「東京維新の会」発足へ。 また「維新」の乱立か?ええ加減にせぇいよ。 近頃の現象[一一九八]
「橋下新党」に同調、
都議ら十数人が参加
維新の党の分裂騒動に伴い、橋下徹大阪市長らが結党する国政政党「おおさか維新の会」に同調し、維新の党東京都総支部所属の都議や区議ら十数人が新たに地域政党「東京維新の会」を発足させることが30日、維新関係者への取材で分かった。都議の柳ケ瀬裕文氏が代表となる見通しで、近く表明する。(産経新聞)
【雑感】また「維新」の乱立か? 懲りへん連中やのう。「維新」という単語をこれほどライトに貶めたのは橋下氏とその関係者たちをおいて後にも先にも居ないのではないか。
「維新」というのは大和言葉で「これあらた」と読む。この言葉自体には単に物事を新たにする程度の意味しかないのだが、維という文字には繊維の維だけでなく、「国家の大綱」の「綱」と同じ意味もある。
つまりどういう事かというと、「国家の有り様を新たにする」という意味が「維新」という言葉に込められている。それならば「維新」の単語を政党の看板に掲げる事は不自然ではないと誰もが思うだろうが、話はそれだけでは無い。
国家の有り様を新たに変えるという事は、選挙による政権交代が無かった時代は頻繁に血生臭い革命や謀反やクーデターの類が行われてきた。
古くは大化の改新による中大兄皇子らのクーデター、彼は事件の直後に字は違うが読み方と意味はほぼ同じ「惟新」の単語を用いていた。
江戸時代、平戸藩が藩校「維新館」を建てた時は幕府は「不穏当」と不快感を表し詰問したところからも、「維新」」には武力による社会制度の変更というニュアンスが含まれている。後の明治維新や、二二六事件の青年将校たちが唱えた昭和維新にいたっては説明の必要は無い。維新イコール流血革命は同義語なのだ。
そんな言葉の意味を知ってか知らぬか、幕末明治維新に憧憬を抱くような文化人や政治家たちは「維新」を使いたがる。これによって、「維新」の言葉のニュアンスは随分軽くなったというより、矮小化されたような感を抱く。
もはや、維新にまつわる血腥さや硝煙の臭いどころか、変革や改革や刷新といった能動的なイメージもなく、国家の大義の前には取るに足らぬ動機で徒に内輪喧嘩をするイメージ、胡散臭さしか感じなくなった。



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「女性の下着100年間の歴史を3分で」を観ていると「タイム・マシン 80万年後の世界へ」を思い出す。
【雑感】巷で評判らしい。
この動画を観ているとある映画を思い出す。1960年公開の映画「タイム・マシン 80万年後の世界へ」だ。19世紀末の科学者である主人公がタイムマシンに乗って未来へ行く場面で、マネキン人形に飾られていた婦人服が次々に変化していきスカートの丈が短くなっていく描写がある。
ただ、流行下着百年の歴史を見ると、必ずしも時代を下るごとに露出度が多くなるとか、より裸に近くなるとは限らない事が判る。それよりもこの動画では紹介されないが、バリエーションが豊富になっていくことが感じられる。
というのも、ブラとショーツの基本形は第二次世界大戦前に確立している。あとは下着に用いる布の量が増減する程度だ。また、最初に紹介されたシミーズの原型のような下着も決して絶滅した訳ではなく現在も着用されているのではないかと思う。
男性の下着は基本的に上はTシャツかランニング、下はブリーフかトランクスで一定している。(余談1)女性は男性よりも凹凸がある体型なので衣服のデザインにバリエーションを増やしやすいのだろうか?
(余談1)百年より以前になれば、日本では褌になるし、欧米ではパンツなしかワイシャツがパンツ代わりになるかだ。かつてワイシャツは乳幼児用の衣服みたいに裾を股間でボタン留めできるようになっていた。現代のワイシャツの裾が前部と後部が長めで脇が短くなっているのはその名残り。
晴雨堂関連記事案内
「タイム・マシン/80万年後の世界へ」 ストレス解消活劇〔21〕
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「コンラック先生」 家族と一緒に考えよう〔28〕
アンジーの父親が
若き日に演じた「金八先生」。
【原題】Conrack
【公開年】1974年 【制作国】亜米利加 【時間】106分
【監督】マーティン・リット
【制作】マーティン・リット ハリエット・フランク・Jr
【原作】パット・コンロイ
【音楽】ジョン・ウィリアムズ
【脚本】アーヴィング・ラヴェッチ ハリエット・フランク・Jr
【言語】イングランド語
【出演】ジョン・ヴォイト(パット・コンロイ) ポール・ウィンフィールド(マッド・ビリー) マッジ・シンクレア(スコット校長) ヒューム・クローニン(スケフィントン) ティナ・アンドリュース(メアリー) アントニオ・ファーガス(クイックフェロー)
【成分】かわいい コミカル 切ない 悲しい 楽しい 泣ける 笑える 小学校 アメリカ サウスカロライナ 1970年代
【特徴】今やアンジェリーナ・ジョリーの父親として有名なジョン・ボイド氏が若い頃に演じた良心的熱血小学校教諭。
原作者パット・コンロイ氏の教師時代の体験をつづった自伝らしい。
アメリカ南国の離島で、絶望的な教育環境に置かれているアフリカ系児童を救おうとする型破りな教師の奮闘を描く。
予定調和的な綺麗事に終わると思いきや、ジョン・ボイドの一生懸命な演技が教師の空虚な綺麗事に説得力を持たせている。特に児童たちに楽しいハロウィンを体験させようと奔走したり、別れの桟橋では見送りに来た児童たちの前でいつもよりもテンション高めに最後の授業をする様は目頭を熱くする。
【効能】教育問題について考えるきっかけとなる。アメリカ社会の病理を垣間見る。
【副作用】偽善と社会の空虚さしか感じられない。
下の【続きを読む】をクリックするとネタバレありの詳しいレビューが現れます。記事に直接アクセスした場合は、この行より下がネタばれになりますので注意してください。
高知県知事尾崎正直氏無投票で3期目突入。 近頃の現象[一一九七]
2例目の連続無投票―高知知事選
任期満了に伴う高知県知事選が29日告示され、午後5時に立候補の届け出を締め切った結果、無所属で現職の尾崎正直氏(48)以外に届け出はなく、無投票で尾崎氏の3選が決まった。(時事通信)
【雑感】大阪府民なので関心は来月の府知事選に向かわなければならないのだが、多少は郷里の知事選が気になる。
長期政権だった橋本大二郎氏の後に知事席に座ったのが当時40歳の尾崎正直氏だった。学年でいうと私より二級下の若さである。
帰省すると下記のポスターをよく目にした。現在は「リョーマの休日」キャンペーンは終わって「高知家」に変わり広末涼子氏がメインになっているが。

言うまでもなくオードリー・ヘップバーン氏とグレゴリー・ベック氏が主演した「ローマの休日」のパロディである。坂本龍馬に扮して後部荷台に若い女性を乗せてニヤけているのは知事の尾崎正直氏だ。
黒紋付きの正装になっているのは、現存する坂本龍馬の写真に忠実なのだろう。よく小汚い素浪人風体が龍馬のトレードマークとなっているが、実は世間で最も多く出回っている写真館撮影の龍馬は黒紋付きを着用しているのだ。下着は白い襦袢だし、袴は縦線が入った仙台平っぽい。前が肌蹴てだらしない感じがするので素浪人イメージが強くなったが、かなり改まった格好で写っているのだ。
素浪人姿を嫌がるファンは地元ではけっこういる。これは西郷隆盛の銅像と似ているかもしれない。上野の西郷さんは着流しで犬を連れている姿だが、鹿児島の西郷さんは陸軍大将の軍服をかっちり着た威厳ある姿だ。
龍馬の等身大フィギュアを何十点も制作して龍馬の生涯を描写した記念館ではもちろん黒紋付きを着ている。大河ドラマ「龍馬伝」の最終シーズンでは主演の福山雅治氏も高知を意識してか黒紋付きを着用した。
さて、話を知事に戻そう。
この知事、あまり悪い評判を聞かない。橋本大二郎氏も40代半ばで知事になり、しかも高知出身では無かったことから批判はいろいろあったようだが、改革志向の保守には好意的に受け入れられた。
尾崎正直氏もイメージとしては橋本大二郎路線を継承しているように見えなくもない。
今回の選挙では尾崎正直氏は安全保障問題で自民党政権の方針に理解を示していることから、共産党は対立候補を立てると思っていたが、結局断念した。
県下の共産党勢力は決して弱くは無い。何しろ自由民権運動のメッカでもあり、県内には民権史跡が沢山あって観光名所としているのだ。もちろん、幸徳秋水をはじめ現代から見ても過激な左翼を紹介する史跡もある。市内にある立派な西洋風建物の高知市立自由民権記念館などは世界的にみても女性解放の先端を走っていた植木枝盛の記念館ではないかと思うほどだ。なのに立候補を見送った。
「龍馬伝」効果で観光収入が激増し、続いて「リョーマの休日」や「高知家」なども一定の成果があるように聞いている。失政の決め手を見つけられなかったようだ。



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本が売れぬのは図書館のせい? 新潮社の佐藤隆信社長はくだらない犯人探しをしている。 近頃の現象[一一九六]
新刊貸し出し「待った」
公立図書館の貸し出しにより本が売れなくなっているとして、大手出版社や作家らが、発売から一定期間、新刊本の貸し出しをやめるよう求める動きがある。背景には、深刻化する出版不況に、図書館の増加、サービス拡充もある。本を売る者と貸す者、相反する利害のはざまで、出版文化のあり方が問われている。
「増刷できたはずのものができなくなり、出版社が非常に苦労している」。10月半ば、東京都内で開かれた全国図書館大会の「出版と図書館」分科会。図書館関係者が多くを占める会場で、新潮社の佐藤隆信社長が、売れるべき本が売れない要因の一つは図書館の貸し出しにある、と口火を切った。(朝日デジタル)
【雑感】新潮社の佐藤隆信氏はくだらない犯人捜しをやっている。目先の売り上げ減に気をとられて視野狭窄に陥っているのではないのか?
出版業界は図書館が有ろうが無かろうが斜陽産業である。
考えても見ろ。少子高齢化の社会とはどういう社会か解っているはずだ。単に人口が少なくなるだけではない、最も書籍に慣れ親しむはずの就学児童や学生の人口激減を意味しているのだ。
それに加えて就学年齢層の書籍離れも進んでいる。平均的日本人の中では読書をする部類の私でも、ネット社会のおかげで今や国語辞典や中日辞典や英和辞典、あるいは百科事典や六法全書の類はネットで済ませる。あんな重たいハードカバーの辞書や事典は持ち歩けないし、スマホ(私は携帯電話)などの端末からネット検索で簡単に情報を引き出せる。
中高生の教科書に載るようなレベルの知識は無料でネットから摂取できるとなれば、わざわざ本など買わないだろう。
またブックオフなどの古書店に行けば、漫画や小説などの流行書籍はほぼ新品の状態で売っている。新刊を買うよりは7かけ程度の安値で綺麗な古本が手に入れば、それに超した事は無い。
つまり、新潮の佐藤隆信氏の図書館批判は、申し訳ないが言いがかりに近いものである。図書館をどうにかしたところで、少子高齢化と就学年齢層の書籍離れの大勢は微動だにしない事ぐらいプロなら判っているはずだ。
私は製造業畑にいた人間なので、コストダウンのために世間から見れば異常なほど細かい事にこだわる活動をしてきた。作業工程をビデオ撮りし要した作業時間も記録にとり改善点を分析した。その結果、例えば必要な工具を取り出しやすいよう、最初は足元にしかスペースが無かったので足下の棚に置いていたのを、工具を取るしゃがむ動作が2秒ほどロスだからといって胸元の位置にわざわざ棚をつくって工具入れにしたり、といった改善活動を経験した。
たぶん佐藤隆信氏も神経質に売り上げデータを睨み続け、コンマゼロゼロ1でも売り上げを上げたいがために考えた結果、図書館が悪者と決めつけるようになったのだろう。
だが、それでは出版不況の元凶である少子高齢化と就学年齢層の活字離れの勢いは止められない。それどころか、図書館を締め付ける事によって逆に活字離れに拍車をかける可能性も否定できない。
私や連れ合いは図書館をよく利用する。蔵書が限られているので人気の本は順番待ちとなり、1か月以上待つ事もある。私などは待てないので書店で手に入る本であれば買ってしまう事が多々あるのだ。
佐藤隆信氏よ、発想を転換して図書館を宣伝工作の場にすればいいではないか。図書館とは貸本屋では無いので無料で本を貸出ししてくれる。図書館は無料で本の宣伝をやってくれていると思えば、むしろ安いのではないか。
斜陽産業でよくあるのは、視野狭窄に陥って目先の損得に振り回されて自滅するパターンである。
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「訴状が届いていないのでコメントできない」 では訴状が届いてから取材したらどうなるのかを考えてみた。 近頃の現象[一一九五]
百田氏ら提訴 「名誉を傷つけられた」
昨年1月に他界したタレント・やしきたかじんさんの最後のマネジャーを務めた男性(49)が28日、大阪市内で会見を開き、たかじんさんと妻・家鋪さくらさんの闘病生活を描いた百田尚樹氏の著書「殉愛」内での記述で名誉を傷つけられたとして、発行元の幻冬舎と百田氏に対して1100万円の損害賠償を請求する民事訴訟を同日付で東京地裁に起こしたことを発表した。(デイリースポーツ)
【雑感】まあ、そういう事になるだろう。事実関係を厳としても、百人いれば百通りの事実解釈がある。自分とは正反対の解釈を述べる者を見かけたら、反射的に「こいつは嘘をついている」と思ってしまう事も多々ある。取り分け、作中で悪者のように描写されたら怒るわな。
また百田氏の日頃の言動は、事実の一面しか見ないで安易かつ短兵急に物事を断ずるところがある(余談1)ので、余計に腹を立てる関係者はいてもおかしくないし、著者本人ならびに発行編集人ら関係者はそういう事を前提に仕事してなきゃいけないだろう。
ところで、毎度いつも思うのだが、こういったシチュエーションの場合、マスコミは即座に被告側に取材を申し込む。被告側は必ず慣用句を言う。
「訴状が届いていないのでコメントできない」
では、訴状が届くころを見計らって取材を申し入れてみてはどうかといつも思う。被告側のコメントはどうなるのだろうか?
私が被告なら次のように言うだろう。
「係争中ゆえコメントは差し控えたい」
「一切の事は法廷で申し述べますので、ここでは発言を差し控えたい」
結局、訴状が届こうが届くまいが被告の言う事は同様なので、届く時間を待って取材しても時間のロスがかさむだけ、どうせ同様のコメントしか得られないのなら、届いていない事が判っていてもコメントをとってさっさと記事にしたほうが仕事になるという事か。
なんてどうでもいい事を考えてしまった。
(余談1)事実関係掌握能力は訓練しないと修得できない。あくまで私の体験だが、創作活動をする方々は総じて思い込みの強い方が多く、主観に振り回される傾向が強い。事実関係というものが如何なるものか解っていないうえに、自分が見たモノ(錯覚で見えたモノも含む)を無批判に事実と思い込む悪い癖がある。
討論中でも、私が言った覚えの無い事を「論拠」に私の架空の主張に対して反論したり、「論拠」にならない事を論拠であるかのように提示して反論を試みたりと、無茶な空論をよく並べる。あくまで私が接した人間に限った輩の事だが。



