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ミカエル晴雨堂の晴耕雨読な映画処方箋

晴雨堂ミカエルの飄々とした晴耕雨読な映画処方箋。 体調に見合った薬膳料理があるように、 料理に合う葡萄酒があるように、日常の節目に合った映画があります。映画の話題をきっかけに多彩な生活になれば幸いです。詳しいレビューは「続きを読む」をクリックしてください。

「『睡眠力』こそが全ての源です‼」水木しげる先生談 近頃の現象[一二一三]

【雑感】水木しげる先生、お疲れ様でした。

 ネット上で水木先生の「睡眠のチカラ」が拡散している。まだ手塚治虫氏も石ノ森章太郎氏も元気だった頃のエピソード。
 出版社が主催するとあるパーティ、おそらく立食で歓談する形式だろう、水木先生がガツガツとテーブルの御馳走を貪り食っている様を手塚氏と石ノ森氏の二人が見かけ声をかける。二人は水木先生の食欲に驚き感心する。
 三人は挨拶をかわし世間話をする。手塚氏と石ノ森氏は仕事で忙しすぎる事をこぼすのだが、どこか徹夜自慢・不幸自慢をしているような雰囲気。その様子から徹夜続きで食欲がなくパーティの御馳走もあまり手を付けていなさそう。
 そんな二人に水木先生は「自分はどんなに忙しくても10時間は寝る」という。手塚氏と石ノ森氏は「羨ましい」とか「あやかりたい」と外交のお世辞を言う。そんな二人に水木先生は睡眠の大切さを説教する。
 最後のオチが書斎のソファーでくつろぐ水木先生の呟き。「・・というわけで両氏は早死にしてしまったんだなぁ」

 睡眠は大切だよ。私もまとまった睡眠時間が1日3・4時間しかとれない時代があった。選挙などのイベントがあるとたちまち布団で寝る時間が消滅して通勤の電車や会社の食事休憩の時にとる仮眠だけの生活が2か月程度続いた時があった。あんな生活、やるものではないし、二度とやってたまるか。睡眠と食事を蔑ろにしたら必ず後悔する。

 私は水木しげる先生のような老人になりたい。

晴雨堂推薦図書
劇画ヒットラー (ちくま文庫) 水木しげる


 
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セブン-イレブンが「ブラック企業大賞」に選ばれた。 近頃の現象[一二一二]

ブラック企業大賞・セブン 
「収益構造に歪み」「メディアが取り上げない」 
実行委が指摘


 パワハラや長時間労働など、従業員の労働環境に問題のある企業を選ぶ「ブラック企業大賞2015」の授賞式が11月29日に開かれ、セブン-イレブン・ジャパンが大賞に選ばれた。授賞式後のシンポジウムでは、実行委員会メンバーの弁護士やジャーナリストらがブラック企業の現状について議論した。
 今年で4回目となるブラック企業大賞は、弁護士やジャーナリスト、学者などでつくる実行委が主催。今年の大賞に選ばれたセブン-イレブン・ジャパンは、販売期限の近い弁当などを値下げする「見切り販売」を妨げるなど、フランチャイズ加盟店から搾取しており、そのしわ寄せがアルバイトに及んでいると、実行委は指摘している。(弁護士ドットコム)


【雑感】学生時代、私はコンビニでアルバイトを3年ほどやった。最後の1年になると、店長業務も任されるようになったが、時給はたいしてあがらなかった。端数は忘れたが、採用当時は大阪府が定める最低賃金460円台だった。3年目は550円台だったから、100円も上がっていない。

 とはいえ、給与面ではコンビニ店長を批難する気は起らなかった。今だから白状するが、コロッケや唐揚げなどレジカウンターで売るファーストフードの総菜類をまだ売れる状態なのに「売変」(余談1)しておやつや弁当がわりにした。ある種のプチ不正を日常的にやっていた。
 特に自分が一人で店の開店(当時は朝7時開店、夜11時閉店、24時間営業はまだ少数だった)を任されるようになると、2時間早く出勤して勝手に冷凍庫からフライドチキンや白身フライなど出してきて揚げたてを肴に缶ビールを1本を飲むなんて事もやっていたし、店の閉店では後輩のバイトらとプチ宴会をやったものだ。このささやかな「役得」があったから給与面での文句は言わなかったのだ。
 因みに詐欺や窃盗の時効は7年なので、20年以上前に成立している。

 それ以上に店長は非常に激務だった。休日はあって無いようなもの、バイトが足らなければ事実上休みは無い。たぶん、24時間営業の店では24時間労働をやってしまっている人もいるだろう。
 問題なのは直営店だと社員が店長を務めるが、フランチャイズで店長は「店主」なので「労働者」ではなく個人事業者となる。
 店長の労働条件を眺めながら「俺はコンビニの店長にはなるまい」と思ったものだ。

 少なくとも一生涯の仕事とするにはシンドイ。ただ、会社経営の実習として勤務するには有益だとは思う。「会社経営」と聞いて大袈裟と思う者が多いだろうが、コンビニは小さな店舗ながら扱う業務や抱える資本は中小企業なみなのだ。スーパーと同じようにファーストフードや弁当や雑貨や文房具や書籍など揃え、郵便切手や宅配便の窓口、電気ガス水道料金支払の窓口と多岐に及び、過疎地域では特定郵便局に代わってコンビニの存在が脚光を浴びている。
 また、昔の会社法では株式会社設立に必要な資本金は一千万円だったが、コンビニ一店舗でそのくらいの規模がある。フランチャイズなので本社の意向から逸脱する商いはできないが、その代わり光熱費や通信費は本社が負担してくれるので、将来なにか商いを始めたり起業しようと考えている人には訓練の場になると思う。

 だから人生を捧げる仕事として考えると辛いものがあるが、一時期の修業の場と思えば悪くはない。逆に一生の仕事として考えてしまうと痛い目にあうかもしれない。というのは、近所の酒屋がコンビニにリニューアルしたものの廃業してしまった例を複数みてしまったからだ。

 セブンイレブンがとるべき対応は、せめてバイトの労基に抵触しないよう各店舗を指導し、必要であれば人件費に補助を与えるくらいの事をやっていく必要に迫られるだろう。

(余談1)「売変」とは売価変更の略語で、古くなったファーストフードの値段を変更して売る意味なのだが、もっぱら売れ残りを処分するときに「ゼロ円」に売価変更する事を指す。
 当時、従業員の間では「売変」はファーストフードをタダで食う意味と同義語だった。

 本部が販売期限の近い弁当などを値下げする「見切り販売」を事実上の禁止を仕掛けるようになったのは、私のようなチンピラなバイト店員のせいや、と昔の上司からひやかされた事がある。


 
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「あさが来た」 妾の存在を描くのか?隠すのか? TVドラマ評[七十九]

NHK『あさが来た』 
諸々配慮して妾の存在を隠し通す方針か


 NHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』は11月20日放送回で視聴率25.0%を記録し、大ヒットした『マッサン』の最高記録に早くも並んだ。そんな人気ドラマの演出を巡って、ある論争が巻き起こっている。(NEWS ポストセブン)

