的抑圧で余儀なくされるだろう。しかし私は無産階級ではあるが、数百年単位で受け継いできた家の文化がある。それを簡単には捨てられない。もし「つまらん事にこだわるな」とうそぶく者がいれば、同じ言葉を回教徒に言ってみろ、ヒンズー教徒に言ってみろ、本貫にこだわる韓国人にも言ってみろ。
本当に多様性を望むのであれば、同姓か別姓かを選択するのではなく、自分の中で両方併存するのだ。
もともと日本人は通名と本名を使い分けてきた。(余談1)日本人に限らず中国や韓国朝鮮など東アジアの文化では普段は本名ではなく通名を用いる習慣があった。さらに日本は幼名と成人してからの名前もあった。
ところが明治に入って日本は国民国家へ脱皮するべく戸籍制度を整備した。近代の国民国家の特徴は国民から徴兵して常備軍を維持する、戸籍は徴兵年齢に達した人口を掌握するのに必要だった。その際、江戸時代のように名前を幾つも持っていては事務処理にロスが生じる。だから現在の家族名である「姓」と個人名である「名」だけに簡略化された。
しかし、複数の名前を使い分ける習慣は一部で残った。芸能人は芸名、力士は四股名、文筆家は筆名という具合に。現代、インターネットに参加している者の多くは「本名」以外に「ハンドルネーム」を用いている。誰もが複数の名前を使い分ける事に慣れているのだ。
それならば、従来の本名を「戸籍名」と位置づけ、「戸籍名」以外にも正式な名前を持てるようにすればいい。あるいはミドルネームの文化が有る欧米のように複数の名前をつなげて「戸籍名」にし、通常の社会活動では簡略化した通名を「本名」として機能させる。
例えばジョン・レノンの息子ショーン・レノン氏の正式名は「ショーン・タロー・オノ・レノン」である。日本人名「小野太郎」が含まれているのだ。
現行の戸籍制度のまま夫婦別姓にしても、どちらか一方の家の文化が蔑ろにされる。何故みんなこの事を軽んずるのか?
特にフェミニストに言いたい。自分のアイデンティティ云々を主張するのなら、まず自分の名前を捨てるのが筋だろう。外国人が日本人に帰化するとか性転換で性別が変わるとかでもない限り、ほぼ全員自分の与り知らぬ所で勝手に名付けられた名前である。真に自分を表す名前を自分で称したいと思わないのか?
勝手に名付けられた「戸籍名」に自分で考えた名前をプラスする、同姓派の保守市民と闘うより、そのほうが平和的共存できるのではないか。
(余談1)我が郷里には坂本龍馬という英雄がいる。この「坂本龍馬」は本名ではない。「龍馬」は通名である。諱すなわち本名は「直柔」である。普段は龍馬を名乗るが目上の人の前では直柔(なおなり)を名乗る。
もし維新後も存命で朝廷に出仕する機会が有ったら、紀直柔(きのなおなり)と名乗ったかもしれない。坂本家は紀貫之の子孫と称していた。



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チェコのKozel(コーゼル)

連れ合いの従姉のドイツ土産。ビールとソーセージ。
2歳児の息子が「御馳走」を見てはしゃいでいる。
【雑感】連れ合いの従姉の娘は「義従姪(ぎじゅうてつ)」というのだろうか? 2年の予定で昨春からドイツ留学している。当然、私は未だ日本に出回っていないドイツビールの土産をお願いした。
こないだ、義従姉、つまり義従姪の母親が様子を見にドイツへ行った。そのお土産が上記写真のビールである。
ビール500㏄1本と香草を練り込んだソーセージ数本。義従姉や義従姪は特にビールが好きという訳ではなさそうなので、日本に輸出されている銘柄を土産にするのではと危惧していたが、幸いにも「Kozel」は飲んだことも無ければ見たことも無い。
ドイツには千数百の醸造所と数千の銘柄があるので、未だ日本には出回っていない銘柄は無数にある。ただ、義従姪の留学先の大学がある地方に「Kozel」てあったのだろうか?
色はピルスナーと同じ黄金色、飲んでみると仄かに麦芽の香りを感じるがややおとなしい芳香のように思える。私が期待していたのはもう少し芳香がきつくてドッシリした味わいなのだが、ドイツのビールにしてはかなり軽い。
調べてみると、なんとチェコのビールだった。ドイツ土産なのでてっきりドイツのビールとばかり思っていたのだが、意表を突く。味は悪くないし、初めて飲む銘柄だし、土産に買うてもろうたので不満は全くない。が意表を突く土産だ。
ラベルの下に表示されている「SVETLY」の文字、なんの意味か調べたら、英語でいう「LIGHT」、つまり軽いビールという意味だ。もちろんバドワイザーやスーパードライに比べたら遥かに味がある。

ラベルにはひょうきんな表情の山羊が前脚でビールジョッキを抱えている図柄が描かれている。ひょっとして「Kozel」は山羊の意味かな、と思ったら、あるウェーブサイトでチェコ語で山羊だそうだ。



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2015年のバレンタインデー。 晴雨堂の晴耕雨読な食生活[百八十二]