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第2031回「ハロウィンの予定は?」 晴雨堂は特に予定は無い。ハロウィンをテーマにしたホラーでも鑑賞しようか。
こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の山口です。今日のテーマは 「ハロウィンの予定は?」です。もうすぐハロウィンですね月日が経つのがとても早いですあっという間にクリスマスが来そうで怖いですハロウィンはどこかイベントへお出かけしたり、仮装をする予定はありますか?私はハロウィン情報に全くついていけていないです(笑)みなさんのハロウィンの予定は何ですか?たくさんの回答、お待ちしております。トラック...
FC2 トラックバックテーマ:「ハロウィンの予定は?」
【雑感】私は国粋主義なので西洋の風習は好まない、と言いたいところだが、イベントが増えて経済が活性化するのは大歓迎である。子供にとっても賑やかなのは良いことだ。
仮装もやってみたい。家には中国人民解放軍の旧仕様の軍服がどこかにあるので、それを引っ張り出して現代的キョンシーなんて面白いかもしれない。ほぼ100%連れ合いは却下するだろうが。
私がハロウィンを知ったのは小学生の頃だった。ツル・コミック社が出していたチャールズ・М・シュルツ氏の漫画「ピーナッツ」からだった。
「ピーナッツ」ではたぶん殆どの人はピンとこないだろう。スヌーピーのシリーズである。ツル・コミックは英語教育を念頭に置いていたのか日本語訳と原文を同時掲載して刊行していた。私も好きで読んでいたのだが、今は絶版となっているようで、家にも引っ越しの繰り返しで紛失して3冊しか残っていない。
このスヌーピーのシリーズにはしばしばハロウィンにまつわるエピソードが登場する。スヌーピーも混じって他所の家のドアを蹴って菓子をねだったり、カボチャの山に埋まれて物思いにふけるペパーミント・パティがいたり。
なので私は長らくアメリカの子供のお祭りだと思い込んでいた。
そのうち世間ではハロウィンにまつわるホラー映画が大流行り、ハロウィンという単語には恐怖のイメージがついてまわった。日本人がハロウィンを楽しいお祭りと認識するようになったのはここ10年ほどだろう。
息子が幼いので何かしらのイベントはやろうと思っているが、せいぜいハロウィン仕様のフライドチキンや駄菓子などに留めると思う。
ハロウィンの夜、寝静まってから私はハロウィンの名を冠したホラー映画を鑑賞するとしよう。



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ハムやソーセージに発癌リスクとな? そういえば昔は珈琲にも発癌リスク言ってたけんど今はリスクを下げる説が優勢、話半分だな。 近頃の現象[一一九四]
毎日50グラムで18%増―WHO
世界保健機関(WHO)の専門組織である国際がん研究機関(本部フランス・リヨン)は26日、ハムやソーセージなどの加工肉を食べると、がん発症リスクが高まるという「十分な証拠」があると発表した。(時事通信)
【雑感】発癌リスクを指摘されたのはハムやソーセージなどの加工肉だけではない。従来、肉の中ではヘルシーと思われてきた赤肉までリスクがあるそうな・・。
今までも発癌リスクを指摘された食材がある。例えば、2・30年前は焼き秋刀魚に大根おろしとか、珈琲とかが槍玉に挙がった。
しかし現在では秋刀魚に大根はあまり神経質に言われない。珈琲にいたっては発癌リスクよりも疾病発症リスクの低減が指摘され、むしろ健康のために珈琲を飲むことを奨励する医師までいる。
かつては肉類も健康に悪いと言われ菜食が奨励された時代もあった。しかし今では脳の活動に動物性蛋白質は不可欠、認知症予防にも肉食は有効との意見がある。
新たに副作用が確認される一方で新たに効能も確認される。その繰り返しだ。
要は効能があればそれと同じくらい副作用がある事を前提に偏食をしない事が肝要なのだ。効能があるからといってそればかりを摂取すれば、副作用が鎌首を上げる。
肉が悪者にされた時期があったが、それはあくまで肉ばかり喰うのが良くないだけの話だ。煙草は発癌物質が確認されているうえに、そもそも通常の生物は煙を好き好んで肺に入れない。
減塩が叫ばれているが、では塩をゼロにすれば良いのかという訳ではなく、塩をはじめとしたミネラル分の摂取ができなければ動物は死ぬ。
砂糖が悪者にされているが、もともと充分な糖分は炭水化物からとれるので、過剰摂取が問題だ。
犬や猫を飼っている人なら解ると思うが、人間が食べているモノをそのまま犬や猫にあげたら、たぶん命を縮めるだろう。人間が一般的に食べる食事は犬猫にとっては塩分過多・糖分過多である。そのため晩年は腎臓や肝臓をやられてしまう犬猫は多い。
また人間は動物の中でも驚異的に広範囲な雑食動物なので、人間にとっては毒にはならない量でも犬や猫には毒になる場合もある。葱や玉葱が有名で、犬にうっかりハンバーグを食べさせて死んでしまった話をよく聞く。通常のハンバーグには玉葱が混入されているからだ。これらの事は多くの飼い主にとって身に覚えのある事だろう。
狂牛病騒ぎでは、草しか食べない草食動物の牛に肉骨粉なる牛の肉を食べさせたことが原因であると突き止められた。遺伝的に近い動物の肉にはリスクがある事はいま有力な説となっている。
これらの事は人間にとっても教訓になる。人間は普段から不自然で毒性のあるモノを食べているかもしれない。犬猫から見れば、調理をする事で一部の栄養素を破壊して様々な毒物で味付け香付けしたものを人間は嬉々として食べているのかもしれない。
だから食材の種類を多くすることでリスクを分散させる必要がある。



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日本式ハロウィンがあっても良いのではないか。そもそもアメリカのハロウィンも本家のケルト式とは違うようだし。 近頃の現象[一一九三]
「日本人はまだまだ」
近年、ますます盛んになっているハロウィーン。日本以外の国々ではどんな風に行われ、外国人は日本人のはしゃぎぶりをどう見ているのだろうか。
2畳ほどの部屋に、巨大なゴキブリのおもちゃや、ゾンビのお面などが、所狭しと置かれている。
米国ミシガン州出身の日本映画研究者スチュワート・ガルブレイスさん(49)は、4年前から毎年10月末に、京都市左京区岩倉の自宅をお化け屋敷として開放している。期間中の3日間、妻・西幸代さん(49)ら家族は8畳の居間のみで暮らす。
米国では、子どもたちを自宅に招く風習があるといい、楽しさを日本の子どもたちにも味わってもらおうと、毎年企画している。
ガルブレイスさんは、日米の最大の違いは「手作りかどうか」だと指摘する。米国では各家で開かれるパーティーに参加し、手作りのゲームをして楽しむといい、「日本人は楽しみ方を分かっていないという印象」と語る。
米国では盛んなハロウィーンだが、ヨーロッパではあまり行われていない。スペイン出身の京都大大学院生ギレム・ドメネクさん(25)は「スペインでは10年くらい前から、パーティーをしたり、仮装したりするようになった。米国の祭りなので本来の意味はよく分からない」と苦笑する。
フランスの文化を発信するアンスティチュ・フランセ関西(左京区、旧関西日仏学館)に問い合わせたところ、「元来アングロサクソン系の文化なので何もしません」と、つれない回答だった。(京都新聞)
【雑感】ハロウィンというのは欧米の風習と一括りにされているが、本来はケルト人の収穫を祝う風習である。
かつてハリウッドをはじめ世界各国は日本人の風体を中国人風に描写していたり、今でも日本人全員が納豆を食べているかのような誤解が根強くあるが、実際は中国人と日本人とは漢字と箸という共通項はあるものの言語の文法も違うし風習も異なる。また関西人の私は納豆を食う習慣なんぞ無い。それらと同じである。
ハロウィンはあくまでヨーロッパのローカルな習慣に過ぎない。
ケルト系の文化がスコットランドやウェールズやアイルランドなどに引き継がれ、17世紀ごろから本格化したイギリスからの移民によってアメリカ大陸にも広まり、ハロウィンを楽しむ人口が数億に膨らんだ。
だから世界を代表するお祭りにはなったが、けっして地球人の風習になった訳ではない。それに元々のケルト人のお祭りから見れば、アメリカで広く広まっているハロウィンは様相を異にしているし、日本で広がったハロウィンがアメリカやケルトとは違うと文句を言われる筋合いも無い。
寿司などの日本食も海外に伝播して独自に変化したものがたくさんあると聞く。同じようにカレーなどもイギリスを経由して日本のカレーライスに変化したものもある。
文化をどのように噛み砕きアレンジするのはその土地の人間に委ねられている。日本には日本のハロウィンの楽しみ方があるので、「日本人はまだまだ」と言われるのは心外である。
日本では昔から仮装を楽しむ文化があった。江戸時代では正月などに着ぐるみを着て街を闊歩する風景が普通に見られた。その文化は現代でも引き継がれ、世界最大の漫画同人誌即売会でアニメキャラクターの衣装を自作してコスチュームプレイを楽しむ行為は、私が中高生だった1980年前後から盛んになっている。
また菓子業界にとって「農閑期」だった10月末にイベントを編み出して収入源にする宣伝工作もあったろう。遠からず、ハロウィンが日本式に変化して定着することを予想していた知人がいた。
だから、素直に日本のハロウィンを楽しんで経済が回ればそれでエエやないか。