【雑感】物語が始まる時代が朝ドラ史上初の幕末、着物やカツラの使用、「純情きらり」でヒロインを務めた宮崎あおい氏が準ヒロインで再登板、三井財閥ゆかりの女性実業家をモデルにした主人公、といった話題に興味を持ってはいたが、当初はディスクに録画するほどの関心は無かった。
 ところが、大河ドラマ「新選組!」の土方歳三役がアタリ役と評判の山本耕史氏が本ドラマで再び土方歳三役で登場する、というニュースを聞いて、新選組登場の週だけと思って録画予約を設定したのだが、結局はそのまま録画を続けてしまっている。観れば観るほどけっこう良い作品だ。

 小林よしのり氏が本作について「妾を描写するべきだ」と強く主張しているとの噂が流れている。近頃の小林よしのり氏は明治が生んだ右翼の巨人頭山満を主人公に当時の自由民権運動などを漫画で描いているので「あさが来た」の時代には熱い関心を抱いているのだろう。
 彼がいま描いている作品では高知の自由民権運動(余談1)の状況をけっこう正確(政治的立ち位置によっては印象が違う)に捉えているので好感を持っているし、妾を描写するべきかなと私も思っている。

 ただ、朝ドラはあくまで「朝ドラ」であって「大河ドラマ」でも「木曜時代劇」でも「タイムスクープハンター」でもない。視聴者の中心は主婦層、爽やかな癒しが求められる。ニーズが違えば作品内容も変わらざるを得ない。
 比較的時代考証に沿う「大河」とて、お歯黒・眉剃りの既婚女性は現れないし、江戸時代初期までは女性の座り方は片膝立座か胡坐なのに正座になっている。
 合戦場面も鉄砲や弓矢による応酬が大半なのに、足軽から馬上の大将まで短い太刀を振り回しての鍔迫り合いが殆ど。たぶん、「サムライせんせい」のように江戸時代の人間がタイムスリップして時代劇を観たら、100%確実に「なんじゃこりゃ!」と驚くはず。
 視聴者や読者に飲み込みやすいよう「事実」を多少改編するもの、しなかったら大半の人間は納得できないし違和感を持つだろう。史実通りに描いても、作者と視聴者との政治的立場や価値観が違えば事実解釈に乖離が生じて、やはり不快感を抱く。 

 本作でも全く妾の存在を全く描いていない訳ではなく、当たり前のように姑が妾を斡旋しようとしたり、主人公あさが妾を勧めようとしたり、亭主も存外あっさりと妾を持つことに同意してみせたりと、妾にまつわる当時の風習や存在などを臭わしている。
 朝ドラなのでその程度の描写が精一杯ではないかなと思っている。制作者側も物語の世界と史実の世界の狭間で苦慮するものだ。

 だから、野暮は言うな。
 「本物のドラマ」でないというのなら、小林よしのり氏の作品も含めて全てに何らかの偽物が混じっている。創作というのはそういうもので、その嘘の度合いを眺めるのも鑑賞の楽しみの一つだ。
 「あさが来た」が気に入らなかったら、たぶん私も小林氏に同意だろうけど。


(余談1)自由民権運動の志士植木枝盛がニヒルな色男として登場する。たぶん、異論が出てくると思うが、私はこんな感じではなかったかなと思う。
 偉そうで愛想が無くて、しかし女性には優しいのが植木枝盛の特徴だ。


 
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秀逸の風刺小説「帰ってきたヒトラー」ドイツで映画化、日本上映なるか? 晴雨堂推薦新作映画[三十二]

帰ってきたヒトラー」(ER IST WIEDER DA)



【雑感】映画レビュー友達から紹介されるまで知らなかった。

 アマゾンで検索すると原作本の日本語訳が流通している。早速購読した。非常に面白い。いや、我が意を得たりと言うべき内容だった。

 いま関ジャニの錦戸亮氏がドラマ「サムライせんせい」で現代日本にタイムスリップした幕末勤皇の志士武市半平太を演じているが、この「帰ってきたヒトラー」も同様のコンセプトだ。
 武市が藩命で切腹した直後にタイムスリップ、意識を取り戻すと浅黄の裃姿のまま現代日本のアスファルトの道路の上で仰向けに横になっていて、脇差の刃を腹に突き刺したはずなのに身体は無傷。
 本作も発端シチュエーションは同じで、第二次世界大戦末期、ソ連軍に包囲されたベルリンの総統官邸で拳銃自殺したはずなのに少し頭に痛みを感じる程度で無傷、空き地の落ち葉の上に仰向け。何故か着ているコートがガソリン臭い。(自殺した後、ゲッペルスら側近たちが官邸の庭に遺体を運びガソリンをかけて焼却した)

 そして「サムライせんせい」と似たようにヒトラーも慣れない現代ドイツの環境に戸惑い悪戦苦闘していく。この世界では総統でもないのに70年前と同じ主張を大真面目に語るのだが周囲から浮いてしまう。

 ただ、物語の展開は似ているがテーマは決定的に違う。「サムライせんせい」の武市は幕末と現代日本との違いを渋々理解しながらも頑なな態度で幕末当時の侍階級の日本人の価値観を押し通そうとする。
 そのため周囲から浮いた存在になり、コミカルな笑いを誘いながら現代日本人が忘れてしまった大切な倫理観や価値観を呼び起こそうとする試みがあるのだが、この「帰ってきたヒトラー」は違う。

 同じくヒトラーもコミカルな笑いを誘ってしまう。周囲は本気にせず、ヒトラーの生態模写を芸にするお笑い芸人だと勘違いして接する。勘違いと幸運が絡み合い、かつてホームレス青年から国家元首にまで成り上がったバイタリティを発揮して、一躍ヒトラーは芸能界の寵児になり自分の冠番組を持つ芸能人に出世してしまう。
 彼の場合は、武市のように現代を拒絶せず、理解し許容しながら芸能界の地位を足掛かりに政界復帰を試み、国家社会主義運動を復活させようと企むのだ。

 そんなヒトラーを、錦戸氏が演じる武市と同じく面倒な人だが憎めない真っ直ぐな人間に見え、次第にヒトラーという人間が好きになっていく。

 実はこの点がミソなのである。何度か映画レビューで指摘した事があるが、ヒトラーのような人物、ユダヤ人をはじめとする被害者たちにとっては血に飢えた化け物、精神や人格に異常をきたした人物でないと得心できないのだ。少しでも人間的に描こうとしたら「美化」しているように見えて強烈な不快感を抱く。ブルーノ・ガンツ氏がヒトラーを演じた「ヒトラー 最期の12日間」で監督たちは美化にならないよう細心の注意を払ってヒトラーを描いたのだが、やはりユダヤ人団体からクレームが発生した。

 しかし、被害者の意向に従って血に飢えた異常者に描いてしまうと、逆にヒトラーの恐ろしさを隠してしまうのではないかと思うのだ。何故なら、映画や漫画で登場するようなヒトラーが現実に目の前にいたら、ふざけた野郎にしか思えず、支持する気になれないはずだ。

 ナチ党が反対勢力を弾圧粛清したからとか言論統制をしたとか言われているが、その強権が使えるポジションに辿り着くには多くの支持者が必要となる。単なるふざけた野郎だけの存在なら泡沫候補で終わるはずだ。しかも当時は世界で高水準の人権尊重法規を備えたワイマール体制下だ。ヒトラーは一度武力闘争でバイエルン州の政権を奪取しようとはかったが敢え無く失敗している。
 結局、ヒトラーは合法的に政権をとって民主政治を終わらせた。彼にそこまでの力を与えたのはドイツ国民だ。しかも、同じ全体主義のムッソリーニは殺されて逆さ吊りに遺体を晒されたのに対し、ヒトラーは最期まで国民の支持を得たままだった。