チョコレートの包みを見つけるや、もうすぐ3歳の息子は
さっそくはしゃぎだす。
【雑感】今年もバレンタインデーの季節となった。毎度の台詞だが、イベントによって経済が回るのは良い事だ。チョコレート業者の陰謀などと批判して買わないのは勿体ないし経済を理解していない。
さて、例年であれば連れ合いの母親と連れ合いの弟の嫁からチョコレートをいただくのだが、実家から帰ってきた連れ合いの手には赤い包のチョコレート一箱だけだった。2歳児の息子は目ざとく何かの菓子折りと察知して箱を奪い中を開けようといじくりまわす。
チョコレートを息子に分けてやりたいが、幼児にはまだ刺激が強すぎる。私自身も子供の頃は板チョコふた欠片たべただけで鼻血を出したものだ。

赤い包装紙を剥ぐと、中から上品なモロゾフのマークが入ったチョコレートのパッケージが現れる。モロゾフといえば、高級プリンが有名だ。購入した方々はプリンを入れたお洒落なガラス容器を捨てずに食器や一輪差しに転用するという。
私はおもわず「いっぺん、モロゾフのプリン食いたいな。ガラスの容器はお洒落やぞ」とつぶやくと、連れ合いは眉間に皺を寄せ私を睨みつけた。「そのガラス容器を見つけたら、片っ端から放り捨てる!」