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「アンブロークン」が反日でもエエやないか。ワシらかて反独映画を楽しんできた。 近頃の現象[一一九二]
批判を覚悟、捕虜虐待の軍曹演じた決意
「アンブロークン」のMIYAVI
「日本軍の捕虜虐待を強調している」――。作品や原作に対するそんな反発が米国での公開前からネットを中心に広がり、日本での公開が一時は暗礁に乗り上げたアンジェリーナ・ジョリー監督の米映画「不屈の男 アンブロークン」。「反日」批判から劇場探しも難航したが、ようやく来年2月、まずは東京で公開されることになった。世界ツアーなどを重ねるミュージシャンのMIYAVIさん(34)が、捕虜に苛烈な態度をとり続けた実在の渡辺睦裕軍曹役をなぜ演じ、批判をどう受け止めたか。ロサンゼルスで語ってもらった。(withnews)
【雑感】「アンブロークン」が反日と騒いでいるようだが、それは枢軸国に加わった国の宿命だ。どの国よりもシリア難民を受け入れ脱原発政策を進めているドイツなんか今でもハリウッドで悪の帝国として描かれる。仕方が無いことだ。(余談1)
しかもドイツから見て友邦国であったはずの日本まで、悪役にデスラーやシュルツやハイデルンなど明らかにドイツ風の名前が登場しナチスドイツをモデルにしたガミラスなる侵略軍が地球を襲うアニメを制作して大ヒット。
「反日」だのと今さら騒ぐほうがおかしい。今まで反独映画を楽しんでおきながら何をかまととぶっているのか。
日本軍による捕虜虐待の場面が評判になっているが、どの程度の描写なのか興味がある。
以前、体罰問題でマスコミが騒いだ時に、私は日本の体育会系が当たり前のように行っている体罰が欧米から見るといかに常軌を逸した行為なのかを論証するために名作を例にとって説明した事があった。
映画「パットン大戦車軍団」で主人公の強面タカ派の将軍が野戦病院を訪問した際、入院していた精神疾患の兵士の頭を手袋で軽く叩いた事でマスコミが騒ぎ、華々しい実績を誇る将軍が戦時中であるにもかかわらず失脚してしまう場面がある。
現実のアメリカ軍は鉄拳制裁をやっていないのかどうかは別にして、欧米の観客からは病人の頭を手袋で叩いただけでも異常に見えるという事である。
では日本軍ではどうなのか。ビンタや鉄拳は当たり前である。いや平和な日本の気楽なスポーツクラブであっても尻をバットで叩く「けつバット」が行われていたほどのお国柄である。
映画「フルメタルジャケット」で海兵隊の新兵を海兵隊下士官から俳優へ転職したロナルド・リー・アーメイ氏が扮するハートマン軍曹が徹底的にしごくのだが、意外にも軍曹自身の鉄拳シーンは無い。あるのは執拗な罵詈雑言の言葉の暴力である。英語って、こんなにえげつない悪口の類が豊富にあるのか、聞くに堪えないヘイトの語彙に関して日本語は英語の足下に及ばないと誇らしく思ったものだ。
逆に言えば、日本は言葉の暴力よりも手を使う暴力に頼っていた訳である。(余談2)
となれば、日本軍が捕虜に対してどんな態度でどのように扱ったのか、推して知るべしだろう。
明治や大正の頃の日本軍はまだ国際法を守ろうとする努力があった。日露戦争でのロシア兵捕虜の扱い、第一次世界大戦でのドイツ兵捕虜の扱いが如何に国際法に則っていたかは有名だ。ところが昭和になると統帥権の拡大解釈や国際連盟脱退などで国際法に対する不信感を募らせ軽んじるようになった。兵士一人一人に天皇陛下の軍隊である事と「生きて虜囚の辱めを受けるな」という教育を叩き込まれた。
そんな日本軍が「生きて虜囚の辱めを受ける」捕虜たちに対してどんな感情を抱くか、これも推して知るべしだ。だからアンジーが描いた絵がどんな光景か興味がある。大人しい描写か? フォルメしすぎなのか?
今回の反日騒動でもう一つ興味深い事がある。
80年代末、ベルトリッチ監督「ラストエンペラー」で南京大虐殺の描写があったため右翼から抗議の声が上がったが、日本公開が危ぶまれる事は無かったと思う。甘粕大尉や満州国軍の描写など史実から大きく逸脱している箇所があるので、抗議の中には正当なものもあった。しかし結局はメジャー映画館で全国公開され、全国ネットのテレビでも放送された。
「ラストエンペラー」で甘粕を演じた坂本龍一氏はその数年前に「戦場のメリークリスマス」で米英捕虜を虐待する捕虜収容所所長を演じ日本中で喝采があがり、捕虜の英軍少佐の役をやったデビット・ボウイ氏に若い乙女たちは胸を熱くした。
「アンブロークン」の騒動を観ていると時代が変わったことを感じる。私としてはデズニーが制作した「パールハーバー」こそ怒り抗議するべきなのだが、右翼の反応の鈍さに呆れたものだ。
(余談1)日本やドイツはまだマシかもしれない。ヨーロッパ世界の基礎をつくった2千年前のローマ帝国はユダヤ人の王国を滅ぼしたので、ハリウッドに強いイニシアチブを握っているユダヤ資本の影響もあって今でも悪の帝国だ。また帝政前期の皇帝たちは基督教を迫害していたので基督教徒からも悪の帝国扱いを受けている。
(余談2)「戦前の少年犯罪」の管賀江留郎氏は体罰は日本の伝統には無かったと主張、むしろ明治の文明開化で西洋から体罰文化が輸入されたと分析している。
【追記】2015.10.29 この記事を発表してから、「(アンブロークンは)事実ではないから批難しとるんや、ボケ」と批判する者が複数名いた。
この晴雨堂をボケ呼ばわりした方々は記事をしっかり読んでいるのかね? またコメント欄にある友人うろぱす氏との会話も目を通しているのかね?
見出しだけ読んで解ったような気になって勇み足をしてるだけ。恥ずかしいとは思わないのかな?
それはさておき、「事実でない」というのは奇怪な話で、映画はそもそもフィクション。事実を忠実に再現している映画を探し出すほうが至難の業、嘘を現実にあったかのように魅せるのが映画と言い切っても良いくらいで、何を頓珍漢いっているのか。
頓珍漢野郎は右にも左にも一定数いる。困ったものだ。
名作の誉れ高い映画の多くは批判がつきものだ。タイを舞台にした「王様と私」はタイ国民の不評を買っている。「サウンド・オブ・ミュージック」ではオーストリア国民の不評を買っているし、なにより実在の当事者であるトランプ一家は映画を観て激怒した。見渡せばそんな映画ばっかりだ。
トム・クルーズ肝いりの親日映画「ラストサムライ」でさえも、部分部分を取り上げれば素晴らしく正確な考証だが、全体を観れば頓珍漢画像になっている。
映画って、そんなもんと割り切るところから始めないと、映画とは付き合えない。
【追記Ⅱ】2017.05.18「アンブロークン」の虐待のレベルだが、実際に作品を観てみると私は十分あり得ると考えている。下手をすれば現代日本のスポーツクラブでも行われているのではないかと思うほどで、「誇張が過ぎる」という批判の方が無理がありそうだ。
また、史実の渡邊睦裕伍長は下士官でありながら重要指名手配犯40人のうち23番目にランキングされたほどの人物なので、被害者側のデフォルメを考慮しても、むしろ映画での描写は甘いのではないかと思っている。
ただ、「誇張が過ぎる」と錯覚してしまうのも理解できる。というのも、演じたMIYAVI氏は軍人らしくない。内容が内容だけに旧軍人の監修支援は受け辛いと思うが所作等の役作りをもっとするべきだったかもしれない。髪も陸軍にしては長め。
とはいえ史実の渡邊睦裕は裕福な家庭に育ち早稲田大学でフランス文学を学んだインテリ、存外MIYAVI氏の演じ方は大きく的を外れている訳ではないかもしれない。
高学歴なのに階級は将校ではなく伍長、最終階級もポツダム曹長あたりは屈折した性格になる要因ともとれなくもない。
因みにポツダム曹長とは、敗戦で軍が解散されるのが決まり原則大尉以下の軍人を対象に退職金や恩給の額を少しでも増やす福祉政策として一階級昇級させた。渡邊は退官時軍曹だったので曹長になった。
ゼロ戦パイロットの坂井三郎や岩本徹三も敗戦時は少尉だったのでポツダム昇進で中尉になった。
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ジュンク堂民主主義フェアを見直し? 馬鹿げたことだ、どの本を売るかは書店主が決める。 近頃の現象[一一九一]
店員ツイートに批判
東京都渋谷区の「MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店」で開催中のブックフェア「自由と民主主義のための必読書50」が21日に一時撤去され、並べる本を見直すことになった。運営会社が22日、HP上で発表した。きっかけは、書店員がつぶやいた「闘います!」などのツイートに対するネット上の批判だった。(朝日新聞デジタル)
【雑感】一つ大前提を捉えておかなければ、頓珍漢な平行線になる。まず完璧な中立なんぞこの世に存在しない。
己が中立だの中道だと思っても、それは自分の立ち位置を中心に社会を見ているだけの話で、俯瞰で眺めれば変わってくる。
情報というものは私たちの周りに無数ある。森羅万象の中からどの情報を取り出すかは、本人の主義主張や趣向や利害関係で変わる。
判りやすい例えを言おう。漫画を読んでいると作者の趣向が判る。趣向や読者層によって画像情報の取捨選択が行われる。
「黒騎士物語」の小林源文氏はミリタリーが好きだし読者層もミリタリーマニアが中心だ。だから背景描写はそこそこで構わない。それに対して銃器や戦車、軍服などの描写は緻密で正確。背景描写は必要最低限なのに、軍服の襟章や階級章や略章などは細部まで考証に則っている。
「ベルサイユのばら」の池田理代子氏は当時の少女漫画読者のおフランス趣味を反映してフランスを描いた。ファッションにこだわる読者も多いので衣装の描写にも神経を使っている。衣装の描写を観ていると縫製の知識もありそうだ。しかし兵器に関心のある読者はいないし本人もあまり興味が無いので当時のフランス軍が使用していたマスケット銃の描写はぞんざい、しかもバスティーユの銃撃戦では明らかに現代のライフル銃のように連射しているといった考証無視がある。
「釣りキチ三平」の矢口高雄氏はアウトドアが好きだし郷土愛があるので、山村描写や魚や食事の場面には心血を注いでいるが、ファッションには興味が無いのか衣装の描き方は必要最低限度、主要登場人物はいつも同じ服を着ている。
情報は本人の社会的立場や趣向あるいは価値観で取捨選択がなされる。偏向はあって当たり前だ。
それから、情報は本人の社会的立場や趣向あるいは価値観によって解釈も変わる。
判りやすく言えば、極右から見れば朝日新聞や毎日新聞は左翼でNHKは左翼に毒された犬HKなのだが、極左から見れば朝日も毎日も体制に迎合したブル新、NHKは体制権力の官製メディア、共産党の赤旗新聞でさえ日和見、といった具合に解釈は正反対だ。ようするに同じ日本語でも価値観が違うと意味も違う。
だからだ、同じ「安保法制」でも産経や讀賣は好意的で賛成の論調であるし、朝日や毎日や東京新聞は違憲法制と断じて反対の構えだ。社会立場や価値観が違えば法律の解釈も正義の概念も違う。
事実関係を極力正確に捉えて報道するという条件下に置かれている言論機関でさえ立場が各々違うので報道の論調も異なる。ましてや「事実関係を極力正確に捉える」という制約の無い書店は何を売ろうがそれは書店の自由である。売る本を選ぶのは書店主の判断であって客ではない。
偏向という批判をするのであれば、対立する考えの書籍を書店に置くよう頼めば良いだけの話だ。要望が多ければ、通常の書店であれば「利益になる」と判断して専用の陳列書棚を設けてくれるかもしれない。
安保に反対する人々を「反対ばかりして対案が無い」と批難した方々は、ジュンク堂に「偏向だ」とクレームをつけた方々を叱りつけねばならない。まさに「反対」や「クレーム」だけではないか。「自由と民主主義のための必読書50」に相反する論調の著作を書店主に紹介したり大量に発注をお願いするなど動けばいい。汗を流さなければ、反安保に後れをとるだけだ。
ジュンク堂も情けない。明確に「安倍政権」のやり方に反対を表明したのではなかったのか? 一部のクレームにビビるのなら、最初からそんなブックフェアなんぞするな。



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「サムライせんせい」を観た。 TVドラマ評[七十八]

「サムライせんせい」で武市半平太を演じる錦戸亮氏。テレビライフ表紙から参照。
【雑感】観てみると、けっこう面白かった。
連れ合いが錦戸亮氏のファンなので昨夜予約録画したのを観た。私も多少は興味があった。
本作で錦戸亮氏が演じるのは現代日本にタイムスリップした土佐勤王党の武市半平太。錦戸氏はかつて映画「ちょんまげプリン」でこれまた江戸時代から現代へタイムスリップした主人公の侍を演じた経験がある。さらに映画「県庁おもてなし課」ではこれまた高知弁をしゃべる県庁職員を演じた。今回のドラマで武市半平太を演じるということは、過去の映画主演作での経験がもろに活きる。
おそらく制作陣は現代にタイムスリップした武市半平太役を素直に「錦戸亮氏以外に適任者はいない」と思ったのではないか。
初回はまずまずと言ったところか。そこそこ楽しめた。右も左も判らない武市半平太を受け入れ、武市の言い分を受け止める塾経営の老紳士が御都合主義的な登場ながらも説得力はあった。NHK木曜時代劇「まんまこと」に登場する俳句の先生に通ずるものがある。
相手の言い分を反射的に否定するのではなく、一応は言い分を終いまで聞き、主張を受け止めながら最善の方向へ導こうとする懐の深さ、私もそうありたいと思うのだがつい脊髄反射で「反撃」してしまう。
また、一足先にタイムスリップした坂本龍馬が現代に順応して見た目は東京に住む今どきの若者に姿を変えている、という設定も面白いと思う。たしかに龍馬ならありそうな話だ。そして武市半平太は頑なに侍ファッションは変えずに行くのだろう。
私は原作漫画を読んでいない。今後、とのようなオチになっていくのかが楽しみだ。意表を突くラストになるのか、あるいは弛んで平凡な終わり方になってしまうのか。



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「タイムスクープハンター 通貨危機!古代ニセ金捜査官」 TVドラマ評[七十七]
通貨危機!古代ニセ金捜査官」を観た。
【雑感】「タイムスクープハンター」は江戸時代など当時の風俗や言語を忠実に再現したドキュメンタリー風の時代劇である事が知られている。
丁髷も実際に月代を剃って髪を結っていたり、シャンプーやリンスの無い時代の入浴頻度に合わせて脂っぽい髪を再現している。庶民の衣服もリアルに汚れや継ぎ接ぎが目立つ。
奈良時代を舞台にした「通貨危機!古代ニセ金捜査官」は非常に楽しみにしていたエピソードで、本放送では迂闊にも見逃してしまい、今週の深夜再放送でやっと録画に成功した思い入れの強い作品である。数年越しの願いが叶った。
というのも、「タイムスクープハンター」が取り扱う時代の大半は江戸時代である。やはり衣装やメイクやロケ地の制約があるのかもしれない。私は古代史が好きなのでどんなリアル表現をしてくれるのか待ちのぞんでいたのだ。
この番組は台詞もリアルさを追求する。当時の日本人が話したであろう日本語を再現しているのも特徴だ。江戸時代であれば、現代のカタカナ言葉や外来語が無いだけでさほど差異は無いだろうが、奈良時代となると現代の日本語とはずいぶん違うものであるはずだ。
小学校5年生の時、国語の授業で教師がクイズを出した。「てふてふ」とはなんと読むのか? 当時、私は百人一首カルタをやっていたので「てふてふ」は蝶々と読むのは知っていた。不本意ながら自慢話になってしまうがクラスで答えられたのは私一人だった。
正答しながらも疑問に思った。その疑問を教師にぶつけてみたこともあるが得心のある返答は無かった。なぜ「てふてふ」を「ちょうちょう」と読まなければならないのか? なぜ「けふ」を「きょう」と読まねばならないのか?
私はきっと遥か大昔は実際に平仮名のスペル通りに発声していたのではないかと推理した。「てふてふ」も平安時代や奈良時代の人間は「てふてふ」と発声していたのではないか? 後にバラエティ番組で「ティェプティェプ」と発声していたことが紹介された。
だからこのエピソードでどんな台詞になるのか楽しみだった。
たしかに奈良時代の日本語と思われる台詞を話してはいた。この番組では視聴者に判りやすいよう現代語字幕が出る。奈良時代の日本語になるとヒアリングだけでは何を話しているのか解らない。
ただ、少し残念に思う。というのも、発音が現代日本語と同じなのだ。おそらくだが、当時の日本語は「てふてふ」の例が示すように発音も今より複雑だったはずだ。
10代後半から20代まで私はチャリンコで全国を旅してきた。感じたのは方言もいきなりガラリと変わるのではなく、出発地点の大阪から見て遠くになるにしたがって聞き取りにくくなる。西の四国・中国地方・北九州地方は方言でも何を話しているのかはまだ解る。ところが熊本県に入るとヒアリングが困難になってくる。鹿児島になるともはや外国語だ。
同じく東も北陸や関東地方までは「日本語」だと認識できるが、新潟から山形、関東でも茨城県北部になると聞き取りづらくなり、秋田や岩手になってくると外国語だ。
どうして外国語に聞こえるのかというと、アクセントが完全に標準語や上方言葉から乖離しているからだ。名詞だけが日本語として聞き取れるので、それで話の内容を推理する作業を無意識にしてしまう。
同時代を生きる人間でも空間軸の隔たりで言語に方言という形で差異が生じる。同じように空間軸ではなく時間軸の隔たりでも同様の差異が生じるのではないかと私は考えている。
たとえばたまに郷里の高知に帰省することがあるが、私の使用言語はほぼ大阪弁で耳も大阪弁仕様になってしまっているから、高知弁はときおり聞き取りづらくなる事がある。
同じように、たぶん江戸時代にタイムスリップすれば、高知や福岡に行ったかのような差異を感じるのではないか。室町時代や鎌倉時代であれば熊本や宮城に行ったかのような差異ではないのか、平安時代や奈良時代は鹿児島や岩手や秋田、そして飛鳥時代以前であれば沖縄のウチナグチや北海道のアイヌ語のように隔たっているのではないか。
ところがこのエピソードで奈良時代の人間を演じる俳優たちは現代日本語のアクセントなのだ。幕末明治維新の時代劇に登場する標準語アクセントの高知弁に違和感を抱くのと同様の現象ではないかと思うのだ。