 何か人間的な魅力があるはずだ。それをこの本作で表そうとしている。本当の危険人物は、危険に見える人間ではない。魅力ある良い人に見えるから怖いのだ。
 被害者の意向に迎合したら、真に怖い危険人物の台頭に気づけない。

 映画レビュー友達の話によると、今年10月にドイツで映画が公開され大ヒットしたらしい。日本での公開は未定だ。是非とも「アイアンスカイ」のように日本でも劇場公開とディスク化をしてほしいものだ。

【追記】ケルンの友人に聞いた話だと、メルケル支持者の彼は「非常に大評判です。良い映画ですよ。僕は観ていないけど」と笑顔で語った。言葉通りに受け取るべきなのか、深読みすべきなのか・・。(2016.01.29)

晴雨堂関連書籍案内
帰ってきたヒトラー 合本版 ティムール・ヴェルメシュ 著
著者は私とほぼ同世代のジャーナリスト。ドイツで活躍。


 
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町興し村興しのヒント(8) 有隣文化会館 晴雨堂の晴耕雨読な日常[二三五]

有隣文化会館に行ってきた。

有隣文化会館。
有隣文化会館、正面から撮影。

【雑感】少し長い前置きを言う。

 かつて町興し村興しといえば、公共事業や大企業の生産拠点の誘致や新たな産業を興すといった策が用いられたが、経済が低迷している状況ではおいそれと使える手ではない。
 近年注目されているのは、地方の素の資産を活かして映画撮影を誘致する。成功すれば「二十四の瞳」のように小豆島を観光地化する事ができ、島の経済を長く支えてくれる。新しい産業や公共事業を展開する事を思えば、映画に手を貸すことは安上がりだ。

 人が集う仕掛けに限って言えば、方法論は産業や事業を立ち上げるだけではない事が映画誘致でも明らかだ。産業や事業のような人の定着性は期待できないが、集めるだけならイベントや文化発信は銭の無い人間でも手が届く手段なのである。土地の宣伝に直結し、地域の活性化につながる。地域が活性化すれば集まった人に定着性が生まれる。

 こないだ参加した「まちライブラリー」のシンポでは、図書館が地域コミュニティの拠点として有用である点、零細書店なども地域コミュニティとしての要素を取り入れなければ生き残りをはかれない点が指摘された。
 単に本を買ったり借りたりする場ではなく、本を通じて人と人との輪を広げる。コミュニケーションのアイテムとして書籍を活用、そこに茶菓があれば、本を契機に講演会や勉強会などのイベントもやってみれば・・・。
 このような発想で考えていくと、こじんまりとした温かみのある施設に書店と喫茶と画廊と映画館などが集えば、もっと集まりやすい楽しい空間ができるのではないか、そう考えていたところに有隣文化会館の存在を知った。 

有隣文化会館看板。
看板の下にチラリと見えるハートランドのロゴ。

 それでは本題に入ろう。
 京阪電車清水五条駅下車、五条通(国道一号線)沿いに鴨川を渡り麩屋町通に入って少し歩くと、築半世紀以上は経っていると思われる古い形式の倉庫か店屋のような建物がある。周辺には印刷屋や建具製作所などがあるので、元は町工場兼倉庫だったかもしれない。

 そこに、1階右側に「鈴鳴」というカフェレスト、2階は「ギャラリーメイン」という写真画廊とルーメンギャラリーというミニシアター(動画ギャラリー?)が店子として入っている。私にとっては理想的な施設だ。
 近年、町屋や古い家屋をカフェや雑貨店にリニューアルするのが盛んだ。大阪では空堀界隈や梅田の裏手の中崎町などが有名だが、京都ならばそんな物件は豊富にあるだろう。

 以前、まちライブラリーのシンポジウムでニーズがある立地条件が「やや寂れた通り」らしい。この麩屋町通の五条界隈は京都市のど真ん中で、北へ十数分も歩けば京都で最も賑やかな寺町や河原町があるが、ここは閑静な住宅街と繁華街の緩衝地帯で、まちライブラリーの立地条件に適っている。それは同時に画廊や喫茶店にとっても期待できる場所だ。同様の施設を郷里に建てる場合、やはり高知市内でないと厳しいかもしれぬ。 
 前からこんな物件を観てみたかったのだが、交通費と時間がもったいなくて躊躇していた。ところが、私が応援するアイドルグループ「ノーメイクス」の一人がモデルとして関わっている写真展が開かれるというので行かぬ訳にはいかない。

 到着したのは昼過ぎだったので、1階のカフェで飯を食う事にした。目に留まったのは、上記写真では判りづらいが1階中央に四角いハートランドの旗指物がある。当ブログの晩御飯記事でしばしば登場するハートランドだ。となれば、ここの店主はきっと食文化にこだわりがある方かもしれない。(余談1)
 店の内装はシンプルかつナチュラルで、厨房は狭そうだったが客席はゆったりしてる。オープンして間がなさそうだ。女性店主にキーマカレーを注文。辛さは控えめだが香辛料の芳香は爽やかで意外にボリュームがあり、大きな獅子唐?が印象に残った。

天津優貴写真展。

 店のつくりは何だか「三丁目の夕日」の鈴木オートの店舗のような雰囲気だ。やや急な階段の手前には写真展の看板がかけられている。
 階段を上って2階の前部にミニシアターがあるが残念ながら今日は閉まっていた。店番をしているスタッフの話によれば明日開演するらしい。奥にギャラリーがあり天津優貴氏の作品が展示されている。

天津優貴氏の作品。

 スタッフの話によれば、この一人の若い女性を撮った写真の連作を展示する空間全体が一つの作品らしい。スタッフの許可を得て撮影、上記写真は裏から見た図。
 印画紙で焼き付け現像する時代しか知らないので、写真と言われると奇妙な気持ちになる。印画紙は分厚いので透けないが、これはプリンターで薄い紙に印刷したものだから透ける。印刷会社には全紙判プリンターがあるから、そういった業務用プリンターで制作したのだろうか? 
 何か薬品のようなものを塗布しており、それが光の具合に変化を与えている。スタッフの話によると蝋を使っているそうだ。なるほど、パラフィン紙状態になるから透明感が出るのか。

天津優貴作品正面。

 個人的には裏側から見たほうが好きだが、前から見るとカラー写真と白黒写真の2種類組写真であることがわかる。モデルはビニール傘をもって微妙に表情やポーズを変えているが、基本的には大きな変化はつけていない。
 この作品を観ていると、バシュラールの「時間」みたいだ。あるいはショーン・キャメル氏が言ってた多元宇宙なのか? 作者の天津氏がどこまで意図しているのか解らないが、「時間」の連続を意識した組写真なのだろうか?