さて、箱を開けると上記写真の通りなかなかお洒落な宝石箱のような演出。さすがモロゾフ、このセンスは百貨店勤務の経験がある美しい義理の妹(義弟の嫁)だろうと思っていたら、「私が買うてきたんじゃ!」と連れ合いから叱られた。
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曾野綾子君には「名誉白人」と「名誉男子」の称号を贈ろう。 近頃の現象[一〇七七] 追記・・「名誉男子」という単語を使うのを止めた。理由は本文「追記」参照。
人種隔離許容
産経新聞が掲載した作家の曽野綾子氏のコラムにアパルトヘイト(人種隔離)を許容する内容が含まれているとして、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使が同紙に抗議文を送っていたことが14日分かった。同紙によると抗議文は13日付。(毎日新聞)
【雑感】アパルトヘイト撤廃にため苦難の歴史を味わってきた南アにとっては、曾野綾子氏の主張はトンデモ暴論にしか聞こえない。また旧南アでは経済的関係からアジアの日本を「名誉白人」という称号を与えて白人に準ずる待遇をしてきた。日本人にとって名誉どころか屈辱である。
曾野綾子氏の言動は昔から似非保守で一貫している。原発推進・親米・男尊女卑などなど。あのお歳だから、もはや改心する事は無いだろうし、似非保守の幻想を観ながら天寿を全うしていくのだろう。
前途ある我々は曾野綾子氏に抗議するだけでなく、彼女がどうして似非保守の幻想を見続けていられるのか、その背景を把握して惑わされないようにする必要がある。
何故なら、言葉の肌触りだけで判断しては思想的に弱いのだ。私の同級生でネトウヨになってしまった者は、子供の頃は護憲派の主張を鵜呑みにして、大人になってから転向した。転向した理由は、大人になる過程で護憲派の「矛盾」に気が付き「現実」が護憲派の主張とは程遠い事を目の当たりにしたため、護憲派に対して不信感を抱くようになったからだ。
鵜呑みや請売りの主張には本人の主体性も体験のベースも無いので脆い。私の身近な例としてネトウヨを挙げたが、これは対立する立場のニワカ左翼も同じだ。
昔から「泥棒も三分の理」と言われている。トンデモ論と思ってもそこには一定の正当な主義主張や現実が含まれているもので、だからこそ第二次大戦前夜のドイツ市民はヒトラーの演説を正論と錯覚し、ナチスを支持してユダヤ人迫害に協力した。
曾野綾子氏の「三分の理」は、私が住んでいる周辺にある。大阪府は福祉と国際貢献を理由に外国人移住者を受け入れている。その少なくない外国人世帯は低所得者を対象とした府営団地が受け入れているのだが、以前からの住民とのトラブルを耳にする。
単に言葉の問題ではない。価値観や習慣の摩擦だけの問題ではない。閉鎖的日本人の差別意識だけの問題ではない。以前からの住民が守ってきた日本社会のルール、府営団地のルールを理解しない外国人、これらルールを受け入れ守ることを拒否する外国人に不信感を抱き、やがて敵意に変わっていくのだ。外国人側も日本人に対して不信感と敵意を募らせていく。その結果、住民自治会の運営に支障をきたした場面に私自身が遭遇した事がある。
実際問題、関係が上手くいっているところは、外国人側が「郷に入ったら郷に従う」事を実践している。これは外国人タレントが支持される理由に通じるものがあるだろう。
とはいえ、多くは「郷に入ったら郷に従う」姿勢はしんどいし、受け入れる側もルールを無視された事で態度を硬化させるので、曾野綾子氏が主張する「分けて住む方がいい」に説得性が生まれるのだ。(余談1)
曾野綾子氏の主張の欠陥は、これらを「人種」で括ってしまった事だ。肌の色だけが問題なら、見た目は西洋人とまったく変わり無いユダヤ人はなぜ差別されてきたのか? 西洋人から見れば区別できない日本人と韓国人はなぜ反目してしまうのか?
曾野綾子氏の論理は乱暴で稚拙なのである。現場体験が致命的に乏し過ぎるから、現場を目の当たりにしている私にはトンデモ幻想にしか見えない。(余談2)しかし同じように保守系市民で現場体験を知らず又聞き知識しかない人間は共鳴してしまうだろう。
古(いにしえ)の叡智は素晴らしい。「郷に入ったら郷に従え」「泥棒にも三分の理」だ。
(余談1)ヤマザキマリ氏「テルマエ・ロマエ」に、公衆浴場のルールを守らないゲルマン系の元兵士との摩擦を、現代のロシア人観光客が日本の銭湯で行う迷惑行為とをリンクさせているエピソードがある。
(余談2)曾野綾子氏は「社会進出」をする女性を批判し家庭に入る事を日本女性の伝統的かつ正しい見識であるかのように主張したが、実は専業主婦が定着したのは日本の高度経済成長期である。長い日本の歴史から見ればほんの最近だ。
多くの国がそうであるように、日本もかつては人口の殆どが農民で家族総出で農作業をやってきた。専業主婦なんぞ存在しなかった。
また日本型封建制では女性は家事だけを担っていた訳ではない。家長の夫に代わって、家計の管理権と地域社会での渉外権を行使するという実務権限があった。
現代でも、夫が給料を妻に全額渡し、妻はその中から酒代を夫に渡す風習。仕事で家を留守にする夫に代わって、地域の集まりや住民自治会に参加する風習。これらはまさに日本型封建制である。
会社経営になると、老舗旅館の実務を女将が掌握したり、町工場の会長を夫が担い社長を妻が務めるといった例はよくある。
だから曾野綾子氏の主張は一見すると保守のようだが、実は似非保守で、日本文化を理解していないのである。
【追記】2019年12月31日
現在の私は「名誉男子」の称号を使わない。というのも、SNS上で「フェミニスト」や「リベラル」「反安倍」などを自称する方々が乱用するようになったのだ。
少しでも自論に反論や懸念を述べる女性をみかけると「名誉男性」と「ネトウヨ」のレッテルを貼って誹謗する様が散見されるようになった。言葉もモノの価値と同じだ。大量生産で単価を安くする、供給過多になると暴落するのと同じように、乱用が過ぎると言葉の説得力も低下する。
安倍政権に少しでも懸念を表明すると「パヨク」になったり、フェミニストに懸念を述べれば「ネトウヨ」になったりと、他人様に対して安易に蔑称を貼り付けて否定することが横行されると、当初は痛烈な意味があった単語もただの悪口に成り下がる。
もはや「名誉男子」は使えない。ただの悪口にしか世間は認識しなくなったのだ。
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俺は高収入男と同じ生活習慣か・・。 晴雨堂の晴耕雨読な日常[百九十]
「高収入オトコの生活習慣」チェック4つ
どうせ付き合うなら、そしてどうせ結婚するなら、「高収入な男性がイイ!」と望んでいる女性も少なくありません。
でも、出会ってすぐに「あなたの年収っていくら?」なんて面と向かって聞こうものなら、ドン引きされてしまいますよね。
厚生労働省の発表によって、所得と生活習慣には深い関係があることが判明しています。
そこで今回は同発表を参考にしながら、カレの生活習慣から高収入かどうか見分けるポイントを、4つご紹介していきましょう!(ネタりか Menjoy!)
【雑感】その4つの条件とは以下の通りだそうだ。
・朝食を食べる
・野菜を食べる
・タバコを吸わない
・お酒を飲む
おお! 俺は全部当てはまっちゅう!
朝食は欠かさないし、それどころか出勤の1時間半前に起床している。ゆったりと珈琲を飲んで早朝のニュースを観ながら朝食を食べる。余裕があればblogやTwitterの更新をする。
そしてチャリンコで45分かけて職場へ向かう。朝の風景だけなら俺はセレブだ。
野菜の量は必ずしも多いとは言えないが、好物だ。朝のおやつ代わりにブロッコリーの塩茹でに辛子入りマヨネーズをつけて食べるのが好きだ。カレーライスには人参の塊が沢山入っていないと気が済まない。
職場の社員食堂では食器返却口前に残飯入れ用の大きなポリバケツが置いてあるが、中にはキャベツの千切りが大量に捨てられている。私はいつも残飯は出さない。
煙草はもちろん吸わない。俺は幼少のころ肺を患い、9歳頃まで喘息に悩まされた。水泳とチャリンコで喘息を克服し人並み以上の肺活量を苦労して手に入れたのに、なぜ銭を払ってまで手放さなあかんのや、という思いがあるので嫌煙運動にも関与した事があるほどだ。
土佐人なので酒は好物だ。またドイツビール党なので発泡酒は飲まない。ようするに酒には強いこだわりがあり、アルコールなら何でもという安酒志向ではない。
すごいやんけ。4つとも当てはまっちゅう。しかも単に当てはまっているだけではなく、けっこう筋金入りだ。しかし俺の年収は低所得に該当し、低所得労働者が多く住む格安家賃の府営住宅で暮らしている。この矛盾は何なんだ。まっこと当てにならん。