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第2032回「暇な時間は何をして過ごしていますか?」 「暇」にもいろいろ種類がある。それによって違う。
こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の山口です。今日のテーマは 「暇な時間は何をして過ごしていますか?」です。暇な時間ってありますよね、、何をすれば良いかも分からずダラダラと過ごしてしまいますそれが幸せなんですけどね通勤、通学時間の間や人を待っている間も何をすれば良いか分からずボーッと過ごしています。暇でなくとも常にボーッとしてますが(笑)みなさんは暇な時間は何をして過ごしますか?たくさんの...
FC2 トラックバックテーマ:「暇な時間は何をして過ごしていますか?」
【雑感】一口に「暇」といっても様々な種類がある。
たとえば勤務中に加工すべき材料が納品されていなければ暇になってしまう。あるいは受注がまことに少なくて仕事が無い場合もある。現場によっては早退という事もありえるが、私は少なくとも定時までは勤務したい。となると定時までブラブラと遊んで時間を潰す訳にはいかないので、繁忙期にできなかった整理整頓作業を行う。
熔接ロボットを動かすので粉塵が物凄い。通常の清掃に加えてフィルターの交換や機械のメンテをやる。旋盤の切削液が劣化していたら油分を除去してから水を入れ替え新しい切削液を混ぜる。不健康な話に聞こえるかもしれないが、新しい切削液は新鮮なセロリのような爽やかな苦みがあるような香りがして好きだ。
掃除のネタが無くなりいよいよ仕事が無くなったら、材料の在庫や機材・工具の確認と点検、そしてQC活動や5S3定に則った改善活動、というのが相場だ。
次に、病気やケガなどで休職中であったり、あるいは失職中に生じた暇はどうか。決して仕事中毒というわけではないが、生活のリズムが狂うのでやはり何かしらの「仕事」をやってしまう。仕事人間によくありがちな不安感に襲われたり、凧の糸が切れたかのように惚けて無為に過ごす方々の話をよく聞くが、私自身も若い頃に激戦の忙しさから突然失職して呆気にとられた時期がある。その時は光栄の「三国志」や「水滸伝」や「信長の野望」や「提督の決断」三昧になって不健康な生活を過ごし体調を崩してしまったことがある。
その苦い経験から、毎日が日曜日のような日々になっても起床時間は5時である。5時に起きてPCを開き、何かしらの執筆作業か書類整理、炊事・洗濯・清掃を行う。
質問の内容を、「暇な時間は何をして過ごしていますか?」ではなく、「ボーっと惚けているのはどんな時ですか?」の方が答えやすいかもしれない。
起床して珈琲を入れてPCの画面をただ眺めている時間帯がある。その時はボーとしている。そして読売テレビの中谷しのぶアナや吉田奈央アナや小熊美香アナの顔を見ながら次第に興奮・・もとい頭が活性化してくる。(半分冗談)
それから、自宅書斎を徹底的に整理整頓清掃した後に飲むお茶や珈琲が格別で、部屋や本棚や引き出しの中のファイルなどを小半時間ほど眺めて過ごすことがある。
「暇」を実感できるのは、会社での拘束時間内に担当している作業が無くなった時に時間が余ったと認識する、それ以外は何故か時間が足らないような奇妙な感覚が続く。



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今日の晩御飯(71) ハヤシライス。 晴雨堂の晴耕雨読な食生活[百九十九]

【雑感】上記写真は今週火曜日に撮影したものである。中華鍋を使っているので、当ブログの古い読者は私が作っていると思うかもしれないが、調理は連れ合いである。私は具材の玉葱を刻んだだけだ。
この手の料理になると私はつい「スパイシー」に作ってしまうので、辛い物が苦手な連れ合いは3歳児の息子のためという大義名分で私に作らせない。この日も玉葱を刻んで、さあ炒めようかな、というところで連れ合いが「後は私がやる」と中華鍋を奪ったのだ。
平素は一汁一菜か二菜の質素な食事をしているので、ハヤシライスでも豪華に思える。そういえば、ハヤシライスは久しぶりだった。(余談1)
我が家の人気メニューはカレーライスである。どちらかといえばハヤシライスは人気が無い。余った食材を処分する料理として、平素の質素な食卓にアクセントを入れるため、カレーライスをよくつくった。カレーライスでなければ麻婆豆腐をつくって丼飯にしたものだが、香辛料にまだ慣れていない幼い息子に考慮して以前よりは作る頻度が少なくなった。
今回のハヤシライスもそういった事情が絡んでいる。カレーにすると、私が食べるカレーと息子が食べるカレー二通り作らねばならない。その点、ハヤシライスならそんな気遣いはしなくていい。それだけに連れ合いはかえってカレー以上に警戒したのだ。
好き嫌いの無い私なのだが、子供の頃はどちらかといえばハヤシライスは嫌いな料理だった。カレーライスだと思ってワクワクしながらパクついたら変な味がして拍子抜け、という体験がハヤシライスの思い出である。
私の辛い物好きはかなり幼い頃からで、小学校低学年の段階で中辛のカレーを食べていた。寿司もサビ抜きしていないものを好んだ。父母はそんな私に刺激物はよくないと叱ったことがあったが、いつしか味付けに子供用・大人用に分けなくて楽と思うようになったのだろう、カレーも辛口になっていった。
私の香辛料好きは単に辛い物好きというだけではない。香辛料は肉や魚の臭みを消してくれる。
幼少期を戦中戦後を過ごした世代の父母にとっては食卓に肉が出るだけで御馳走という感覚が消えないせいか、はっきり言って肉を使った料理は不味かった。私は今でもあの獣臭が苦手だ。
カレーが好きなのも肉の臭みが強烈な香辛料で消えるからでもある。ところがハヤシライスでは臭みが残っている場合が多かった。見た目がカレーもどきというのが余計に拍車をかけて嫌いにした。
ハヤシライスがそこそこ好きな料理の一つになったのはいつの頃からなのか? やはりチャリンコ旅行に行くようになってからか。
小学校高学年ごろから水泳やサイクリングをやるようになり運動量が増すにしたがって肉への抵抗感も和らいだ。チャリ旅行になると食事もかなり制限されたものになり、飯盒飯に味噌汁をぶっかけたものを毎日食べるようになる。たまに食事のアクセントをつけるためレトルトカレーをぶっかけるのだが、旅が長期になるとそれも飽きてくる。
そこで試しにレトルトのビーフシチューを飯にかけて即席のハヤシライスのようなものにして食べたら、それが非常に美味かった。ハヤシライスが不味いという偏見が崩れた瞬間だった。
今ではハヤシライスは好きな料理の一つになったが、しかしカレーほどには食欲を増進させる力が無い。カレーであれば3杯くらいおかわりをする事も多々あるのだが、ハヤシライスは1杯で充分、あまりおかわりはしない。
カレーや麻婆豆腐であれば上記写真程度の量は1日で完食なのだが、まだ食べきれていない。おそらく今日の晩御飯もハヤシライスになるだろう。
(余談1)ハヤシライスのルーツについては諸説ある。上野精養軒の林さんが作った説や丸善の早矢仕有的さんが考案した説などなど。
総合すると概ね明治に西洋料理が日本に入り、ハッシュドビーフやビーフシチューの類を飯にかけて賄い料理とした事が始まりのようだ。
昔の知人の中には、ケチャップを入れなければハヤシライスではないと偉そうに言う輩がいたが、けっしてケチャップを入れなければならないというものではない。
ケチャップはあくまで早く仕上げるために使う調味料、または赤ワインやドミグラスソースが無い場合の安価な代用品なのである。問題の知人は変なこだわりを持っている割に料理の歴史や文化には無知だった。指摘してやると黙りこくった。
都合が悪くなると話をすり替えたりダンマリを決め込む輩がけっこうコダワリ人間に多い。



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「相棒 season14」 冠城君、なかなか良い味だしとるやんけ。 TVドラマ評[七十六]
水谷豊(63)反町隆史(41)が新コンビを組んだテレビ朝日系「相棒 season14」の第2話が21日放送され、17・6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが22日分かった。初回から0・8ポイント減だったが、高視聴率をキープした。
第2話は反町演じる冠城亘(かぶらぎ・わたる)の旧友の刑事が遺体で発見されることから物語が展開。宅間孝行をゲストに迎えた。(日刊スポーツ)
【雑感】反町隆史という俳優は嫌いな俳優の一人だった。
「蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜」のテムジン役でせっかくモンゴルのロケに出張りながら「主演なので体を壊すわけにはいかない」と日本料理ばかり食べていたり、「日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ」ではリトアニアでロケしながら日本語で演技してたり、「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の不自然な発声で織田信長を演じていたり、「男たちの大和/YAMATO」では一人エエカッコして海軍第三種軍装の襟を立てていたりと、悪いイメージだらけだった。
しかし、この「相棒」の冠城亘役は好印象で観ている。シリアスさと剽軽さのバランスが取れた演技をしているし、信長役や「GTO」の鬼塚教諭役などに見られたどこかに不自然な演技、良く言えば肩に力が入り過ぎた演技、悪く言えばエエカッコしいのところが無くなったように感じた。
それから杉下右京との緊張感ある対等に近いパートナーシップという設定も新鮮味があって好印象である。
従来の「相棒」はホームズとワトソン的な定番コンビだった。抜群の知性をほこり少し変わり者の主人公と知性は主人公に劣るが常識人の助手という形式である。漫才のボケ役とツッコミ役にも似ている。杉下警部と亀山巡査部長がその定番中の定番のコンビであり、この無難なコンビから「相棒」がスタートした。
その後、杉下警部の相棒は2代目の神戸尊警部補や3代目の甲斐享巡査部長と若干のバージョン変更があるものの基本は杉下の部下で助手のポジションの範囲である事に変わりは無い。
ところが今回の冠城亘は法務省のキャリア官僚で変わり者、つまり杉下より歳が若いが知力もキャリアも組織内の立ち位置も似た者同士、これまでの「相棒」と違ってかなり対等に近いパートナーシップをとる事になる。
そして物語のほうも、今のところ対等に近い緊張感ある関係で展開している。冠城は杉下の助手ではない。それどころか今回は冠城が捜査の主導権を握り杉下は冠城に利用される友軍の位置づけだ。そしてこの2人を中心に、関係者たちは各々の利害関係から利用したり危害を加えたり、まだシリーズ佳境ではない平凡なエピソードのはずなのに緊張感のある政治的物語になっている。
ただ、こういった物語の制作は脚本家の筆力がいる。定番コンビであれば杉下に好き勝手な活躍をやらせるだけでいいのだが、杉下・冠城双方に魅せ場をつくり火花を散らせるようにしなければならない。
例えば同じテレ朝ドラマの「臨場」では最初こそ主人公倉石検視官と立原管理官との激突が見られたが、物語が進むにつれて立原管理官の影が薄くなり倉石のペースに乗せられ言いなりのような感じになっていった。
杉下・冠城の「良好な関係」は終盤までもつだろうか?



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第2030回「お風呂に何か入れますか?」 晴雨堂は柚子風呂が好き。
こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の山口です。今日のテーマは 「お風呂に何か入れますか?」です。寒いですね~ 衣替えを終えていなかったので焦って羽織るものを出しました。それで我が家ではやっとお風呂にお湯を張るようになりましたゆったり出来ますね私は入浴剤は友人に貰わなければ使うことはないのですが匂いとか良くていい気分になれますよね我が家ではたまに柚子も入れたりしてましたみなさんはお風呂に何か...
FC2 トラックバックテーマ:「お風呂に何か入れますか?」
【雑感】田舎から送られた柚子を贅沢に入れて柚子風呂にすることがある。無農薬だから安心して入浴を楽しめる。
薬湯の類には憧れるし、以前に滋賀の奥伊吹でキャンプした時のついでに風呂用の薬草を購入して楽しんだ事もあった。
しかし平素は入れない。理由は二つある。
一つは銭が無い。薬湯に浸って豪華な気分でリラックスしたいところだが、そこに回す銭が無い。
二つ目、風呂の残り湯を洗濯用の水に再利用するので、薬湯にすると衣服がダメになる。
という訳で入浴剤は普段は入れない。どうせ風呂で贅沢をするのなら、府営団地の狭い家風呂に入るよりも少し遠出をして温泉に入ったほうがマシだ。



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「High School Girl? メーク女子高生のヒミツ」が面白い。
美しい女子高生に隠された秘密に驚愕!
資生堂の新CMが秀逸と話題に
化粧品メーカー・資生堂の新CMが公開となった。映像に映し出された教室には、綺麗系や可愛い系の女子高生達がそれぞれ、頬杖をついたり、本を読んだり、ギターを弾いたりして過ごしているが、彼女たちには信じがたい秘密が隠されていた…。(クランクイン!)
【雑感】「High School Girl? メーク女子高生のヒミツ」を観た。
たしかにこれは面白い。化粧品の最大手販売メーカー資生堂のテーマにも合致したシンプルかつ判りやすい短編映画だ。オチのインパクトも強烈である。
既にオチを知っている者は多いと思うが、敢えてネタバレは止めておこう。ネタバレにつながりそうな論評もやめておこう。
論評の代わりに私の好みを言わせてもらうと、コメント欄にも書いているが、金子修介監督「1999年の夏休み」風にやってほしいな、と思っている。私のアイディアは以下の通り。
俳優の綿引勝彦風の髭の剃り跡が濃い白髪混じり七三頭50歳前後のいかつい教師がジャージ姿でやってくる。腕まくりをした袖の下からは筋肉質の太い腕が伸びている。
教師が教室の引き戸を開けると、詰襟学生服姿の日焼けした少年たちが10人程度たむろしている。カメラは一人一人の少年の顔をアップして表情を追う。
教壇に立つ秀才風の眼鏡の少年が黒板に字を書いている。眼鏡の少年だけは色白だが、若干髭が伸びかけているのか鼻の下がうっすら黒くなっている。
彼は黒板に「この中に女子が紛れ込んでいる」と書いた。すると、動画は高速逆転して、メイクアーティストたちが少年たちのメイクを落としていく。なんと!みんな色白美肌の可憐な女の子たちではないか!
そして最後のオチは、いかつい体育教師風の男性はなんと女子レスリングの伊調馨嬢の変身だった!
というのはどうかね。えっ? これではネタバレしたのも同然だって? でも私のオチの方がよりインパクトがあるだろう?