 因みにモデルは映画監督の井口昇氏がプロデュースしているアイドルグループ「ノーメイクス」のメンバー洪潤梨氏。彼女は大阪出身なので応援している。
 入口のブースには洪潤梨氏の写真をプリントしたTシャツが販売、少し驚いたのは作者の天津優貴氏も自分の顔をプリントしたTシャツを販売していた。しかも潤梨殿と酷似した顔立ち。並べて姉妹と言われたら信じてしまいそう。女の子だったのだ。
 失礼ながら、今まで天津優貴を「あまつ まさたか」と読んでいた。思い込みとは恐ろしいものだ。

天津優貴写真展は11月29日(日)まで開催。詳細は下記のHPまで。
http://www.gallerymain.com/

(余談1)キリンビールが出している麦芽100%プレミアムビール。本来はキリンが経営するブルーパブ用の特別醸造ビールのようだ。酒税法が改正されて小さなブルワリーによる地ビールが誕生するまでは、麦芽100%の本格ビールはサッポロのヱビスとキリンのハートランドぐらいだった。
 このハートランドは今でも缶ビールでは出さず、樽生か瓶で流通している。当ブログでも何度か紹介したが、日本では珍しい緑の瓶に詰められ品揃いの良い酒屋かこだわりの飲食店にしかお目にかからない。
 下記写真は専用ジョッキに注がれたハートランド。

鈴鳴のハートランド。

 サントリーのプレミアムモルツが登場するまでは、ホップの芳香はこのハートランドが日本のビールで群を抜いていたように思う。


 
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無関心が全体主義を許してしまうとニーメラーが言った事になっているが、自分が嫌悪している勢力が弾圧を受けているとき味方になって抗議できるかを問うているのだ。 

"Als die Nazis die Kommunisten holten....." 
ナチスが共産主義者をつかまえたとき


Als die Nazis die Kommunisten holten,
habe ich geschwiegen,
ich war ja kein Kommunist.

Als sie die Sozialdemokraten einsperrten,
habe ich geschwiegen,
ich war ja kein Sozialdemokrat.

Als sie die Gewerkschafter holten,
habe ich geschwiegen,
ich war ja kein Gewerkschafter.

Als sie mich holten,
gab es keinen mehr,
der protestieren konnte.


【雑感】上記の「詩」はルター派のマルティン・ニーメラー牧師(余談1)の作である。近頃の不穏な社会情勢を反映してか、ネット上でしばしば見かけるようになった。日本語訳を書き下してみよう。

ナチスが最初共産主義者を捕まえた時、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられた時、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを捕まえた時、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を捕まえた時
私のために抗議する者は、誰一人残っていなかった


 訳によっては、「捕まえる」を「攻撃する」と意訳したり、最後の一文を「彼らが私の目の前に来た時、手遅れだった」と詩的でマイルドな訳にしている場合もあるが、私は原文に沿った生々しい日本語に訳すべきかなと思う。

 これに共感する者は大勢いると思う。しかし、実際にこの問題に直面した時、果たしてこの教訓が活かせる事ができるかどうか疑問に思っている。
 この詩を書いたニーメラー氏はもともと保守系の市民でヒトラー支持者だった。第一次大戦時の若い頃は海軍のUボート艦長を務め、退役してからは神学を学びドイツでは右派の人間だった。彼にとっては共産主義者などはむしろ敵対勢力である。
 日本に例えたら、戦時中は海軍士官として活躍し戦後は神社の神職を勤めながら自民党を応援するようなタイプの市民で、共産主義者は嫌悪の対象であろう。

 ところが、ナチスが教会にまで干渉を始めた時、やっと権力に対して抵抗するようになったのだが既に遅し、権力に抵抗する勢力はあらかた潰されていて味方になってくれる者はいなかった。
 後にニーメラー氏はその事を自戒し詩に込めた。ただ残念な事にこの詩の本当の真意を理解する市民はどれだけいるだろうか?

 現日本の反体制勢力の主流は共産主義やフェミニストや護憲派と呼ばれている勢力だから、この詩で描かれている弾圧の対象となった人々が自分たちに近い立場ゆえ解ったような気になるだろうが、それは違う。
 もう一度言うが、ニーメラー氏の本来の立ち位置は保守右翼だった。だから自分と敵対関係にある共産主義者が弾圧されても無関心どころか当然の事と思った可能性がある。保守派から見れば共産主義者は限りなく犯罪者に近い存在なのだ。しかも戦前のドイツでは第一次世界大戦に負けたのは戦争中なのに革命(内乱)を起こした国内左翼勢力のせい、と思い込む人が多かった。
 だからこそ共産主義者を批難してきたヒトラーをニーメラー氏は一時期支持したのだ。この点を理解しないと、彼の真意は解らない。


 これに描かれている共産主義者をポルノメディア関係者にすり替えたらどうなるのか? たとえばフェミニストたちはポルノメディアに味方するだろうか? 自分たちにとって不愉快な言動をする者や対立する言動の人間が権力から弾圧されている時、味方して抗議してくれるだろうか?

 例えばヨーロッパ在住の護憲派の女性と児童ポルノ問題で口論した事がある。私も規制自体は必要だと思っているが、児童の概念と性描写の概念が曖昧のままで規制すると際限なく規制の対象が広がってしまう恐れがある。しかも法律が運用されるのは、日ごろ彼女が批判を繰り出している安倍政権下である。ジャーナリズムへの介入を公言している籾井氏や百田氏を重用する政権だ。
 私は昨今の右派市民が差別用語を逆手にとって「はだしのゲン」などが公立図書館や学校図書室からの排斥を展開している例をあげて、「不安ではないのか?」と質問した。その問いに対して彼女は意外な答えを返してきた。しかも私の癇に障る答えである。
 「差別用語と児童ポルノの問題は別の話、お話にならない」

 別の話といえば別の話だが、規制する側はいずれも彼女が目の敵にしている政権なのである。「お話にならない」とはとんでもない事だ。私が彼女の立場なら「リスクは承知しているが、被害児童が多すぎるので規制を優先せざるを得ない」ぐらいの事は言った。お話にならないなどと突き放しはしない。
 ポルノメディアから規制を始めるのは権力の古典的常套手段である。広範囲の市民の支持を得やすく、弾圧への応用も利く手段である事は自明、だから慎重にならねばならない。
 彼女は日ごろは聡明な言動だったのだが、たぶん、私の表現の自由論やポルノメディアは癇に障ったのだろう。ほどなく彼女はTwitter上で私へのフォローを止め、日数を置いてからブロックしてきた。自分のTweetが私の目に留まる事も嫌になったようである。
 こんな事をされると、日ごろの彼女の博愛的主張や言動が眉唾に聞こえる。(余談2)

 ニーメラー氏にとっても共産主義者の存在は癇に障るものだったはず。だからナチスの政策を受け入れた。社会民主主義者も労組活動家も、快くは思っていなかったはずだ。ゆえにヒトラーの政策を支持した。
 ヒトラーが宗教界をも管理下に置こうとした時、慌てて反ナチに転向したが手遅れだった。

 言論と表現の自由、民主主義の理念、それは自分にとって不愉快な存在も許容できるかどうかなのだが、それと同じ事がいえる。
 殆どの人間は理屈では解っていても感情では受け入れられない。その困難さがニーメラー氏の詩が教えてくれる。後になってから気がついても遅いのだが、多くは気が付かない。何故なら他人事とか無関心ではなく、粛清されてしかるべきと思っているからだ。

(余談1)フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー(Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller)
 ノルトライン=ヴェストファーレン出身。若い頃はドイツ海軍に入り第一次世界大戦時はUボートの艦長を務めた。退役後は牧師になり、当初は保守系市民としてヒトラーを支持していたが、ヒトラーの宗教介入に態度を硬化させ反ナチに転向、第二次大戦時は拘束され収容所に入れられる。
 からくもホロコーストを免れ大戦後を生き延びてからは反戦反核平和運動に身を投じる。