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暴走する「自己責任論」と「首相責任論」 私はどちらにも与しない。「追及」だけでは虚しい、なぜ「追究」をしないのか? 後編 近頃の現象[一〇七六]
人質対応を評価…読売調査
読売新聞社は6~7日、全国世論調査を実施した。
安倍内閣の支持率は58%で、前回調査(1月9~11日)の53%から5ポイント上昇した。不支持率は34%(前回38%)だった。
イスラム過激派組織「イスラム国」による日本人人質事件を巡る政府の対応が「適切だった」と思う人は55%で、「そうは思わない」の32%を上回った。イスラム国対策として中東諸国への人道支援をさらに拡充するという安倍首相の方針についても「賛成」が63%で、「反対」は26%にとどまった。人質事件への対応が評価されたことが、内閣支持率を押し上げたとみられる。(読売新聞)
【雑感】読売新聞は産経に次ぐ保守系大手なので、安倍内閣支持者が多い。おそらく朝日・毎日・東京で世論調査を実施すると逆の結果になるだろう。
れいの黒覆面のナイフ男の前に引き立てられた映像が全世界に公開された以降の政府対応は、適切というよりも、ISILに振り回されてあれ以外にやりようが無かったと私も思っている。安倍総理をはじめ関係省庁のスタッフたちは蜂の巣を突いた様な騒ぎで寝ずの日々だったろう。
とはいえ、今後のためにも果たして万策尽きたのか、他にもっとやりようがあったのかを検証する必要があり、その事について追究するのは野党の仕事である。ただ、安倍氏を追い落とす事に気を取られて「追及」のみになってしまうと頓珍漢な事になる。
最も多い批判は「安倍氏の中東外遊先がISILの敵対国だったから口実にされた」「イスラエルで支援を表明した事が口実となった」である。
因みに、イスラエル訪問時は対立するパレスチナ自治政府にも訪問し、PLО議長だったアラファト氏の墓前に献花もしているので、私には些か不当な批難に見えてしまう。
最も引っかかるのは、「口実を与えた」という批難である。安倍総理はそれに対して「まるでISILを批判してはならない印象を受ける」という趣旨の反論をし、その当時質問に立っていた共産党の小池晃議員らは論のすり替えと言わんばかりに怒った。
実際に一連の安倍批判はISIL擁護に聞こえるのである。何故なら、安倍氏の一挙手一投足を深読みして「憲法改正に踏み切る気だ」「集団的自衛権を促進させる気だ」といった事柄に結び付ける。私ももちろん安倍氏にはそういう策略はあると思うが、なぜそれと同じくらいにISILの言動も警戒して深読みしないのか?
「口実を与えた」というが、では口実を与えさえしなければISILは日本人を殺さなかったとでもいうのか? なぜISILをそこまで信用できる? 銃を持たず丸腰で取材に入った後藤健二氏を拘束監禁し人質にとった連中よりも安倍総理の方が信用できないというふうに見えるのである。
だから安倍総理の立場だけでなく、保守系市民からすれば、まるでISILを批判してはならない印象を受けても仕方が無いのである。
中には「安倍氏が総理を辞めたら良い」という発言すらある。たしかにこれは人質を助ける意味だけで考えれば若干の効果はあるかもしれないが、その結果ISIL側に日本政府の「人事権」を与えてしまう事になるのだ。一国の総理の罷免権や政策決定権をISILに与えた格好になる事をなぜ恐ろしいと思えないのか?
政府や与党の政策に対して平素から「悪しき前例をつくった」と頻繁に批難するくせに、なぜISILに前例を与える事には無頓着なのか? 残念ながら結果的に「ISIL寄り」のポジションに立ってしまっているのは事実なのである。
野党の追及の中で最もマシな質問をされたのは、どちらかといえば私の嫌いな部類の政治家辻元清美氏である。彼女の質問の仕方は正しい。
さすが早稲田大学在学中に人脈をフルに活用してピースボートを立ち上げ運営してきただけあって、交渉事には明るい。
彼女は「水面下での交渉が勝負なんですよ」と事件が表沙汰になる前段階での政府対応を正した。尤もである。実際にISILは身代金を得るため非公開で脅迫をし、獲れないと判断するとネット上に公開、特に英語を話す黒覆面のナイフ男の前に跪かされたら全員殺されているので、殺す予定が決まった人質を公開していると見ていいだろう。彼女もそれを踏まえての事だ。
これはどの仕事でも言えることだが、再発防止には問題の抽出が不可欠である。安倍総理は「その批判は当たらない」と反論しているが、仕事というものはおうおうにして「一生懸命やったつもり」が多く、実際に行動を検証してみればけっこう無駄な動きや的外れな動きがあるものである。
安倍総理らの行動や方法を検証し、何がいけなかったのか、何を省けて何を行うべきだったのか、果たして限られた条件下で最良の方法だったのか、その検証と対策をとらないと同じ局面に立たされたらまた同じ結果になる。(余談1)
たとえ憲法9条を弄って自衛隊を自由に国外へ動かせられるようにしても、運用者が反省も検証もしなかったら同じ事だ。軍隊を議会の承認を待たずに大統領の命令で動かせるアメリカでさえもISILからの人質奪還作戦は不発に終わっている。
(余談1)若いころ、私はQC活動の社内研修で講師役の上司から以下の例文を渡された。
「私どもは不良品を出さないため2重3重のチェックを行っていますので、御社に不良が納品される事は無いと思うのですが。今後、再発させないよう一層の努力をいたします。申し訳ありませんでした」
上司は「この謝罪文を読んで、もうこの会社とはもう取引をしない方向で段取りをくむ。何故かわかるか?」と質問してきた。私も含め受講する新人は誰も即答できなかった。
的確な答えが出ないことを確認してから上司は以下の問題点をあげた。
・文面の前半で、不良が発生しそれがチェックを通り抜けてユーザーに渡ってしまった原因の特定がなされていない事が暴露されている。
・さらに「御社に不良が納品される事は無いと思うのですが」から、自分たちに責任がある事を未だ認めていないため、具体的に原因の抽出と対策がとる意志が感じられない。抽出作業と対策がとられる事はおそらく無い。
・「再発させないよう一層の努力をいたします」と漠然と言われても、従来のやり方のまま努力しても再発のリスクは消えないまま。
・最後に陳謝しているが以上の事から口だけの謝罪で事実上謝っていない。
私がこの講習を受けたのは20歳代。今の製造業の現場ではさらに徹底した活動がなされているので、上記はまだ基本中の基本である。ところが、陳謝文と同レベルの環境がまかり通っている所がある。それは政治や医療など、綺麗事が前面に立ちやすい業界だ。