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山本耕史、11年ぶりの土方歳三役で気付く時の流れ。 TVドラマ評[七十五]
山本耕史が土方役で登場
モデルで女優の波瑠(24)がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「あさが来た」(月~土曜前8・00)の15回(14日放送)の平均視聴率は21・5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが15日、分かった。初回(9月28日)の21・2%を抜き、番組最高の数字となった。
15回には新撰組副長の土方歳三役として山本耕史(38)が出演。山本は04年放送の大河ドラマ「新撰組!」でも土方役を演じており、その時と同じ衣装、カツラを着用した。(スポニチアネックス)
【雑感】11年ぶりに身につけた衣装やカツラはピッタリだったそうで、山本耕史氏の体型は11年間変わっていないということになる。
たしかに白面の山本耕史氏は見た目あまり歳をとっていないように見える。11年前の「新選組!」(余談1)はけっこう面白く拝見していたので、全く同じ衣装で朝ドラに出演すると聞いてワクワクしながら録画を予約した。
さて、観てみると11年の時の流れをやはり感じてしまう。山本耕史氏が出演する他の作品を観ている分には、この俳優はいつまでも若々しい、歳をとらない、というイメージなのだが、11年前と全く同じ衣装であるだけに「新選組!」と「あさが来た」を比較しやすく、この11年の時の変化を感じてしまうのだ。
まず、顔の度アップ。相変わらずの皺の無い白面の土方なのだが、肌の張りがやや減っているので斜めからの光に細かな陰影が浮き出ている。メイクの加減もあるかもしれないが髭の剃り跡が若干濃くなっている。それから微かだが声が低くなっている。
変化は山本耕史氏の「老化」だけではない。むしろ老化よりも大きな変化で、山本耕史氏の扮装がいささか浮いてしまっている。それはなにかというと、カツラである。11年前に使っていたカツラを流用しているそうだが、それがこの間の時代劇環境の変化を浮き彫りにした。
玉木宏氏や近藤正臣氏がつけているカツラを見れば判ろう。髪の生え際を極力自然に見えるようにしている。特に耳の鬢の部分だ。土方歳三のヅラは立派な揉み上げだが、玉木氏らは揉み上げではなく鬢が垂れている感じにしている。中には番頭のように結い上げて揉み上げが無い人もいる。
時代劇のヅラは次第にナチュラルに見えるように変化してきた。半カツラを使って自毛の生え際を活かすようになったり、「タイムスクープハンター」に至っては本当に月代を剃って自毛で髷を結っている。その出演者たちが「大河」や「朝ドラ」に端役で登場しているかもしれない。
昔の「暴れん坊将軍」や「大岡越前」などを観ると、当時は気にならなかったヅラの不自然さが目につくようになった。いかにも人工的なノコギリ刃のような生え際。女性は全員狭い富士額。
ところが90年代ごろから女性は極力半カツラで自毛の生え際を活かすようになってきた。「八重の桜」ではショートカットの剛力彩芽氏でも半カツラを用いていた。そして男性も「龍馬伝」あたりから自毛を活かすようになった。
山本耕史氏の11年ぶりの土方歳三を見ていると、そういった制作環境の変化を感じるのである。
(余談1)新選組ファンの間では、熱心なファンと似非ファンとを見分けるのに名称表記を注目する。「新選組」が正解で「新撰組」は間違いなのだ。
といってもけっして「新撰組」でも間違いではない。局長の近藤勇自身が「選」と「撰」両方を使っていたし、二番組長を務めた永倉新八は後の日誌に「新撰組」と表記していたらしいので「新撰組」が正式名称との定説が生まれたが、会津藩の文書等では「新選組」の表記なのでファンの間では「新選組」が正しいとなっている。
当時は漢字表記に今ほどこだわりは無い。同じ音の漢字を充てることは頻繁にあった。
永倉新八自身も本来は「長倉」なのだが、近藤勇の試衛館に加わる頃には「永倉」にしている。歴史上ではこれを改姓と捉えているが、本人に改姓の自覚があったのかどうか疑問だ。



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白票にも政治を動かす力はあるのか? 晴雨堂の見解は一言「無い!」である。 近頃の現象[一一九〇]
来夏の参院選で選挙権年齢が18歳以上に引き下げられますが、若者の選挙に対する無関心は年々広がっています。総務省が作成している年代別投票率の推移では、全世代で右肩下がりの投票率ですが、40年前に比べて、年代別の投票率の差が徐々に開いていることが見てとれます。
「投票したい候補が選挙区にいないから」という意見もよく聞きますが、こんなときは白票を投じるという選択肢もあります。ここでは、「棄権も白票も変わらない」と思っている方に、白票の持つ意外な力を解説します。(政治山)
【雑感】フリーライターの上村吉弘氏が虚しい希望的観測を述べているが、私は「無い」と断言する。
上村氏は議員の気持ちが解っていない。議員にとって選挙とは就職活動である。幾ら得票数が多くても落選しちゃったら失業である。この裏返しが、幾ら得票数が少なくても当選しちゃえばこっちのモン、任期満了もしくは解散までは議員歳費が懐に入ってくる。
もちろん、失職しても得票数が多ければ次期選挙の期待が膨らみ浪人生活の励みになるだろうし、就職できても得票数が少なければ次期選挙のため後援会は緊張感を強いられる。
その程度の違いはあるが、棄権が白票に変わっただけの話だ。議席の大半を占有している自民党にとっては「何がしたいんかよう解らんけど御苦労さん」と思われるのがオチだ。
議員が最も怖がるのは落選だ。無効票ではない。落選すれば議員歳費が懐に入らないし、交通費などの諸手当が無くなるので政治活動の経費が家計を苦しめる。
さらに落選議員にとって屈辱なのは自分の議席を失う事によって党内や地域社会での発言力や影響力が低下する事である。落選した元国会議員の自殺や変死はたまにある。
上村吉弘氏の記事を読んでいると、この方は選挙の楽屋裏を知らないのではないかと思ってしまう。記事には「議員は選挙に行く人のために政策を語る」と述べているが、それは正確ではない。そういう議員は既成政党に属さない「市民派」議員にほぼ限られる。組織票の無い彼ら彼女たちにとっては浮動票の獲得こそが活路だからである。
しかし、自民党などの巨大政党に属する議員にとっては「選挙に行く人のために政策を語る」のではなく「票田のため地盤のために政策を語る」のである。自分の支持勢力のために政策を語り、命がけで利権を誘導するのが議席の大半を制している保守系議員の使命である。
上村氏は「白票は無効票になりますから、無効票の増加は浮動票や無党派層が増えているとそれぞれの後援会が分析し、より緊張感のある政策論争につながることも期待できます」と述べているが、あくまで儚い期待でしかない。
浮動票や無党派層が増加していること自体は今に始まった訳ではない。焦るのは野党議員やその後援会だけだろう。何故なら、投票率があがっても、自党の支持につながっておらず、相も変わらず自民党優勢が続くだけだからだ。野党議員たちをイラつかせる効果はあるかもしれない。
「投票率が高い割には得票率が低い場合、各党や選対本部は候補者に実力がないと見て、後々の候補者選定にも影響を与えるかもしれません」と上村氏は述べているが、自民党のような巨大政党にとっては前の民主党政権誕生前夜のように浮動票が野党に回るのが恐怖であって、得票率なんぞ大して気にしてはいない。得票率は全体に低下して久しいのだ。上村氏の意見は甚だ間が抜けすぎている。
得票率が下がって影響があるとすれば、強いていえば、党内の発言力とか序列などが変わるだけだ。小選挙区で当選した議員と比例区だけで当選した議員、小選挙区で落選して比例区で復活当選した議員とでは、議員の格は違うのだ。しかし国会勢力自体に変化は無い。
「決してポジティブな投票行動とは言えませんが、どうしても投票したい候補者がいないとき、棄権するよりは多少なりとも影響力がある。その程度の意味はありそうです」と上村氏は結論づけている。
少なくとも安倍総理が君臨する現政権にとっては全く影響は無い。影響力ゼロどころか、むしろその状況を喜ぶだろう。自民党は保守与党を長年続けてきた結果、野党に比べれば打たれ強いのだ。政権担当者の宿命で批難やクレームを日常的に晒され続けた歴史があるので慣れている。
私が与党議員であれば、白票を見るたびに「おっ、野党には回らなかったか。よっしゃ!よっしゃ!」と思う。
上村氏のやり方で効果があるのは、民主党や社民党を不快にさせるだけ。共産党は鉄の組織がある上に、長年「共産党」という看板のためにイメージ戦略で苦戦を強いられ低空飛行をしてきた歴史があるので、白票層を新たな票田開拓の対象とするかもしれない。
それだけの話だ。政治を動かす力としては、「多少なりとも」どころか、無いに等しい。
上村吉弘氏は選対を経験していないか、あるいは遠回しに自民を利するようさり気なく援護射撃をしているか、どちらかとしか思えない。白票が増えて喜ぶのは与党、哀しむのは野党、世の中は変わらない。



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男が頼みづらい外食メニューTOP10 晴雨堂には頼み辛い外食メニューは無い。 晴雨堂の晴耕雨読な食生活[百九十八]
デートや友人と外食をする際、「本当は食べたいけれど、これを頼んだら周りにどう思われだろうか?」と考えたことがある人は多いだろう。特に男性は、「食べていたら恥ずかしいメニュー」がいろいろとあるような気がする…。そこで、20~30代独身会社員男性200人に「頼みたいのに頼めない食べ物」を、アンケート調査した(協力/アイリサーチ)。
(中略)
1位 パンケーキ 208pt
2位 パフェ 206pt
3位 ワッフル 127pt
4位 クレープ 108pt
5位 アサイー 61pt
5位 プリン 61pt
7位 あんみつ 55pt
8位 団子 53pt
9位 スムージー 43pt
10位 アイスクリーム 39pt
(中略)
食べたいなら注文すればいいのに! と思うけど、それができないのがオトコのプライド…。皆さんはいかが? (梵 将大)
【雑感】上記記事はYahoo!サイトのR25のページにあったものである。
ハッキリ言おう。私には経済的事情で頼み辛い外食メニューは多々あるが、周囲の目を気にして頼み辛いメニューは存在しない。何が「オトコのプライド」か? くだらん事を気にして注文しない方が私のプライドを傷つける。
自慢ではないが、家族三人でビュッフェスタイルのレストランへ行った時、生クリーム好きの私はデザートに生クリームを丼鉢山盛りに入れて食べた事がある。バニラアイスクリーム好きの私は丼鉢山盛りにバニラソフトクリームを入れて3杯ほどおかわりしたことがある。
その度に連れ合いは顔を顰めて苦言を呈し、息子には「気持ち悪いの見たらあかん」と席を別にして他人の振りをやりだす。
当ブログの読者なら御理解いただけようが、私の平素の食事はいたって質素で健康的なのである。たまに外食で羽目を外しても健康にはさほど影響は無かろうし、人目は一向に気にしない。それよりもバイキング料理などは料金のもとを取れないと気持ち悪い。
という訳で、私のような人間に「頼みづらい外食メニュー」なんぞ存在しないのである。そもそもそれを「オトコのプライド」と呼ぶのは奇怪至極。プライドとはもっと仕事や大志に持ち出すべきで、こんな些末な事に使うプライドはプライドにあらず、ただの見栄っ張りだ。
私は見栄は張らない。着る服でも平素は作業着で済ましている。その方が便利で気楽だからだ。以前はジャージを着ていたが、あれではポケットが少ないので不便。
よそ行きに和服を着るのは和服が好きだからだ。たまにダブルカフスのワイシャツに三つ揃いの背広を着てベストに懐中時計を付けるのは1930年代のファッションが好きだからだ。基本的に世間がありがたがるブランド物には興味が無い。好みでないデザインでは、たとえブランド物でも価値はゼロだ。
上記記事にあげられたトップ10のメニュー、アサイー・スムージー以外は全て注文する。理由は好き嫌いだ。もちろん、人からアサイーやスムージーを勧められたら飲むが、自分から進んで注文する事がないだけの話。
ただ一点だけ、納豆は関西人の誇りにかけて食わない。これはプライドである。基本的に私は食わず嫌いはしないので、納豆も良さを理解しようと様々な方法で食べた事があるが私には合わないと結論づけた。申し訳ないが私には腐った大豆でしかない。
もちろん、関東の友人の家に遊びに行って食事に納豆が出たら喜んで薬食いをするが、私の家では断固として食わん。あくまで納豆は関東の特殊な食材、日本を代表する食材で日本人は全員食べているかのように喧伝されているのが気に入らないのだ。納豆を食う習慣が無い人間は関西圏に大勢いる事を無視されるのがプライドを激しく傷つける。



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18禁「春画展」に若い女性が行列、だから何なんや。若い子が興味持つの当たり前やないか 近頃の現象[一一八九]
18禁「春画展」芸術かわいせつか
「18歳未満入場禁止」の「春画展」に、若い女性が行列をなしている。春画といえば、江戸時代の「エロ浮世絵」程度の知識しかなかったが、「芸術か、わいせつ物か」の議論もある。日陰の存在とされてきた春画の何が引き付けるのか。会場の「永青文庫」(文京区目白台)をのぞいてきた。
男「これが有名な北斎のタコ? すごい構図、ありえない世界だね」
女「…」
来場した20代カップルのやりとり。会話になっていない。女性グループになると、話が弾んでいたようで、絵を肴(さかな)にして体験談に花を咲かせていた。来場者の半分以上は女性だったのが意外だった。(日刊スポーツ)
【雑感】主題とは直接関係ないが、見出しの「芸術かわいせつか」という見出しは日本語の特質を殺してしまっている。本来なら「藝術か猥褻か」と書くべきなのだ。
というのも日本語文は漢字と仮名を混ぜる事によって英語の分ち書きと同じ効果を発揮させ読みやすくしているのである。ところが一部を画数が多すぎるからと言って常用漢字から外すことで仮名にしてしまうと、分ち書き効果が無くなり一瞬ではあるが「芸術かわ」と読んでしまう。「藝術か猥褻か」としたほうが視覚的に読みやすい。(関連記事「君は字幕派か?吹替派か? 近頃の現象[一〇九五]」)
さて、主題に入ろう。
取材した「日刊スポーツ」の記者は来場者に女性が多い事を意外に思ったようだが、私は全く意外には思えず、直球ストライクの想定内だ。
というのも、現代の春画とも揶揄されることもある漫画同人誌の世界最大即売会コミックマーケット参加者の7割は女性で占められているからだ。若いころ、漫画同人誌の印刷を請け負う会社に勤めていた事があるのでわかるが、お客様の過半数は女の子や淑女たちであった。いまもその状況は変わっていない。
私がなぜ漫画同人誌即売会を引き合いに出したかといえば、専門の印刷屋に勤め「業者」として漫画同人誌業界に参加したことをきっかけに江戸時代の春画にも興味を持つようになった。実に共通点が多いからだ。もしかしたら藝術史として脈々とつながっているのではないかと思うほどだ。
共通項は印刷と出版だけではない。春画をはじめする浮世絵の類には現代の漫画に通ずる表現法が盛沢山であることに気づく。髪の毛の生え際や陰毛一本一本の細かい描写、強調したい局部のデフォルメと実際にはありえない体勢なのだが視覚的に安定する構図、これらがヨーロッパの絵画にも影響を与えたことは至極有名である。
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上記の絵が記事でも評判になった北斎の「蛸と海女」である。発表されたのが1820年前後、爛熟文化が花開いた文政年間初期。
全図紹介したいところだが、当ブログは一応アダルトではないので一部分に留める。性器までみせなくても、この美女が小さな蛸のお化けとディープキスをしている場面だけでも奇抜さが伝わってこよう。蛸の足の一本が左乳房を捉え乳首を刺激している様がエロい。(余談1)
全図では、巨大蛸が美女の陰毛豊かな股間に吸い付き、八本の足で女性をホールドしている。背景の文字は蛸と美女の会話が生々しく描写されている。
以前紹介した映画にロジャー・コーマン制作「ギャラクシー・オブ・テラー 恐怖の惑星」で、巨乳美女が巨大蛆虫にレイプされる場面がマニアの間で評判で、米国の評論家や映画ファンたちは日本のアダルトビデオにも影響を与えた作品と高評価していることを紹介して、私は反論を述べた。
あの時はアニメや漫画で触手モノが独自に発達したカテゴリーと主張したのだが、北斎漫画を観ているとこの手のセンスは江戸時代の昔から存在していたのだと誇らしく思う。
今回の展覧会で18禁としながらも行政側が許容する英断を高く評価する。良き事をされた。
(余談1)ドラマではNHK金曜時代劇の「寺子屋ゆめ指南」で「蛸と海女」が登場する。北斎を名乗る絵師が美保純氏扮するおりんをモデルに絵を描く。おりんはてっきり歌舞伎役者の大首絵のような肖像画が描いてくれたと思いきや、蛸とエッチする絵になっていたのでえらい剣幕で怒りだす。
若い頃は不良っぽい女性やファンキーな役柄が多かった美保純氏だったが、ここでのキャラは訳アリの教養ある淑女役、字が読めない床屋の徳次(中条きよし)のためにしばしば瓦版や御触書など読んであげる場面がある。
映画では新藤兼人監督「北斎漫画」で登場する。緒形拳氏が葛飾北斎を演じた。歌麿が愛川欽也氏、十返舎一九を宍戸錠氏が扮した。重量級の濃い作品である。
漫画では永井豪氏「けっこう仮面」で、劣等生で教師から睨まれている高橋真由美が仕置き教師たちに拘束され、身ぐるみ剥がされて無数の蛸が蠢く水槽に放り込まれ蛸の愛撫でイッてしまうエピソードがあった。
晴雨堂関連作品案内
あの頃映画 「北斎漫画」 [DVD] 新藤兼人監督 緒形拳主演