(余談2)彼女は以前に無制限の多言語表示を主張し、私が言う「隣国の言語に留めて程々に」に対して「反論」を吹いた事があった。
 私ごときに向かってブロックをするようでは心許ない。

晴雨堂関連記事案内
多言語表示について。晴雨堂は隣国の公用語(中・韓・露・英)で線引が妥当と考える。 近頃の現象[一一一九]


 
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大阪維新の圧勝、都構想住民投票の敗北を戦訓にしたか・・。そして戦訓としなかった側が負けた訳だ。 近頃の現象[一二一一]

<大阪ダブル選>大阪維新が圧勝 
都構想、再挑戦へ


 大阪府知事・大阪市長のダブル選が22日、投開票された。市長選は、地域政党「大阪維新の会」公認で前衆院議員の吉村洋文(ひろふみ)氏(40)が、自民党推薦で民主、共産両党の支援を受けた前大阪市議の柳本顕(あきら)氏(41)ら3人を破り、初当選した。知事選は、大阪維新公認で現職の松井一郎氏(51)が、自民推薦で民主、共産が支援した前府議の栗原貴子氏(53)ら2人に圧勝した。松井、吉村両氏は公約に掲げた「大阪都構想」への再挑戦に向け、新しい設計図作りに着手する。同構想をめぐる5月の住民投票に敗北し、痛手を受けた大阪維新代表の橋下徹大阪市長が影響力を取り戻す可能性が高い。(毎日新聞)

【雑感】前の堺市長選の時も指摘した。いつもは負け戦だと判っていても独自候補を立てる共産党が、あの選挙に限っては現職市長候補を応援した。この共産党の判断が功を奏して竹山修身氏が市長の地位を守ったのだが、敗れた維新候補も橋下徹氏の口禍でネガティブ報道の氾濫を招きながらも善戦していたのである。共産党の判断が無かったら、竹山氏は落選していたかもしれない。

 維新恐るべし、橋下徹恐るべしだ。

 そして維新の強さを冷静に分析し、これまでの党の方針を大幅に変更した共産党もさすがと言わざるを得ないのだが、それ以外の勢力はやはり戦況を見くびっていた点が多かったのではないか。共産党が尋常でない戦術をとっていることに他の反維新はもっと危機感を持つべきではなかったのか?

 評論家諸氏は様々な要因をあげていて、どれも間違ってはいないが、やはり維新側は堺市長選や都構想住民投票の敗戦を戦訓にして今回は徹底的に改善を展開した事に限る、と思ったほうが良いだろう。特に反維新側は維新の臥薪嘗胆を軽んじた事を恥じるべきだ。

 堺市長選では、共産党が敢えて候補者を出さず、日ごろ批判の対象にしていた現職市長を応援するという矛盾をはらんだ苦肉の奇策に出てくれたおかげで維新候補を降すことに成功した。
 都構想住民投票では、自民党大阪府連をはじめとして維新以外の全ての勢力が反対にまわってくれたおかげで勝利した。

 だが、堺市長選でもし共産党が現職に味方しなかったら維新が勝っていたかもしれない。都構想住民投票も鉄の組織の共産党と公明党が反対にまわり、自民党大阪府連まで東京の大本営の安倍総裁らに逆らってまで反対運動を展開、それでもやっと僅差の辛勝だったことを、今回の選挙戦でどれだけ危機感を持っていたのだろうか? 
 反維新・アンチ橋下の運動家を自負するのであれば、当然の事ながら最低でも維新以上の必死さで立ち向かわなければならなかった。

 負けたのは、その必死さが無かった事を認めることが第一歩だと思う。もちろん選挙期間中はみんな必死だったろうが、その前が問題だ。都構想に辛くも勝利してから今回のW選挙まで反維新は何をしてきた?
 いかにも政治活動経験がありそうで、それなりに顔が広そうな御仁たちからは、紋切型の橋下批判を脊髄反射で並べる程度、これが多かった。橋下を見くびらないほうが良いと善意の注意をすれば、私を橋下シンパと早合点して頓珍漢批判や反論を繰り出す。
 都構想に勝って「ざまぁみさらせ」調の橋下批判をした方々が最大の戦犯だろう。負けるべくして負けたのだ。

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堺市長選挙 近頃の現象[九百四十五]


 
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大阪ダブル選挙、知事も市長も維新が獲るか。 近頃の現象[一二一〇]

大阪維新が2勝 
都構想再挑戦へ 
橋下新党に勢い・ダブル選


 任期満了に伴う大阪府知事と大阪市長のダブル選が22日投開票され、知事選は地域政党「大阪維新の会」(代表・橋下徹大阪市長)公認で現職の松井一郎氏(51)が再選、市長選は同会公認の新人で前衆院議員の吉村洋文氏(40)が初当選を確実にした。(時事通信)

【雑感】まだ8時やぞ。開票もまだ始まってないところがあるんとちゃうんか? 瞬殺やな。

 最初の開票速報を観て驚愕、夜半までもつれ込むかなと思っていたら、勝敗は決していた。「北斗の拳」のケンシロウの決め台詞、まだ敵はピンピンしているのに決めポーズで指を差し「お前はもう死んでいる」と言われて、ポカーンとしてたら身体が爆発。そんな感じだな。
 松井一郎氏の得票率は60%を超えた、勝たせ過ぎだ。投票率は45%、思ったほど高かったが、この数字では組織票とシンパのみの闘いで浮動票は概ね大阪府の主権を放棄した。
 堺市長選挙でも思ったが維新は自力をつけた。あれだけ組織がゴタついていたのに大阪では団体としてのまとまりがある。もはや世間の人気や浮動票頼みの素人政党ではない。

 いろんな見方があると思うが、維新の勝利は仕方がないかなと思う。橋下氏は喧嘩が巧い。それに引き換え、橋下に喧嘩を仕掛ける側の士気は最悪だと思う。勝とうとする戦(いくさ)をやっていない。たぶん、橋下陣営に対抗してきた栗原貴子氏も柳本顕氏はもどかしさを感じていただろう。
 特に都構想否決で竹本直一氏ら自民党大阪府連の重鎮や幹部たちはテレビクルーがいる前であるにも関わらず無防備にも満面に歓喜を発散させている中で柳本氏だけは深刻な顔をしていた。勝った後が大変なのだ。反撃の口実を与えないよう引き締めていかねばならないのに、結局は維新のペースに絡めとられた。
 柳本氏にはそれがよく解っていたはずだが、本来は巨大組織の中で若手中堅の政治家、思うように動けなかったのかもしれない。維新創業者として陣営の全権を掌握している橋下氏と松井氏の軍勢を前にして、おのれらは元々こないだまで中間管理職的な立場から名義上の司令官に就任したばかり、おまけに自民党大本営からの支援は消極的。

 またアンチ橋下派の論調からも危機感は感じられなかった。都構想否決で「ざまぁみさらせ」的な反応では勝てる戦にも負ける。維新が強い事に「大阪府民はアホか」といった趣旨のtweetも見かけた。逆にアホかと返したい。「理解に苦しむ」というtweetも見かけた。「敵」の宣撫工作の恐ろしさに無知のままで戦に勝てるか。鉄の組織を誇り、いつも負けると判っていながら独自候補を繰り出す共産党が今回候補者を立てなかった事が何を意味するのか、アンチ橋下ならもっと恐怖を抱くべきだ。前の堺市長選挙でさえ、共産党は独自候補を立てずに現職を支援した。なのに、意外にも現職に敗れた維新候補は善戦しているのである。
 橋下人気で片付けられる人が多いが、そんな見方は滅茶苦茶大甘の見当ズレ甚だしい。共産党の方がよほど正確な分析をしている。さすが目端が利く組織だ。