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暴走する「自己責任論」と「首相責任論」 私はどちらにも与しない。危険地域に行くジャーナリストを擁護する。前編 近頃の現象[一〇七五]
「後藤健二さんの不存在は、
ジャーナリズム界の損失」
私にとって、後藤さんは、紛争地取材の大先輩でした。ジャーナリスト歴だけで言えば、私の方が先輩なのでしょうが、戦場取材、紛争取材では彼の方が大ベテラン。リビアやレバノンでの取材でご一緒したとき、彼は、「リスクを冒すにはあまりに危険な取材」と、「リスクを冒す価値のある、そこそこ危険な取材」を峻別する力を持っていました。そんな彼がなぜ……という思いが付きまといます。
今回、朝日新聞記者が、外務省の勧告を無視してシリアに取材に入ったと、読売新聞と産経新聞が批判的に報じています。大新聞の記者が、「危険だから取材に入らない」という態度であったなら、誰が報じるのでしょう。だからこそ、後藤さんの不存在は、日本のジャーナリズム界にとっても損失なのです。(ハフポスト日本版 池上彰コメント抜粋)
【雑感】長い記事になりそうなので2回に分けて論述する。まず、「自己責任論」派からの批難に晒されている後藤健二氏を弁護したい。
前提として知っておかなければならないのは、政府が危険だから止めろと言われて「はい、わかりました、仰せに従い行きません」と言って取材を中止してしまったらジャーナリスト失格である。ジャーナリストとはそういう職業である。そして建前であれ国民の側に立つ第四権力として時の政府を監視する使命を帯びている。
これは近代民主主義の成立とともに発展したジャーナリズムの伝統である。国民主権の民主制とジャーナリズムは不可分のセットである。
戦場取材は特にジャーナリズムの意義を問われる。戦争とは、国家が伝家の強権を振るう事に踏み切った究極の政策であり、多くの人命が一度に失われるからだ。権力監視を使命とする言論機関としての最重要業務だ。
政府に落ち度が無ければいいのだが、自軍側の取材だけでは時の政府の政策のPRに加担する事になる。対立する側からの取材も必要となっていく。それができるかできないかは、ジャーナリストが所属する国家の民主主義度と言論と表現の自由度、引いては国そのものの国力の充実度を表す。ジャーナリズムが圧迫されている諸国を眺めれば、ジャーナリズムの充実度と国力の充実度がほぼ正比例している。
したがって、保守市民であればなおさらジャーナリズムを圧迫するような事があってはならんし、それを否定するような言動は国を衰亡させると悟らねばならない。
後藤健二氏の行動はこのジャーナリストの伝統に則っている。特に日本のメディアは「社員の安全確保」と「外務省の通達」を理由に問題地域から特派員の引き上げを行っている中で、頼りになるのは会社の縛りが無い後藤氏のようなフリーランスである。
彼は現場で目にしているはずだ。ジャーナリズムの先進国であるアメリカやイギリスの大手メディアが現地入りしているのに、日本では自分のようなフリーランスしかいないという事を。
池上彰氏のコメントもそういった背景がある。
私個人の意見は、後藤氏も私と同じく齢40代後半を過ぎてから子供を授かった父親の身であるので、紛争地域の子供達の事よりも自分の子供の事を優先してジャーナリストから足を洗うべきだった。
ただ、彼の行動を蛮勇と批難するつもりは無い。中東に詳しく経験も積み上げ現地との人脈も築いてきた彼としては、業界のポジションとして行かざるを得なかっただろう。先に殺された湯川氏が中東入りする際には助言を与えたらしく、その事で責任を感じていたとも聞いている。行かなかったら行かなかったで、たぶん仲間や同業者から批難されたと思う。
こういった事情を考えると、一部である「名誉欲」や「金銭欲」でシリア入りしたと括る批判意見には賛成できない。それらの野心が無かったと言い切るつもりはないが、既に中東に慣れた欧米のジャーナリストたちが殺され、ジャーナリストだけでなく現地で人道支援をしている欧米のNGОスタッフも大勢拘禁されている状況ゆえ、火中の栗を拾う覚悟だったと察する。
仲介者やISILに近い人物をガイドに立ててISIL支配地域に入ったのも古くから使われているセオリーの一つではある。 例えば、60年代に本多勝一氏が南ベトナム解放戦線を取材するときは、仲介者を通じて解放戦線側に連絡を入れ、応対に出た若い中隊指揮者と待ち合わせて解放戦線が実効支配している「解放区」へ入った。
またアメリカ南部のアフリカ系住民を取材するときは同じアフリカ系の案内人とともに現地入りしている。突然、単身で行けば他所者の敵性人物と見なされる恐れがあるが、取材対象者と近い人物と一緒に行けば「味方」と見なされやすく安全が確保される。(余談1)
報道によれば支配地域に同行したガイドがグルだったらしい。これでは後藤氏も手も足も出なかっただろう。ISILはジャーナリズムを否定する、単純に人質(カモ)としか見ない。これはネット社会の副作用だ。自前でPRを拡散できるのだから、余計な事をするかもしれない他所のメディアは要らないのだ。
政府は今回の人質事件での批判に「懲りた」のか、勧告や通達だけでは良くないと考え、これも伝家の宝刀ともいえるパスポート返納の命令権を示した旅券法第十九条を持ち出した。
十九条に挙げた該当例「旅券の名義人の生命、身体又は財産の保護のために渡航を中止させる必要があると認められる場合」を根拠にシリア行きを計画していたフリーカメラマンにパスポートの返納を命令した事がニュースになった。
たしかに合法なのだが、こうなってくるともはやISILの支配地域で住民たちがどんな状況になっているのか判らなくなる。ISIL支配地域に行けるのは、特殊訓練をした軍の情報機関しかないだろう。脱出者からの情報やアメリカを中心とするメディアからの情報で推察するしか手が無い。アメリカもよくプロパガンダで情報操作だけでなく創作までする事が知られているから、逆にISIL擁護派に反論の余地を与えてしまう。
例えば北朝鮮が何か酷い事をやっているらしい噂は以前からあったが、噂だけだと北朝鮮支持者からの反論で打ち消される。潜入取材などのルポがあればこそ説得力があるのだ。(余談2)
だから、素人の渡航制限はやむを得ないとしても、ジャーナリストは敢えて認める度量は国家として必要だ。
一方で一連の安倍批判も見当違いがある。(後編に続く)
(余談1)この取材時では車での移動中に何者かから銃で狙撃されている。まさしくピーター・フォンダ主演「イージーライダー」の世界だ。
(余談2)とどめは拉致被害者の帰国だった。彼ら彼女たちの帰国までは、北支持者たちは「かりにも国家が仮面ライダーに登場する悪の秘密結社ショッカーみたいな事するか! 危険と労力を払って平凡な一般市民や学生を少人数拉致するなんて荒唐無稽で漫画チックや」と一蹴された。
ところが事実だった。