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「科捜研の女」放送開始。池上季実子氏は昭和40年生まれのキャラを演じるのか・・。TVドラマ評[七十四]
『科捜研の女』初回13.5%
根強い人気ぶり
女優の沢口靖子が主演する『科捜研の女』第15シーズンの初回2時間スペシャルが15日放送され、番組平均視聴率が13.5%だったことが16日、わかった(通常は毎週木曜 後8:00)。1999年から数えて17年目に突入し、前シーズン(昨年10月期)の初回は14.4%。根強い人気ぶりを証明した。今シーズンは2クール編成で放送される。視聴率はすべてビデオリサーチ調べ、関東地区。(オリコン)
【雑感】私もその根強い人気を支えるファンの一人である。
沢口靖子氏は私の地元堺市の出身俳優で学年で言えば全くの同世代、私が泉南地方で高校生活をおくっていたとき、彼女も泉北地方の堺市の名門高校に通っていた。強烈な親近感、と言いたいところだが、若い頃の沢口靖子氏はあまり好きではなかった。齢を重ねた今の彼女が魅力的に見える。
また、榊マリコたちをしばしば威圧する京都府警本部長の役にはなんとMATの岸田文夫隊員(余談1)こと西田健氏が扮している。これは観ない訳にはいくまい。
初期の「科捜研の女」は全体にコミカルというよりはドタバタでオタクっぽい内容、主人公榊マリコは周囲から浮いた厄介者の若手研究員、叩き上げの警部とよく対立する。
しかし今では榊マリコを中心に所長以下科捜研は一致団結、まるで彼女が実質の所長であるかのようなイニシアチブを握り、捜査一課の叩き上げの土門警部補とは恋人未満の戦友として強いパートナーシップ。良い雰囲気である。
さて、今シーズンは昨今では珍しい2クール制らしい。という事は来年の春まで続く予定だ。制作陣はかなり強い自信を持っているといえる。
この長いシーズンで榊マリコたちに絡んでくるのが池上季実子氏が扮する落合佐妃子警部補、土門警部補とは対照的な冷酷で策謀家の刑事を演じる。初回のインパクトは上々だったと私は感じている。特に冒頭でフリーマーケットの参加者が隠し持っていた自動拳銃を見つけ、弾倉を抜き、マリコの後輩が触ろうとすると「触るな!」と一喝して、自動拳銃は弾倉を外しても弾が一発装填されている場合がある事を注意する場面はなかなか格好いい。このシーンは物語後半の伏線となる。
ネット上では池上季実子氏の激太りが否定的意味で話題になっているが、私は今回の役柄に限っては歓迎している。暴力団など犯罪組織と常に対峙し、策を弄して貪欲に検挙して成績をあげる叩き上げの警部補、これは例えば江角マキコ氏のようなスタイル抜群の女優では冷酷さは出ても迫力がない。同じく太った杉田かおる氏では猛々しさは抜群だが冷酷さはイマイチでない。池上季実子氏が適役だ。
ただ、どうしても気になるところがある。科捜研のメンバーが警察のデータバンクから落合佐妃子の経歴を閲覧する場面がある。そこにはハッキリと生年月日が「昭和40年5月8日」の記述が見てとれた。即ち学年でいうと私と同じ、つまり沢口靖子氏と同い歳という設定である。
榊マリコは沢口靖子氏と同じ年齢設定のようなので、落合警部補は榊マリコと同世代のライバルという構図にしたいようなのだが、私自身が「同学年」なのでどうしてもその年齢設定に無理を感じてしまう。
観ての通り、榊マリコは顎から首のラインが今でも若々しくてシャープなのだが、落合警部補は単に肥えているというだけではなく首筋にそろそろ老人性の弛みや皺がみられて、「同学年」である私には設定の粗にみえてしまう。
池上季実子氏はたしか大林宣彦監督「ハウス」で人喰い家屋の犠牲になる女子高生ヒロインに扮していた。その当時、私はまだ小学生だったのだ。彼女は私の姉より歳上だ。
榊マリコとの対立を強調したいがために昭和40年生まれにしたようだが・・、本音をいうと無茶苦茶違和感。高校の部活で1年生当時すでに卒業して久しい伝説の先輩がいつの間にか歳下の女優としてテレビに出ているような衝撃。
(余談1)「帰ってきたウルトラマン」に登場する地球防衛軍組織の隊員。団次郎氏演じる主人公郷秀樹とは初期の頃よく対立していた。
今は歳相応にズル禿げだが、当時は70年代の若者らしく長くて豊かな前髪を誇っていた。



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ももクロの「男性限定ライブ」に「憲法違反」の声まで出始めたか。アイドルのライブにまで憲法を持ち出されるとシンドイ。 近頃の現象[一一八八]
「憲法違反の可能性あり」と弁護士が指摘
福岡県太宰府市で10月31日に開かれるアイドルグループ「ももいろクローバーZ」のコンサートが、波紋を呼んでいる。コンサートは国特別史跡の大宰府政庁跡で開かれる予定だが、「ももクロ男祭り2015 in 太宰府」と題して、観客を「男性」に限定していることに、疑問の声があがっているのだ。(弁護士ドットコム)
【雑感】私がまだ中学生の時だったから、もう40年近く昔だ。社会科の授業、たしか授業のテーマは日本国憲法だった。社会科の教師が男女平等とか権利について解説する時に、生徒をリラックスさせようと滑稽な例え話をした。
「私はスケベな男なので、女子便所を女子が独占しているのは憲法違反だ!男子にも開放するべきだ!なんて言ったら君たちは、特に女の子諸君はその通りだと賛成して私を女子便所に招待しますか? おっ、本気で嫌な顔してる子いるやないか。その通り、これは男女平等ではありません。逆に性別や個性の否定になるから基本的人権の侵害になる」
そんな内容だったと思う。大爆笑という訳ではなかったが、教師の話し方が面白かったので教室全体が笑いに包まれた。この時代は70年代後半、21世紀に入って十数年が過ぎた今では当時の社会科教師が冗談で言った例え話が笑い話にならなくなりつつある。
活動家たちは「セクシャル・マイノリティ」なんてイングランド語を使うが、要は性的少数者の権利の問題、これが絡むようになってきているので、一部では男と女の二元論に疑問を持つ人も出ている。
賛否・真偽・是非はともかくとして、世の中はますますシンプルに割り切れなくなる状況だ。
法律なんてものは、たとえ憲法であったとしても恣意的に拡大解釈・飛躍解釈は幾らでも可能であり、だからこそ解釈をめぐって社会通念やら時の世論やらが様々な思いがぶつかり合って、一種の軍事境界線が生まれ、それが取り敢えずの基準となる。法律の条文というものはあくまで基準を設けるうえでの目安でしかない。
だから時代とともに解釈や判例が変わり、あまりにも現実社会との乖離がひどいと改正される。便所を男女で分けるやり方も、いずれは変わる可能性はあるかもしれない。
ただ、教師が話した寓話で一つ未だ笑い話の域かなと思うのが、便所の事にまで憲法を持ち出してしまう行為だ。当時のクラスメイトが笑ったのも、漫才などでよく使う些細な事を大袈裟に糞真面目にいう笑いの手法を教師が使ったからだ。
一部マイノリティ諸氏やマイノリティにシンパシーを感じている一部のマジョリティからは大袈裟でないと主張する者もいるかと思うが、しかし大袈裟なのである。
そもそも憲法というものは国家の最高法規であり、法治国家が建前の国にとって憲法とは時の政府を管理するものでもある。人心を支配するよりも時の体制権力を支配するためのものと言い切っていい。何故なら、言うまでもなく法律は国会がつくるものだが、現在の自民党政権のように圧倒的多数の議席を占有していたら政権の都合の良い法律が作り放題になってしまう。極端な話、犯罪をやらかすかもしれない人間が罰則をつくるかもしれない、なんておかしな事にもなりかねない。そこに歯止めをかけるのが憲法だ。
こないだの安保法制など国家の一大事であれば憲法を持ち出す必要がある。時の権力者たちが作った法律が果たして憲法に違反しているか否かは問題にされなければならないし、安保法制反対者は時の権力者に言論戦・政治戦で対抗するには憲法を持ち出すのは当然である。(余談1)
しかし、便所ごときに憲法違反を持ち出すのは果たしてアリなんだろうか? そんな些末まで憲法違反を持ち出してしまうと、世間には無数の憲法違反が噴出して収拾がつかなくなると思う。
さて「ももクロ男祭り2015 in 太宰府」だが、クレーム者の言い分は一応の理が有る。主催はももクロの所属芸能事務所ではあるが、一連のイベントを企画する実行委員会には公平公正を建前とする地方自治体の太宰府市が参画している点が法に抵触するするのだろう。
それを論拠にするところを見れば、クレーム者も「ももクロ単独のイベントなら男祭りでも女祭りでも好きにしてもらって結構」とでも言いたそうだ。
なら、男祭りと女祭りとトランスジェンダー祭りを連チャンでやるしかない、か。
前述の話に戻るが、公共施設の男便所女便所も既に異議を唱える者がいる事を私は実際に聞いたことがある。やがては政治的問題に発展するかもしれない。
私は率直に言って、本当にその流れは良い事なのかどうか不安に思う。理想を求めた結果、かえって理想から遠ざかる事も世の中には多々あるのだ。
(余談1)かつて幕末明治維新でも似たような事が有った。
当時、幕府の実務最高責任者である大老井伊掃部頭直弼が反対を押し切って米国との条約と開港を約束してしまった。 それに反発した勤皇の志士たちが挙げた法的論拠が「天皇の勅許を得なかった」という事である。
私がわざわざ「井伊直弼」といわず「井伊掃部頭直弼」と言ったのも、掃部頭は幕府の役職ではなく天皇を頂点とする朝廷の役職である事を強調するためだ。そして公方様である征夷大将軍も、本来は軍最高司令官という意味しかなく、朝廷からは将軍とは別に内大臣や右大臣の官職を与えられて、国政を担う立場である法的根拠を確保している状態なのだ。
江戸時代、国家元首は江戸にいる征夷大将軍であると当時の人間も現代の人間も錯覚しているが、実は法理論的には古代と変わらず天皇が国家元首なのである。征夷大将軍はあくまで天皇から強引な経緯ではあるものの合意の上で国政を委任された存在であり、しかも征夷大将軍という役職の本来の意味は「夷を征する」軍隊の最高司令官、そして幕府の本来の意味も司令部、反対者はそこを突いた。
つまり国家元首である天皇の許可も得ず国政を私物化しながら、ペリーという「野蛮な侵略者」がやってきても本来の職責である軍最高司令官の役割を果たさない。
今回の安保法制では、反対者は違憲を持ち出した。そして安保を推進する側は国会で審議する前にアメリカの上下議会に約束しているので、構図的にはペリー来航時の騒動とあまり変わらない。