 こりゃ橋下陣営は勝って当然だ。都構想では未明まで決着がつかなかったから、今回は維新の分裂騒ぎと都構想蒸し返しもあって夜中の零時までもつれ込むかなと思ったが、呆気にとられてしまうほどのアンチ橋下の大敗だ。


 
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ユーモアセンスの変化が認知症の前触れか・・。 近頃の現象[一二〇九]

ユーモアセンスの変化
認知症の前触れか


 親しい友人の一人にバランス感覚に優れ、責任感があり、明るい人生観と穏やかながら駄じゃれのセンスを持ち合わせた男がいた。そのため、彼が数年前に社交的な集まりでいやみな発言をし始めたとき、彼が社会の抑圧からやっと解き放たれた喜びを私はひそかに応援していた。50年以上も模範的な大人の行動をしてきたのだから、たまには道化師的な振る舞いも許されるはずだ。私はそう思っていた。(ウォール・ストリート・ジャーナル)

【雑感】脳の活動が低下することによる変化、という訳なのだろう。込み入った思考力が必要なユーモアを面白く感じなくなり、特に脳力を必要としない安易なユーモアに走りやすくなるという事はあり得るし予想できる。そしてこれはユーモアに限った事ではない。

 本題に入る前に少し脱線する。
 下記の写真は、今日の大掃除で寝室の本棚に飾っていたビアグラスを洗ったものである。「洗ったる」という連れ合いの申し出を断固拒否して自分で洗った。何しろ過去にビアグラスを二つ連れ合いの故意とも思えるミスで割られた苦い思い出がある。私にとってはどれも異なる思い出のあるビアグラスだが、連れ合いの目には同じビア゛グラスが沢山あるようにしか見えない。

水切り籠のビア゛グラス。

 これらのビアグラス、かつて梅田スカイビルの広場で開催されたインターナショナル・ビール・サミットで配られたビアグラスである。参加者が一定額の食券を購入すると200㏄用の記念グラスをもらえる。私はそのグラスを片手に各ブースをぶらぶら回り、珍しいビールの試飲を楽しんだ。
 今でこそ日本各地でビールのお祭り「オクトパーフェスト」が開催されているが、90年代の大阪では梅田で催されるビールサミットぐらいだった。
 現在の「オクトパーフェスト」はドイツビールと日本の地ビール中心だが、ビールサミットでは世界各国のビールやファーストフードが楽しめたし、体育の日に合わせて行われた御堂筋パレードに参加する人たちがついでにビールサミット会場でもアトラクションをやってくれたので、ビキニスタイルの衣装で伝統舞踊をするトルコのベリーダンスの美女を拝むのが楽しみだった。
 残念ながら御堂筋パレードは廃止となり、その影響があったかどうかは定かではないが、それとともにビールサミットもスカイビルで催されなくなった。

ビールサミットのビアグラス。
ビールサミットのロゴ、世界中のビールを飲もう!という趣旨だった。
この写真ではロゴの反対側になって判りづらいが、
グラスにはドイツ式に容量を示す横線が入っている。

 そのビールサミットだが、96年の第1回開催から2007年まで12年間参加してビアグラスをゲットしてきたのだが、2005年の分だけ欠品している。
 実はこの年は気分障害に罹患して通院していた時期である。医師から薬との副作用があるから飲まないように、という注意を受けていた事もあるが、私にとってビールは命の水でもあるので法令を無視して高校生の頃から普通に飲んでいたほどゆえ、医者の注意など以前であれば素直に聞く事はまずなかった。ところがこの時期は大好きであったはずのビールに興味がなくなっていた。

 気分障害も脳の活動が低下する病なので認知症の初期の段階と症状が似ている場合が多い。注意力が散漫になったり、記憶力が低下したりといった事が多くなる。なにより、好きなモノへの関心ですら無くなっていくのが恐ろしい。
 この「変化」に気づける人間は、家族や身内でも職場の人間でもない。たまに会う友人たちだった。症状がジワジワ進むので、近しい人間にはそのささやかな変化は無視してしまう。職場の人間にいたっては、「こいつは昔からこんなんや」とでも言わんばかりだ。だからたまに会う友人には「お前ちょっとおかしいぞ」となる。

 認知症の前段階には様々な感性の萎縮が始まるのではないかと思う。まずストレスへの耐性が弱くなるので、外へ出て何か習い事なり市民活動なりする気が失せる。人づきあいが鬱陶しくなる。知的興味を刺激する映画や番組にも興味が無くなる。新聞を読まなくなる。感情の制御が利かなくなる。
 インドア派がアウトドアに変化していったり、食べ物の好みが変わるにしても以前の好物も引き続き好きだとか、戦争映画やホラーばかり観ていたのがハートフルも良いなという変化は、委縮ではなく拡大なので歓迎すべき成長という変化なのだが、その逆が起こる。老化と片付けるのは禁物かもしれない。

 私は今のところ認知症にはなっていないが、気分障害を体験して委縮の恐ろしさを知った。明確な認知症になる前段階に、何らかの歓迎すべきでない前兆があり、その段階で手を打つのが肝要かなと思う。

 もし私が急にB級映画やAVを観なくなったり、美少女の水着写真に興味を失ったら、危険である。


 
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ドイツ国防軍の髪型は長髪か短髪か? ひょんな事から「右寄り保守系軍事オタク」を自負するレビュー友達と議論になった。 晴雨堂の晴耕雨読な日常[二三三] 

「長い」「短い」の主観的表現は注意が必要。

【雑感】ひょんな事から映画レビュー友達から他愛ない議論になった。第二次世界大戦中のドイツ軍の髪型は長いか短いかというテーマである。昨今のパリのテロなど世界が不穏な空気に包まれている時に何を戯けた事をと眉を顰める方もいるだろうが、こんな話題ができるのも未だ日本が平和な証拠である。平和だからこそ、ミリタリー趣味の戦争映画やサバゲーなどが流行るのである。実際に戦乱に包まれたら、ミリタリー趣味は楽しめない。
 嫌な方はどうぞこの記事は読み飛ばしていただきたい。とはいえ、今回の話題も情報摂取の際には心得ておかなければならない左右上下前後の各々の立場の人間共通の問題である。

 さて、議論の発端は私の発言から始まった。私は彼ほどミリオタという訳ではないが、時代考証には厳しい部類の人間である。その私がいつも気になるのがドイツ兵の髪型だ。ハリウッド映画に登場するドイツ兵は髪が長いのである。まず下記に紹介するのはサム・ペキンパー監督「戦争のはらわた」で主演したジェームズ・コバーン氏だ。

「戦争のはらわた」のジェームズ・コバーン。
戦争のはらわた」参照。襟の白い縁取りから下士官である事が判る。

 まず刈上げでない。略帽から髪が伸びて耳にかかっているのが判る。実はこんなに髪を伸ばしているドイツ兵はいないと言い切っても良いくらいなのだ。ハリウッド映画にはこんな髪の兵士が大勢登場する。これが私の不満だった。
 下記に紹介するのは戦場カメラマンの元祖というべき伝説の報道写真家ロバート・キャパが撮影したドイツ兵捕虜だ。