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「キング・ナレスワン ~アユタヤの勝利と栄光~」 ストレス解消活劇〔88〕
~アユタヤの勝利と栄光~」
大迫力のスペクタクル影像!
【原題】ตำนานสมเด็จพระนเรศวรมหาราช
【英題】KING NARESUAN PART2
【公開年】2007年 【制作国】泰国 【時間】169分
【監督】チャートリーチャルーム・ユコン
【制作】
【原作】
【音楽】リチャード・ハービー
【脚本】チャートリーチャルーム・ユコン
【言語】タイ語
【出演】ワンチャナ・サワッディー(ナレスワン王) ノパチャイ・チャイヤナーム(ブンティン) タックソーン・パックスックジャルーン(マネーチャン) ソーラポン・チャートリー(マハーテラー・カチョーン僧都) インティラー・ジャルンプラ(ラーキン王女) 矢野かずき(山田長政)
【成分】かっこいい スペクタクル セクシー ファンタジー ロマンチック 勇敢 時代劇 タイ 16世紀後半
【特徴】タイが制作した壮大な歴史巨編。主人公はムエタイの創設者として神格化されているナレスワン王。
5部作シリーズの内の2部目が本作で、ビルマの属国に甘んじている自分の国を分離独立を達成させるべく挙兵する。
ナスワレン王に侍る王女や王の乳兄弟と行動する姫がめっぽう強くて美しい。
【効能】銃撃戦やチャンバラを大スケールで描かれているのでストレス解消。ムエタイを学びたくなる。
【副作用】歴史に詳しい人は考証無視に不快感。観ていて暑苦しくなる。
下の【続きを読む】をクリックするとネタバレありの詳しいレビューが現れます。記事に直接アクセスした場合は、この行より下がネタばれになりますので注意してください。
昨今の時代の変化が怖い。 近頃の現象[一〇七四]
イスラム国、動画公開
AFP通信は4日、過激組織「イスラム国」が人質に取っていたヨルダン空軍のパイロット、モアズ・カサスベ中尉を焼殺したとする動画を公開したと報じた。信ぴょう性は確認されていない。(時事通信)
【雑感】2015/02/01付の当ブログ記事コメント欄で私はヨルダン空軍パイロットの生存も怪しいものだと言ったが、その通りのようだ。先月3日の段階で「火刑」の形で殺害されていたようである。
動画は極めてハイクオリティ、まるで映画かミュージックビデオのような鮮明画像。瓦礫の街をカサスベ中尉が歩く。今や死の象徴となったオレンジ色の囚人服を着ている。顔は無精髭を生やしており、殴られた痕がある。中尉の周囲を揃いの小奇麗な戦闘服の「兵士」たちが整列して取り囲む。中尉はそのまま檻に入れられ火がかけられたそうだが、私はその先を見ていない。これが先月3日の出来事らしい。
事実だとすれば恐ろしい。
オレンジ色の囚人服が死の象徴になったのは、捕虜は人質は全員囚人服を着せられているらしいのだが、過激派組織ISILのメディアで世界に公開されると、ほぼ殺される運命にある。そしてアーミーナイフを持つ黒覆面の男の前にひざまずかされると、今のところ後藤健二氏をはじめ全員助かっていない。
はなっから解放する気は無かったのではないか。後藤氏と交換に死刑囚を釈放しろとも言っていたが、後藤氏もカサスベ中尉も殺したら死刑囚の命が無い事は予想できたはず、死刑囚を最初から助ける気は無かったのではないか。
殺す予定は決まっていて、効果的かつ劇的に魅せるように殺す順番も計算されていた可能性がある。日本人人質の場合、日本の報道を観察しながらどちらがより重要人物かを見極め、まず無名の民間人湯川氏をあっけなく血祭りにあげ、その後で日本では著名な後藤氏を希望を持たせるかのように焦らせて殺す。
目的は現在のおぞましい社会情勢をつくり上げ自分たちの存在をアピールする事、ヨルダンでは結果的に後手に回ってしまった政府を批難する声も大きくなっている。
「戦場ジャーナリスト」が死亡する、あるいは殺されかかった例は昔から多くあった。
ロシア革命を取材したジョン・リード氏は命は落とさなかったが赤軍兵士に拘束された時にあわや銃殺されかかった。
ロバート・キャパ氏は日本訪問中にインドシナ紛争(余談1)の報せを聞き急遽ベトナムに渡り、取材中に地雷を踏んで命を落とした。
キャパとはマグナム(余談2)つながりのユージン・スミス氏は第二次大戦中に日本軍の砲撃で重傷、さらに戦後は水俣病取材のため千葉県にあるチッソ株式会社の工場を訪問した時に従業員たちから暴行を受けて脊椎を折り片目を失明する重傷を負った。
ベトナム戦争の象徴ともなった幼子を抱えて川を渡ろうとする母親の写真でピューリッツァー賞をとった沢田教一氏はカンボジア内戦の取材中に殺された。
一ノ瀬泰造氏もカンボジアを取材中にポル・ポト派に拘束され処刑。
このようにジャーナリストは昔から死と隣り合わせであり、後藤健二氏もまたその事は肌で感じていたはずである。少なくとも安全な日本に住む世間の方々よりは遥かに熟知し覚悟していた。
だが、流れ弾にあたるとか、敵とみなされて即座に殺されるリスクは予想していたと思うが、所属国が金持ちで身代金が獲れそうだからという事で拉致し、金が獲れないと判ると今度は政治的工作のために頃合いを選んで殺す、そこまでシビアな相手である事はさすがに読み切れなかったのかもしれない。
もう、かつてのような牧歌的な世界は戻ってこない、そう思ったほうが良いだろう。
(余談1)この時は完全独立を勝ち取ろうとするベトナム側と第二次大戦中に失った植民地ベトナムを回復させようとするフランスとの戦いである。
(余談2)第二次大戦終了後まもなく、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デヴィッド・シーモアのフォトジャーナリスト4名で結成された。世界で最も著名な写真家集団であり、報道写真の分野で高い実績がある。
現在の会員数は正確な数字は忘れたが50から60名ほど、ニューヨーク・パリ・ロンドン・東京に支部がある。ユージン・スミス氏はロバート・キャパ氏が54年に殉職した後の57年から会員になっている。キャパより5歳年下。