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第2029回「幼なじみいますか?」 晴雨堂は小学生時代からの友人はいる。
こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の栗山です。今日のテーマは 「幼なじみいますか?」です。マンガとかで憧れますね~かっこいいor可愛い幼なじみ私の幼なじみは男の子です。全然会っていませんが聞いたところによると、キックボクシングに励んでいるそうですよ。特にイケメンではなく、普通の男の子です。なんとも思いませんでしたね…あ、でも私の親友が彼を好きだったことがあってビックリしましたちょっとうれし...
FC2 トラックバックテーマ:「幼なじみいますか?」
【雑感】「幼馴染」の定義は漠然としている。
一般には
「幼稚園児~小学生ぐらいまでの友人は将来に幼馴染と呼ばれやすい。また、幼馴染と呼ばれる人間は総じて同い年かそれに近い年齢の友人が多く、年が大きく離れた友人は一般的に幼馴染とは呼ばれていない」(ニコニコ大百科参照)
そうである。
その定義に当てはめるなら、小学校3年生の3学期から付き合いが続いている友人が複数名いるので、彼ら彼女たちを「幼馴染」とするべきなのだろうか。
高知で過ごした小学1年生までの友人は消息不明、名前も忘れてしまった。2年生の帰省時に遊びに行こうと思っていたが、祖母の話によれば彼も引っ越してしまったらしい。
小学校3年の3学期まで和歌山にいた。そこでは大勢友人がいて毎日のように近所の山林を探険したり、廃材置き場の空き地に「秘密基地」という掘っ立て小屋を作るなどして遊んだものだ。残念ながら3年生の3学期に引っ越してからは縁が切れてしまった。
原因は私の筆不精だった。引っ越し前にクラスをあげて壮行会を開いてくれて沢山の餞別をいただいたので、引っ越してすぐに1通だけは手紙を出した。餞別の多くはいつの間にか紛失してしまったが、女の子からもらった聖母子像だけは今でも本棚を飾っている。引っ越してから半年くらいは和歌山の級友たちからの手紙が届いたが、ことごとく返事を書かなかった。今の私からは想像できないかもしれないが、当時は授業でもない限りは書く習慣は無かった。
私が筆まめなら、もしかしたら和歌山時代の友人の何人かは幼馴染となってくれたかもしれない。今にして思えば、男女双方の級友から手紙がマメに来ていたのだから、当時の私はけっこう人気者か人望があったかもしれない。かなりもったいない事をしてしまった。(余談1)
そういった後悔があるので、今でも文章書きは苦手だが努めて書くようにしているのだ。
現在、幼馴染といえる人たちは、和歌山から大阪へ越してから知り合った級友たちである。小学校3年生の3学期や5年生からの付き合いで、もう40年程度の付き合いだ。
彼ら彼女たちは知り合った当初から友人だった訳ではない。最初は仲が良いというよりは険悪だったような記憶がある。それが5年生ころから一緒にサイクリングに出かけたり、秘密基地遊びをするようになった。中学生時代に引っ越しなどでバラバラになったが、以降も思い出したように再会して一緒に旅行をしたり結婚式に出席してくれたりと交友は続いている。
女の子のほうは明らかに私を嫌っていた。小3からの同級生で、中学時代は同じ水泳部の同期だから毎日のように会っていたのだが、ハッキリいって仲は良くなかったし、私も興味が無かった。
中学を卒業してからは会う事もなく殆ど忘れていたのだが、彼女が中学校同窓会の幹事になって電話をかけてきた事から年賀状の付き合いが始まった。声を聞くのは20年ぶりで、しかも在学中は殆ど言葉を交わすこともなかった。ところが意外に会話はギクシャクせず、旧知の友達と再会したかのように弾んでしまった。再会してから15・6年、年賀状の付き合いは今でも続いている。
幼馴染とは殆ど年賀状の付き合いとなっている。一種の安否確認のようなものだ。その距離感が交友を長持ちさせているのかもしれない。
高校時代や大学時代の創作仲間や、あるいは20代後半からの市民運動の仲間とは、当時は生涯の友になるのだろうと思ったし、諸先輩方からもこの青春時代の仲間たちは人生の戦友になると言われたものだが、残念ながら「戦友たち」とは全員縁が切れてしまった。
ハイティーンからの友人たちで今でも続いているのは水泳部の同期たちであり、20代後半から続いているのは職場で知り合った飲み友達・猥談友達である。
振り返ってみると、長い友はみんな一定の距離を置いて気楽な付き合いを維持している者たちばかりだ。真剣に討論したり活動や運動に邁進する濃密な友達とは例外なく決別している。
幼馴染というからには幼いころから見知っていていなければならない。そして誼が続いていなければならない。利害関係は無く、たまに会って酒を飲む程度が幼馴染を維持する事なのかな、と思う。
職場の友達や市民運動や創作活動の仲間は、絆が強いようで意外に脆いものだった。幼馴染は特に深い仲でも濃密な仲でもないのだが、小さい頃から知っている、子供のころに遊んだということで、少し等親が離れた親戚のようなものかもしれない。
(余談1)和歌山時代の友人の中で唯一消息が判っている人がいた。なぜなら後に角界で超有名人になったからだ。和歌山に引っ越して間もないころ、心細い私に親しく接してくれて、1年生の頃は毎日のように遊んでくれた。スポーツ万能で頭が良くて性格の良い、同級生というより優しい兄のようだった。彼からは当時流行っていたレインボーマンのカードを沢山くれた。
残念なことに、彼はまだ40代の若さで他界してしまった。俺の事を憶えているかどうか判らずじまいだった。



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「ツタヤ図書館」騒動で浮き彫りになる司書への軽視。 近頃の現象[一一八七]
「司書」の重要性
レンタル大手「TSUTAYA(ツタヤ)」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が運営する公共図書館で、さまざまな問題が指摘され始めている。国内で初めてCCC運営の図書館を導入した佐賀県武雄市では、関連会社から中古本を購入していたことが発覚。国内2例目の神奈川県海老名市でもCCC側の選書や本の分類に疑問の声が上がった。問題を受けて、愛知県小牧市では住民投票の結果、「ツタヤ図書館」の導入の反対票が賛成票を上回った。いわゆる「ツタヤ図書館」は、共通する課題があるのだろうか。図書館情報学が専門の慶応大学文学部、根本彰教授に聞いた。(THE PAGE)
【雑感】実は大学時代に司書ライセンス修得過程を履修した事があった。藝大なので、高校や中学の教員過程や博物館や美術館の学芸員過程などが有り、私は本がある空間が好きなので司書を選んだ。
ただ、当時は講義をサボって旅に出ていたので、結局4年では卒業できず「5回生に進級」してしまった。卒業する単位を集めるだけで手一杯で司書コースを放棄してしまった。今にしてみればとんでもない事だ。あのとき資格を獲っていれば、もう少しマシな人生をおくっていたかもしれないのだが・・。
さて、私の地元堺市でも図書館民営化問題があって、反対する市民団体は「私たちは貸し本屋のオバチャンじゃない」をスローガンにチラシを作っていたのを覚えている。
実際、司書というのは国家ライセンスを持つ専門職であり、アメリカなどでは修士号をもった人間が担うので社会的地位は高い。広大なアメリカでは書店の展開が追い付かず公営の図書館が地域の教育や文化を担ってきた経緯がある。それに比べれば日本は昔から本屋が多いという事情もあって軽んじられがちだが、それでも大卒者が担う。
確かに仕事内容は書店員と被る部分が多い。しかしそもそも図書館と書店とは役割が異なる。それは売れる本と地域が求める本、あるいは大手出版社が一押しする本と地域にとって必要な本が必ずしも一致するとは限らないのと同じである。
ましてや、書店員はあくまで商品としての本を売る事が目的であるのに対し、司書にとって本とは情報媒体であり、情報の価値を評価して分類管理する知識と技術を体得した専門職である。極端に言えば、図書館の運営に司書は必要だが書店経営に司書は必要ない。
ところが職務が被っているように見えるうえに、自治体の多くは財政難ゆえ図書館は削減対象に入ってしまうのである。医療や福祉や学校などに比べれば図書館はまだ削りやすい対象に見えるのかもしれない。特に現在のネット社会になると紙媒体の利用自体が減少しつつある。中高生の頃は学校の図書室に行って辞典や事典や六法全書の類を取り出して調べものをよくしたが、今はPCの検索で瞬時に必要な情報があらかた得られる。
こうなってくると、サービスが同様なら民間に委託しても構わんではないか、と思うようになっても仕方がないかもしれない。
ただ、ネットはあくまで雑多で野放図に情報が氾濫している環境であって、しかも込み入った内容になってくると有料になってしまう事も多々ある。
以前にも述べた事があるが、新聞雑誌などでは一応は事実関係掌握の訓練を受けた記者が取材をし、さらにそれら記者を統括するデスクや編集長がふるいにかける。それでも誤報や名誉棄損沙汰が発生するが、ネットでは良い意味も悪い意味も含め訓練を受けていない素人が真偽未確認のまま情報を垂れ流す。だから図書館の必要性は依然としてあるのだ。
そういった事情を踏まえて図書館民営化の問題なのだが、前述したように司書と書店員は役割も価値基準も違う。極端に言えば、司書は儲からなくても公共の利益になると判断すれば提供するが、書店員は基本売れる本しか出さない。しかも書店業界も以前に述べたように斜陽産業なのである。斜陽産業という事は人材も劣化している可能性がある。
そこへ図書館運営となると、現時点では無料公共施設ゆえ委託された民間は経費の削減を真剣に考えざるを得ない。削るとすれば、まずは人件費となり管理者の劣化が始まる。次に蔵書のスペースが限られているゆえ閲覧数が少ない資料を機械的に「不良債権」と判断して遺棄される可能性もある。歴史的に貴重な書籍が行方不明になってしまう事件もあるかもしれない。公営の図書館時代からそんな現象があったとしても、民間のせいにされるだろう。
文化というものを顧みる必要がある。目先の対処ばかりを繰り返していたら、識字率最高水準を誇りノーベル賞受賞者を多く輩出してきた日本の屋台骨が骨粗鬆症のごとくボロボロになってしまう事もあり得る。



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「子供をお迎えに行く父親は本当に出世できないのか」・・男性中心社会の弊害というより、日本型資本主義社会の弊害である。 近頃の現象[一一八六]
本当に出世できないのか
都市部で働く母親が子供を保育園に入れても、問題が次々と立ちはだかります。その一つが保育園のお迎え。保育園の閉園時間は夕方6~7時ごろ、この時間が、日本の企業が求める働き方と相いれないのです。明治大商学部准教授(社会学)の藤田結子さんが保育園の「送り迎え」の現状を報告します。(毎日新聞)
【雑感】大昔、友人たちと喧々囂々の議論になった事がある。(余談1)
友人Aの家で飲んだ時の事である。酒と手料理を持ってきてくれたAの妻が仕事漬けのAへの憤懣を口にした。仕事で帰りが遅いだけでなく、上司や同僚と道草で飲みに行ったり、得意先と宴会やったり、家族の事をもっと考えて欲しいと愚痴る。
この憤懣に夫よりも我々男友達が若干カチンときてしまい、怒りを抑えながら「家族を考えたら、なおさら帰りは遅くなってしまう」と諭すように口々言った。
日本型ビジネスは、特に営業職などは職場の作業だけが仕事ではない。仕事をしていく上で、相手の人となりをもっと把握したい、相手との信頼関係をもう少し確信に近づけたい、そういう意味で酒がアイテムとして使われるのが当たり前の時代だった。飲み会も実は「仕事」なのである。下手をすれば昼間の通常の労働よりも勝負だったりする。
そんな大事な場にことごとく参加できない、となれば「やる気」を疑われるし、妻を説き伏せる事ができない人材に大事な商談を任せる事はできない、と判断されかねない。
捻くれ者の私は意地悪く友人の妻を攻撃してしまった。「これからますます景気が悪くなる。忙しいのは結構なこと。家族の時間が欲しいのなら今より不安定で低収入の生活を選ぶか、金銭的に豊かで安定した生活を選ぶのなら今を我慢するか、二つに一つ、中間は無い。その覚悟があった上でのA君への文句か? 自分の事を理解してほしいと思うんなら、当然A君の仕事の現場を理解掌握してるんやろうな?」とたたみこんでしまった。
友人Aの妻は顔を真っ赤にして「連絡ぐらいはしてほしい。なんで電話かけるぐらいできへんの」と声を絞り出すように言った。
同席していた友人Bがやり過ぎに気が付いた。いつの間にかAの妻を我々が吊し上げにしているような構図になっていたのでマズいと思ったのだろう。Aの妻としては我々が共感と同意をするものと思い込み、我々からもAに注意してほしいとぼやいた事が、逆に自分が集中砲火を受けたのでショックを受けたようだ。Bはバランスを図るべくAを説教する。
「おいAよ、酒飲むんなら途中で席立って便所ぐらい行くやろ。その時に電話せぇよ。俺の上司なんか接待が長引くと、家族に電話いれるために便所を口実にして席たつぞ。馬鹿正直に飲んでないで、それぐらい機転きかせよ」
さらに続けてBはAの妻を諭す。
「さっき言うたように、便所へ行く振りをして家族に『遅なる』とコッソリ電話せなあかんねや。それだけ日常とはかけ離れた常軌を逸した世界、て事だけは解ったってくれ。頼む」
このエピソードは私がまだ30になっていない頃の話である。20年くらい昔か。現在は変わってきているとは思うが、仕事との付き合い方は基本同じだろう。
接待のない製造業の現場作業者でも儲かっているところは12時間以上みっちり働かされる。私自身、以前は通勤時間も合わせて1日の3分の2以上は「仕事」で取られた。食事と風呂の時間を作るので手一杯、家事をやったら睡眠時間を削る事になるので、自然と連れ合いが家事を担当するようになった。子供の顔も寝顔しか見ない日が続いた。
製造業の多くは基本給を安く抑えられている。残業をやらなかったら、とても子供の学資保険などは捻出できない。
上記の毎日新聞記事はそれらの事情を証明している。近年はOLも男性と同じように、というよりも日本型資本主義に巻き込まれていると考えたほうが良い。製造業の現場でもかつては女性の夜勤はあり得なかったが、今は当たり前になった。平均所得が大幅に減っている状況では「専業主婦」になりたくてもなれない状況になりつつある。
改めて言う。OLの男性化ではない。以前では「女」を理由に日本型資本主義の現場から外れる事ができたのが、今はできない。企業が求めるのは「男」ではなく日本型資本主義について行ける人間だけだ。ここを押さえておかなければ、解決の糸口は永久に見つからない。
けっして「女性差別」などと短兵急に問題をステレオタイプ化させて世の働き盛りの男性を徒に批難するだけになってはいけない。そんな感覚では逆に相互理解の道は閉ざされ、むしろ相互無理解と対立を煽るだけである。社会の改革など進みようがない。
現状を脱却できる方法の一つとして私が推薦したいのは、UターンもしくはIターンで都市から農村へ移住する事だ。農民なら一種の自営業なので時間の割り振りは自分の裁量で何とかなる。自然豊かな地方であれば子供の発育にも良い。しかし多くは収入減を覚悟しなければならない。
私も故郷移住をあれこれ思案しているのだが、状況は厳しく、とても生活できるようなレベルではない。加えてTPPの影響がどう絡むか。国や自治体が人民公社のようなものを立ち上げて農民を公務員化でもしないかぎり無理っぽい。
現在の有り様が、不本意ながらけっきょく物理的に一番安定している姿なのだ。変えるとなれば、相応の覚悟が必要である。生活習慣から価値観まで全てを変える覚悟である。綺麗なスーツを着て御洒落にバリバリ働いて出世するような価値観では、日本型資本主義から抗う事は無理と心得るべきかな。
そして既に高価な背広を着て働いている人々、特に与党議員諸君は状況を理解していない前提を意識するべきだろう。口を開けば必ず時代錯誤の失言になると心得るべき。失言との誹りを受けたくないのなら、せめて今すぐ保育料・学費・通学費を全て国家の全負担にしろ。
(余談1)当時は90年代前半。まだバブルの残り香があり、忙しい人は忙しいだけ儲けがあった時代である。
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ちょんまげぷりん [DVD] 中村義洋監督 ともさかりえ・錦戸亮主演
シングルマザーで四苦八苦するヒロインの前に突如現れた江戸時代の侍。ともさかりえ氏が日本型資本主義社会に呑み込まれ悪戦苦闘する様がリアルに描かれている。ジャニーズ系映画と思いきや、なかなか奥が深い作品だ。
まだ幼児の鈴木福君の名演技が光る。
晴雨堂関連記事案内
「ちょんまげぷりん」 家族と一緒に考えよう 〔24〕