ロバートキャパ撮影のドイツ兵捕虜。
1944年夏ごろ撮影のドイツ兵捕虜。

 お判りのように、捕虜なので写真からでも汗や泥などで制服は汚れくたびれた感じがあるが、髭は綺麗に剃っているし独特の髪型をしている。
 これまでも私はブログで何度か述べたのだが、前髪や頭頂部は長くて側頭部や後頭部を五厘刈のように短く刈り込んでいるのだ。ハリウッド映画ではもみ上げを長く伸ばした兵士や後ろ髪が初期のビートルズみたいに襟にかかるくらいまで伸ばした兵士を見かけるが、実際はそんな人はいないと言い切っても良いほど、いても極めて少数派であろう。
 下記で紹介する写真はトーマス・クレッチマン氏主演のドイツ映画「スターリングラード」からの一枚。

国防軍少尉に扮するトーマス・クレッチマン氏
スターリングラード」参照。主人公の陸軍少尉を演じる
トーマス・クレッチマン氏。

 キャパが撮影したドイツ兵のように、前髪や頭頂部は長いが側頭部は短い。さらにもみ上げも伸ばさず、テクノカットに近いくらいに短く剃っている。

 それらの事を補強する意味で当時のドイツ国防軍が規定していた髪型例を下記に紹介する。

ドイツ国防軍の髪型規定。

 説明の必要は無いと思うが左がXで右が〇だ。坊主頭が主流の日本軍やソ連軍、アメリカ軍のスポーツ刈的なGIカットなどに比べれば確かに長いと言われれば長いのだが、ハリウッド映画などでしばしば見かけるもみ上げを伸ばした兵士や後ろ髪が刈上げでない兵士は上記の規定に反するのである。
 当時のドイツ兵の日常を撮影した写真などを見ると、刈上げどころか側頭部や後頭部を完全に剃ってしまっている兵士までいる。

 この私の「短い」説に対して、レビュー友達は「第二次大戦中のドイツ兵がかなり長髪」と主張されて上記図解の違反例に近い髪型のドイツ兵捕虜が写った写真をブログで複数紹介された。

 どこの軍隊でもそうだが、身嗜みについては各々厳しい規定がある。陸軍では分隊から中隊単位でバリカンを常備し散髪や髭剃りを行っていた。身なりを清潔に保つことで疾病や負傷からの治癒率をあげる合理的な目的があった。
 そして戦時になると物理的制約から平時の厳格な規定が若干緩和はされる。砂漠のアフリカ戦線では一応制服の規定はあったものの個々の兵士の着心地の良さを優先する事が黙認されていた。極端な例ではドイツ海軍のUボート乗りがあげられる。中型潜水艦という狭苦しい過酷な艦内とお湯が貴重品であるためか出撃中は髪も髭も伸び放題。これは映画「Uボート」で正確に描写されている。
 だから、大戦末期の余裕の無いドイツ軍になってくると、上記の図にあるような左の反則例に近い状態に伸ばしてしまった兵士はいたかもしれないし、レビュー友達が根拠に示した写真もノルマンデー上陸以降の捕虜たちを撮影したモノなので、散髪の手間暇がかけられなかった兵士たちだろう。
 それでも、「戦争のはらわた」のジェームズ・コバーン氏たちのように髪が耳や襟にかかったり、もみ上げを伸ばしている者は皆無といってもいい。


 で、実はこれまで話してきたのは前置きである。これからが本題だ。私はこれまで文章でドイツ兵の髪型を描写した事は何度かあったが、図解や写真で説明した事は無かった。
 また連れ合いが美容師をやっている関係もあるかもしれないが、私は髪型には詳細まで見てしまう人間なのである。同じ江戸時代でも17世紀末の元禄時代の丁髷と19世紀中ごろの幕末の丁髷では全然違う髪型と認識する人間なのだ。

 ところがレビュー友はあまり髪型にはこだわらないようだった。彼自身が認めているが、坊主頭やGIカットでもない限りは、他の髪型は「長髪」と認識してしまう。私にとっては五厘刈と二枚刈は違う髪型に見える。冷静に考えて、世間一般では私の感覚が少数派で、レビュー友達の感覚が世間一般なのだろう。
 そのため「長い」「短い」の主観的描写で議論が噛み合わなくなってしまった。おそらく図解で示さなかったため、いくら文章で具体的に描写したつもりでも、私の「短い」という表現で相手は「坊主頭」を連想して、「前髪が長い」という私の描写もスポーツ刈やソフトモヒカン的に地肌が見える側頭部よりやや長めと解釈されたようだ。
 耳さえ隠れていなければ、世間は上記図解の左右とも似たような髪型にしか見えないし、左の人物が前髪を後ろへ流せば同様の髪型になる。実際に髪型に興味が無かった子供のころは同じに見えたと思う。こだわるようになったのは連れ合いと付き合い始めた30代半ば以降だった。

 逆にこないだアップしたロシア映画「ホワイトタイガー」レビューでは、メカにあまり関心の無い私はドイツ軍の戦車ティーゲルには全く違和感を抱かなかった。大雑把な特徴さえ捉えていればOKと思ってしまうのに対して、彼はメカの考証に厳格なためかレプリカの粗が気になったしまったようだ。

 主観的表現ほど慎重にならなければならない。主観は如実に当人の価値観が反映される。自分では具体的に説明したつもりでも、相手はその情報を自分の価値観を基準にした解釈で捉えるし、その逆の私にしても然りだ。
 民族が違っていたり国籍が違う場合は、最初から「違う文化の人間」である事を前提に構えるので誤解は回避される場合もあるが、なまじ同じ日本語話者で趣味が近いとこのような事が発生する。昨今のTwitter上で繰り広げられる議論口論の類では日常茶飯事だ。 


 
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北の海親方、誠にお疲れ様です。 近頃の現象[一二〇八]

私は北の海が嫌いだった。

【雑感】私の世代で北の海を嫌う人は多いと思う。いつも不機嫌そうな顔で人気力士たちを当然と言わんばかりに投げ飛ばす、失礼ながら悪役レスラーみたいな存在だった。
 悪役といえば近年では朝青龍が有名だ。パッと見の背格好は瓜二つ、北の海の弟か息子と思ってしまうほど似ているが、彼の場合はまだ愛嬌があった。しかし北の海にはそれすら無い。淡々と相撲を取って白星を増やしていく、愛嬌どころか愛想も無い。

 北の海が現役だった時代、私は小中学生だった。この時代の人気力士には男前の輪島や貴ノ花や千代の富士がいた。北の海は男前の彼らに立ちふさがる「巨大な肉の岩」のようなものだった。北の海が勝っても全く嬉しくない。私が憎たらしく思うのはまわしの切り方だ。相手力士がガップリまわしを掴んでも、あの大きなケツをプリプリと動かして切ってしまう。この野郎、と思ったものだ。
 たぶん私以外の相撲ファンも同じ気持ちだったろう。負けると大歓声をあげたものだ。負けないまでも相手力士が善戦して踏ん張ると土俵の周囲は万雷の拍手喝采だった。
 北の海の不人気は現役時代だけではない。親方になって、相撲協会の中枢幹部になってもマスコミ上では相変わらずの太々しくて無愛想な顔つきを変えない。協会のスキャンダルで責任を追及され理事長席を追われるが、また返り咲く。現役力士の時もスピード出世で剛腕だが、親方になってもスピード出世で剛腕、何という奴だと思った。