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今年の恵方は西南西。 晴雨堂の晴耕雨読な食生活[百八十一]

【雑感】バカバカしい風習だが、日本経済のためにはこういったイベントは必要である。経済のために、敢えてバカバカしいと解っていながら馬鹿を風流に楽しむ。
一部では「恵方なんぞ根拠は無い」だとか、海苔屋と寿司屋が仕組んだ商売だとか文句ならべて否定する輩がいるが、縁起物のイベントをつくって経済を回す事は世のため人のためである。景気が良くなればトータルで人助けになる。
ところで、手前の方位磁石にピンときた人はおそらくアウトドア関係かミリタリー関係の人だろう。正確に方位を割り出せるスウェーデンのシルバーコンパスである。写真のはオリエンテーリング競技用コンパスである。NATO軍で使用されている軍用コンパスも形状はほぼ同じ。軍用の方が目盛が多いくらいか。買ったような気がするのだが、手元には競技用しかない。
ついでに言えば、巻き寿司もゼロ戦パイロットが「航空弁当」と称してよく食された。もちろん丸かじりである。操縦桿を持ちながら片手で手軽に食べられる料理として、握飯よりは巻き寿司が便利だったのだろう。塩と酢が効いた寿司飯を使うので普通の御飯よりは傷みにくいし干瓢や菜っ葉や高野豆腐など握飯よりもおかずを何種類か巻くので栄養価の面で有利、海苔で巻くから持ちやすい。
そう考えると、上記写真の組み合わせばけっこうミリタリーだ。