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「非正規労働者の増加が止まらない」て?そうなる事が亡国のお偉方のお望みだろ。 近頃の現象[一一八五]
あまりにも残酷な現実
アルバイト、パート、派遣、請負など非正規労働者の増加が止まらない。平成元年(1989年)に817万人で全体の約2割だった非正規労働者は2014年に1962万人まで増加。全体の37%と4割近くに迫っている。今や労働者の実に3人に1人が非正規だ。(東洋経済オンライン)
【雑感】私が子供だった頃、いい歳してアルバイトやパートを転々とするオッサンたちはロクでもない輩、だらしない輩、甲斐性のない輩、というイメージだった。しかし今や齢40・50になってもフリーターというのは珍しくもない。もはや恥ずかしくもなくなった。
逆に正社員がまるで特権階級であるかのように言われ始め、保守系勢力は正社員の「特権」を奪って不安定で低い非正規の環境を基準にして地ならしする魂胆だ。
企業側は今さら正社員の数は増やさない。競争社会で企業はどこもコストダウンにしのぎを削ってきた。そこへ小泉改革で派遣業界の規制緩和、どこの企業もその法律に飛びつき派遣社員を使って人件費の削減を図る。いちど減らした人件費というコストを進んで上げる企業はまずいない。
リーマンショックなどで派遣切りが横行して路頭に迷う者が溢れると、当時の民主党を中心とする連立政権は派遣契約の制限を設け、長期雇用するのであれば正社員として雇わなければならないという制度にした。福島瑞穂氏らが得意げ(のように見えた)になって法改正の意義を熱弁したが、そんな事をされると正社員へ登用しなければならない月数に至るまでの契約満了時期に雇止めするようになる。銭がかかる正社員席を既に減らしているのだ。粗末な作りの椅子は増やしても、しっかりとしたつくりの椅子は増やしはしない。
思うに、私が知る本格の労組運動家や左翼運動家はそれなりに企業家の気持ちを熟知して急所を効果的に叩いているが、福島瑞穂氏のような上品な左翼は「敵」である企業の気持ちを理解せずに戦術を立てているような気がしてならない。その原因は推測できる。私のように工場で下働きして糧を得る暮らしの体験が彼女たちには殆ど無いからだ。その結果、かえって労働者の雇用環境を悪化させているような気がする。
このような事態は経団連をはじめとする財界が望んだことだが、これは果たして国益なのだろうか? 求人が増えているとはいえ、それは若い世代に限った事で、40・50になるともはや正社員の口は無く、派遣やアルバイトばかりになる。派遣やアルバイトで取り敢えず落ち着いたとしても、3年程度で雇止めになるので落ち着くことがない。
20代のうちは特に将来の展望がなくてもあまり不安感は無いだろうが、私の歳になると老後の問題が圧し掛かる。使い倒されて病気になって野たれ死ぬ自分の姿が明滅する。
職場の現場でも対応に苦慮する。短期のパートやアルバイト相手なら、正味基本的な事を教えて単純作業をやらせればいいかもしれないが、派遣であれば正社員なみに込み入った仕事を教えなければならない場合も出てくる。しかし多くは正社員にはできないので雇止めになる。そのたびに一から新人に教えなければならないので時間と労力のロスだ。
体力のない企業になると派遣すら雇えず、少ない人数でサービス残業を入れて目前の作業をしのぐ羽目になる。こんな事で安定した社会はできるのだろうか?
国は国庫が乏しいことを理由に福祉行政を二の次、企業は目先の利益を得る事で手一杯、という事らしいが、その先に何がある?
第二次世界大戦末期、日本はその場しのぎの作戦ばかりを立てて徒に前途ある兵員たちを使い捨てまくった挙句にアメリカに負けてしまったが、それと似たようなことが経済でも起こるのではないか。



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貧乏ネタを売りにするアイドル急増、一般人との垣根が低くなる時代。 近頃の現象[一一八四]
その背景は?
「家族5人で布団がなくて毛布1枚ずつ」「風が吹くと家が揺れる」「うちのすき焼きには肉が入ってなくて麩の料理だと思っていた」。NMB48からの卒業を発表した小谷里歩は“貧乏”をトークの鉄板ネタで使っている。最近、他にもバラエティ番組などで貧乏ネタをおおっぴらにするアイドルが増えてきた。(オリコン)
【雑感】女性アイドルといえば、大昔であれば夢を売る商売なので生活臭は極力出さないようにしていたようだが、私の世代あたりから親しみやすさを出すようになり距離感が縮まってきた。オリコンの記事ではおニャン子クラブの親しみやすさをあげていたが、私も同感である。
私の世代の場合、小中学生時代は山口百恵氏が芸能界の顔だった。山口百恵氏がヒロインを務めた「赤いシリーズ」は家族団欒の定番ドラマだった。山口百恵氏は王道を行くアイドルで、いつの間にか三浦友和氏と結婚を決め、二十歳代前半なのにサッサと引退をして表舞台からほぼ完全に姿を消した。歳相応のオバサンになっているらしいが、そんな姿は全く想像できない。今でも20代のイメージのままだ。(余談1)
しかし今は違う。秋元康氏らがアイドルを身近な存在に演出した事も大きいのだが、やはりSNSの発達が各々アイドルに一定の情報発信力を与えたのが大きい。
以前であれば芸能事務所が芸能人を公の発言から私生活まで徹底的に管理してきた。ところが今はTwitterやFacebookのおかげで事務所を通さずダイレクトにファンたちとコンタクトをとる事ができる。これはファンの側から見ても以前は高い石の塀だったのが今では自分の肩ぐらいの高さの竹垣ぐらいの塀になったような感がする。
実際、私自身もテレビで御馴染の有名どころでは春香クリスティーン氏や春風ちゃんといった女優やタレントからTwitter上で返信をいただいたことがある。もちろん、先方にとっては不特定多数の中の一人である晴雨堂は記憶に残っていないだろうが。
いずれにせよ、以前であれば芸能人というのは事務所がガッシリとガードを固め、コンサートやトークショーなどは厳つそうなピンストライプのセミダブルの肩幅の広い背広で身を固めた強面の若い衆が眼光鋭く舞台袖に控えているといったイメージだった。ファンレターを出しても、本人に届くという保障は無い。
今の芸能界はそんな障壁を敢えてつくらず、SNSでダイレクトにファンとのやり取りを楽しみ、時には政治的な意見をTweetしたりもする。
かつて吉永小百合氏はサユリストから見れば、神々しすぎて、便所でウンコやションベンなど用を足す姿なんぞ考えられないし想像すらできないものだったが、今は生々しく生活臭を感じるし感じても良い距離感となってきた。
これは良いことだと思っている。
(余談1)私の世代で身近に会えるアイドルは、フェミニスト諸君からは顰蹙を買うだろうが、ストリップ劇場の踊り子さんたちである。若い頃は伝説のストリッパー影山莉菜の追っかけみたいな事をやっていた。
ファンと踊り子さんとの距離は近い。色紙にサインを書いてくれたりツーショットで撮らせてくれるのはもちろん、花束や菓子や中には所帯じみたハム詰め合わせやお茶の詰め合わせなどを受け取ってくれたりもする。時には演技の節目に握手をしてくれることもあったり、舞台が終わったら一緒に食事という事もある。



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町興し村興しのヒント(7) マイクロ・ライブラリー 晴雨堂の晴耕雨読な日常[二二六]
見学に行ってきた。

難波駅近くの大阪府立大学施設内で。
【雑感】10月3日に催された「マイクロ・ライブラリーサミット」なる集まりに参加してみた。数年前に「まちライブラリー」を提唱して活動を続けている磯井純充氏らが中心となっているようだ。参加者は関係者も含めて約二百数十人と行ったところか。
「マイクロ・ライブラリー」と聞くと、ビール党の私はつい「マイクロ・ブルワリー」を連想してしまう。大手のビール会社に対する地元密着の小さな地ビール醸造所だ。ところが「マイクロ・ライブラリー」は聞きなれない言葉、要するに個人的に運営する小さな図書館の事を指すみたいだ。
連れ合いがこのイベントのチラシを見つけて私に「行ってみたら」と勧めてくれた。平素から私は「郷里に私設博物館をつくるぞ」と冗談半分に言っていたし、当ブログのプロフィールページにも明らかにしていた。趣旨が近いと思ってくれたのだろう。家計が苦しいので、講演や討論の類が終わったらすぐ帰れと言うてくると思いきや、「懇親会も行きや」と背中を押してくれた。(余談1)
私にはささやかな夢がある。大阪を引き払ったら、郷里で小さな博物館を興したい。あくまで今のところは漠然とした淡い夢でしかないが。
郷里は昔から書店空白地帯だった。商店街の雑貨屋が本屋を兼ねていて専門の書店は無かった。もっとも近年は、やなせたかし先生の故郷である事にあやかって文化的な施設がまとまって建設されたり、児童書をメインにした市立図書館の別館ができたりと文化薫る郷里になってきてはいる。
が、今まであった商店街は寂れつつある。郷里をもっと賑やかにするには、もう一つくらい名所が必要だと思っているし、私はサブカルが好きなのでマニアック寄りの文化拠点ができても良いのではないかと思っている。
美容師の連れ合いは、田舎でへなを使う美容室を雑貨屋を兼ねた形式で始めたい夢がある。これに私が構想している古書店と特撮系の雑貨や古美術にパイプ椅子を10個ほど並べた程度のプチシアターでパブリックドメイン化された映画の上映サービスを行ったら楽しいだろうな・・という空想を抱いていた。
淡い夢のまま、いつの間にか齢50になってしまった。還暦まで10年程度しかない。実際問題、どれほど困難なのか仕事が暇なので調べてみた。
問題は書店分野の業界だ。少子高齢化による人口減と大都市への人口流入と地方の極端な過疎化、書店業界の市場は着実に縮小しており、特に私の郷里のような、関西や関東などの大都市圏外から外れた地方では「市場」と呼べるものは無いに等しいと考えたほうがよさそうである。
大店舗は体力を活かして大都市圏で店舗数を伸ばしてはいたが近年は頭打ちになりつつある。となると、銭儲けを第一のテーマに挙げている限り書店業参入は無謀といっても過言ではない。完璧な斜陽産業である。
全体の市場が縮小しているのに加えて、最も書物を利用する年齢層である学童や学生の紙媒体離れが凄まじい勢いで進んでいる。さらにネット媒体で書店業界に切り込む業者が割って入って躍進しているため、中小零細の書店は次々と廃業へ追い込まれている。
調べれば調べるほど、希望的要素は無い。少なくとも本だけでは勝負できない。所詮はランチェスター法則(余談2)には逆らえないということか。
ただ、私は全くの素人なので、この「サミット」から何か新しい方法論やヒントがあるかもしれないと思って参加した。
参加の印象は、まず私の見立て通りだったという事である。これはガッカリであると同時に、一介の旋盤工の見立ては見当違いではなかったという訳なので個人的にささやかな自信を持っても良いかなと思った。
何か手に職を持って生業としながら古書店や私設図書館をやっていき、各々の古書店や私設図書館が連携しあってコミュニティの場として地域活性に貢献していく。そういう試みのようだ。
マイクロ・ライブラリーという概念自体は決して新しいモノではない。市民運動にかかわっていた時代、そういった地域の情報発信の場として図書館や資料館のようなものを運営している人たちを若干名知っていた。
あるお寺などは、檀家に頼る時代ではないと言って、地域のコミュニティ広場として開放し、蔵書も図書館のように貸し出し、左派護憲派系なら積極的に市民団体の会議やイベントに場を提供していた。実際にお寺で開かれた会議や懇親会に参加したことがある。
またあるオタク系の人たちが映画や特撮などに特化した古書店や雑貨店を開いているのを見たことがある。
ただ、「マイクロ・ライブラリー」というテーマに特化したネットワークは私にとって初耳だった。自主的に小図書館が連絡を取り合う事はあっても、今回のように大阪府立大が協力して学術的に理論をまとめ体系立てて運動にしていくのは、以前はあまり無かったと思う。
あくまで小図書館を中心にした地域社会の活性化がテーマなので、政治的あるいは宗教的な色合いは無い。参加者たちの多くは児童書やエコロジーや藝術などにほぼ限られている。今後もニュートラルであってほしいが、いずれは特定の主義主張を「信仰」するグループも参入してさざ波を起こすこともあり得るだろう。
そうなった時、サミットを主催する人たちはどのように対処していくのだろうか? ふと思った。
このイベントも今回で3回目だそうである。午前中の基調講演とパネルディスカッション、午後からは各地でマイクロ・ライブラリー活動をしているグループの発表会、夕方は各分野に分かれての分科会、最後は近くのビュッフェで懇親会。(余談3)非常に盛沢山のイベントを滞りなく運営されているのに驚いた。
私も千人集会や五百人集会の実行責任者を務めたことがあったが、胃が痛くて二度とやらんと思ったものだ。
(余談1)そうなのだ。この手の集まりの本当の勝負は懇親会にある。懇親会に行かなければ、イベントへ行った意味の半分も無い。何故なら昼間のお堅い勉強会だけでは、予定調和的な好意的情報が中心になる。本音を聞くとなればやはり懇親会だ。また懇親会であれば名刺交換の機会も得られる。連れ合いがこうも理解があると気持ち悪い。
(余談2)第一次世界大戦勃発直後、フレデリック・ランチェスターによって発表されたオペレーションズ・リサーチにおける戦闘の数理モデル。現在は経営学で応用されている。
ランチェスター法則の概略を解りやすく述べるとこうなる。
基本戦術・・弱小勢力はアイディアを絞って他社との差別化戦術、対して巨大勢力は新興勢力の戦術を潤沢な資本で真似る。
よく画期的な家電が発売されたら、いつの間にか大手家電も横並びで同様の家電を販売している現象。
基本戦法・・弱小勢力は一点集中、専門性に特化。対して巨大勢力は全方位攻勢。
例えば、地ビール業者はドイツ系やベルギー系などの濃厚ビールに特化して市場との差別化を図らざるを得ないが、大手ビールメーカーは売れ筋銘柄を大量生産しながら濃厚ビールも出す。
展開方法・・弱小勢力は局地戦(地域密着)を展開。巨大勢力は広域戦(全国)を展開する。
マイナーな映画はミニシアターや自主上映会で発表せざるを得ないが、ジャニーズとフジサンケイグループの連合軍は全国のシネコンで展開。
(余談3)分科会では、南陀楼綾繁氏が高知の「うずまき舎」の事を話題に挙げた。
懇親会を開いた店の名は失念した。立食パーティの形式をとっていた。やはり主催者はよく考えている。
高知では、宴会の席次は有って無いようなもので、宴会が始まると各々ビール瓶やお銚子を片手に席を立って挨拶しまくる。ところが高知以外の地方では皆さん尻が重い。座ったらそこから動かない人がいるなんて私には信じられない。だから交流を広げ深めるには立食が一番だろう。
ビールがプレミアムモルツなのが嬉しい。結局、私は名刺交換と談義にかかりっきりでビールばかり飲んでしまった。腹が減っていたのに食事にはあまり手を付けなかった。食器を持ってると手がふさがって不便だからだ。
ウエイトレスが沢尻エリカ風の若い美女で、キャッツアイのような衣装を着て近寄りがたい無言の無表情で隅に待機していて、空になった皿やグラスを問答無用で下げていく。
ちっくと下げるの早すぎると思ったこともあったが、そういうキャラで売っているのだろう。



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