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後藤健二氏を殺害しても「イスラム国」には利益は無い。やはり信仰は怖い。 近頃の現象[一〇七三]
菅義偉官房長官は1日早朝、緊急に記者会見し、過激組織「イスラム国」に拘束された後藤健二さんが殺害されたとみられる動画の公開について、「非道、卑劣極まりない。激しい憤りを感じている。断固非難する」と述べた。また、関係閣僚会議を速やかに開いて対応を協議する方針を明らかにした。 (時事通信)
【雑感】かつての反政府組織であれば、ジャーナリストを下手に殺さない。特に後藤健二氏のように中東文化にシンパシーを抱いているような人物はむしろ厚遇して味方に引き込み、米国中心の世界秩序に反対する記事を書いてもらうよう仕向ける。
だが、「イスラム国」は最初から殺す事を視野に入れて人質にとっている。問答無用だ。それがかりに自分たちの不利になる事であっても実行してしまう。脅しはやらない。本当に殺してしまう。
ネットを駆使して世界の世論に巧みな政治戦や謀略戦を仕掛ける一方で、自分たちの教義や方針に忠実だ。たとえそれが破滅を招くかもしれないものであってもやってしまう。
日本政府は取り敢えず手垢まみれの雛型声明を出すだけ、当然の事ながら政府批判が噴き出す。批判に対処するべくアベちゃんたち右派政治家は「だから憲法改正と集団的自衛権は必要なのだ」と叩き込む。
「イスラム国」にしてみれば、日本はアメリカに賛同している振りをして軍隊は出さないポジションからヨルダン軍と同じように空爆に参加せざるを得ない状況へと追い詰めつつある状況なので、これは「イスラム国」にとっても不利益なはずだ。敵の戦力を増やすのだから。
だから信仰は怖い。日本もかつては過度に天皇制への信仰を強めてしまった事で破滅を招いた。日米開戦については戦術的にも戦略的にも当時から問題視されていたが天皇陛下への不忠をでっち上げられ思考停止させしまう。
左派市民も理性的な社会運動だったはずが、反日教のような信仰にすり替わり朝日の従軍慰安婦でっち上げへと発展する。国益損失どころの問題ではなく、日本人への偏見を増長させ信用を損なう未来への禍根をつくってしまった。
信仰は怖い。ニュートラルに振る舞おうとする人間がまた過ぎたる信仰心の攻撃目標にされるから厄介だ。



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白鵬発言、早々に手打ちか。 近頃の現象[一〇七二]
スマステで批判問題を謝罪
「多くの人々にご迷惑をかけ、お詫びしたい」
横綱白鵬(29)=宮城野=が31日、テレビ朝日系「SmaSTATION!!」に生出演し、審判部批判問題について謝罪した。(デイリースポーツ)
【雑感】早々に手打ちか。
以前の協会であれば、親方と横綱の二人が黒紋付袴姿で理事長や審判部長のもとに出向き、時代劇のように正座して最敬礼の謝罪をしなければならないところだろう。
今回の件では、北の湖理事長は電話での謝罪で許した。さすがに伊勢ケ浜審判部長は直接謝罪に訪れた宮城野親方を厳しく叱責したようだが、横綱白鵬本人を呼び出して注意する事はしないと決めたようだ。理事会や師匠会の議題にも挙げないことにした。協会側も「横綱」という地位に敬意を払った形だ。
シャバでは民族差別問題に絡めれば世間の支持を集めやすいが相撲界では通じない。白鵬の先輩たちが直面したあからさまな外国人差別言動をこの期に及んで協会幹部たちがすれば闘いやすいだろうが、今は外国人力士で相撲界が成り立っている面が大きいので協会側もそこは慎重だ。
また内心ではムンフバティーン・ダワージャルガル氏(白鵬の本名)に対して差別意識はあったとしても、大相撲という日本文化を守る使命感を持つ協会は「横綱」という地位に敬意を払う。協会が横綱に対して罵声を浴びせたり殴る蹴るをすれば、協会自ら「横綱」の価値を下げる事になり、引いては相撲文化を否定してしまう事になるからだ。
民族差別問題に絡めるよりは、立行司の待遇改善を主張したほうが通りやすかったと思う。名誉ある立行司の判定が、力士あがりの審判部で覆されるのは日本文化として不条理であり下剋上だ。
天皇陛下が伊勢神宮を参拝する際は祭主(伊勢神宮の神職最高位、宮司の上席)に敬意を払う、それを考えれば協会は立行司を粗末に扱いすぎている。大相撲は単なる格闘技ではなく伝統文化であり神事でもあり行司はその祭主、白鵬がこの理屈を並べれば、相撲界からも支持者を得られた。



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