 そんな北の海だが、一度だけ笑顔を見た事がある。たぶん多くの相撲ファンも同じだろうと思う。
 私が大学生の頃の夏場所だから、現役晩年だったと思う。既に時代の主役は横綱千代の富士になっていたが、なんと多くのファンの期待を裏切って全勝優勝してしまう。
 優勝を決めた時の顔が強烈だった。弟弟子の北天佑が北の海のライバルをくだして優勝が確定した時、カメラは「兄」と「弟」の顔をハッキリとらえていた。北天佑は勝つと明らかに砂被りに座る誰かを見てニヤリ、カメラは北天佑の視線の先を追うと、そこにも同じようにニヤリと笑みを浮かべる北の海が座っているではないか。まるで時代劇の悪代官たちが示し合わせているかのようなシーン。
 北の海が笑うところを見たのは後にも先にもこの時だけだった。


 これほどの「悪役」は滅多に現れないだろう。朝青龍も悪役だったが、バラエティ番組などに出て軽口を叩いたり、土俵に上がるときは独特の「踊り」のようなポーズをとって塩をまいたり片眉を動かすなどして観客を面白がらせたが、北の海はそんな面白い事は一切しなかった。
 ここまで悪役に徹して第一人者の座を守り通した男はいないのではないか? 朝青龍ですら世間のバッシングで「気分障害」に罹患した事もあるし、度重なるスキャンダルで北の海を上回る優勝回数を誇りながら一代年寄になれず角界を追われた。北の海は理事長としても君臨したのだ。きっと朝青龍は北の海を尊敬しているはずだし、今回の訃報に涙を流しているはずだ。
 少なくとも言える、相撲を面白くしたのは北の海最大の功績だ。彼ほど巨大な悪役はいないし、今の角界で彼ほどの存在感を示せる人は皆無だ。

 私は最後の全勝優勝をした場所に見た笑みが好きになってきた。彼の気性を察するに、晩年に負けがこんで世間から同情されたり白星をあげて拍手されるようになるのが屈辱で嫌だったはずだ。
 理事長としての晩年も、弱った身体を世間に晒すのは嫌だったはず、だからライバルだった元千代の富士の九重親方に理事長代行になってもらい優勝力士に重い賜杯を渡す役をやらせた。
 あの時の笑みは単に久しぶりの優勝を喜んだものでも、援護射撃をした弟弟子を労ったわけでもない、世間と格闘してきた男の笑みなのだ。
 

 
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副作用の提示は必要だ。それにしてもノンポリ司会者と思っていた古舘伊知郎氏がここまで化けるとは。

「誤爆犠牲者から見れば、
有志連合空爆もテロだ」 
報ステ・古舘氏の問題提起に異論も噴出


 「誤爆の犠牲になった人たちから見れば、有志連合による空爆もテロに当たる」。テレ朝系「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスター(60)がこう問題提起したことが、ネット上で議論を呼んでいる。
 2015年11月16日夜の番組では、パリ同時多発テロの関連映像が紹介され、その後、スタジオに切り替わると、古舘氏がこう口を開いた。(J-CASTニュース)


【雑感】古舘伊知郎氏の発言に否定も異論もしない。世間の大勢が良かれと思う政策でも必ず副作用というモノがあり、それを指摘する嫌われ者は社会には絶対に必要だからだ。

 IS関係の一連の事件報道を見ていると、語弊を恐れずに言えば戦国時代の本願寺に似ている。少なくとも天下取りをすべく五畿内を制圧した織田信長から眺めれば石山本願寺はISに多少は似ているのかもしれない。
 政府から独立したような治外法権地域を拡大し、気に入らぬ領主がいると地元の一向宗門徒に檄を飛ばして一揆を起こさせる。しかもその一揆衆は平和的なデモ行進ではなく太刀や鉄砲で武装している。しかも殉教すれば極楽浄土へ行けるから、死ぬことへの恐怖が紛れている。
 この一揆衆に当時の領主たちは頭を抱えていた。信長に対抗した越前の朝倉氏が近江の浅井氏を支援しようと大軍を派遣するも領国を気にして冬が来る前に撤収したのは一揆衆の存在があった。今川家から独立して間もない徳川氏に至っては、主だった家臣も一揆衆側についてしまったため、頭を抱えるどころか身の危険を感じていたはずだ。
 そして上洛して巨大な権力を手中にしたはずの信長でさえも、杉谷善住坊に鉄砲で狙撃されている。(一向宗と関わり合いがあったかどうかは諸説ある)

 現代日本の宗教界がおおむね穏健平和的で戦争やテロとは無縁の存在となったのは、実は信長・秀吉・家康による徹底した「刀狩」という武装解除と勢力の分散と分断、政界からの排除、鞭と飴の巧みな宣撫工作の末である。
 だから、日本の宗教界が牙を抜かれてから数世紀、日本人は幸か不幸か宗教の怖さを知らずに過ごせた。
 
 ではそういった宗教勢力が糧にしているのは何かといえば、実は皮肉にも圧政や弾圧なのである。語弊を恐れずに言えば、世間が不幸になればなるほど商売繁盛なのだ。
 イスラムのライバル宗教であるキリスト教にしても、ローマ帝国の弱体化があった。五賢帝の全盛期の頃までは数多くある宗教の中の一つのカルトに過ぎなかったキリスト教が急成長したのは、度重なる北方のゲルマン民族の侵入と略奪で経済が破綻して人心が委縮し、首都ローマでさえも新たな城壁で囲わなければならなくなった時期だ。(余談1)
 聖書ではローマ帝国を悪徳と頽廃の社会に位置づけ、ローマが悪であることを論拠に勢力拡大を展開してきた。この戦略はキリストに限った事ではなく、後の社会主義も基本は同じである。

 今回のISの問題も、戦乱(そもそも長い歴史で見ると欧米が仕掛けたのだが)によって政治経済が破綻したイラクで生まれた。欧米列強が実力で潰しにかかればかかるほど、「聖戦」の根拠を与えてしまう。
 では一部の平和主義者のように武力に頼らない方法は有効か、といえばそうではなく、「聖戦」の根拠が無ければ今回のテロのように作りに行く。

 だから厄介なのだ。
 ISにとって脅威なのはドイツのメルケル政権がとっている寛容な太陽政策だ。異教徒の欧米列強が悪であるという前提が崩れてしまって「聖戦」の説得力が薄められ具合が悪い。だが、この太陽政策には重大な欠点があって、IS側にとっては戦闘員や工作員を紛れ込ませやすい。「聖戦」を起こすために事件を起こしやすくできる。殉教戦術をとるから作戦終了後の逃走経路を確保する手間もいらない。事件を起こせば現在のフランスやアメリカのように疑心暗鬼と対立を煽れて効果的に世論を有利に演出できる。非常に安上がりだ。

(余談1)EUも加盟国諸国はEU内国境を事実上撤廃の状態だったが、今回の事件で再び国境が復活し始めた。


 
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「シェルブールの雨傘」 カップルで癒されたい時に〔23〕

シェルブールの雨傘」 
アルジェリア独立戦争が背景。




【原題】Les Parapluies de Cherbourg
【英題】THE UMBRELLAS OF CHERBOURG 
【公開年】1964年  【制作国】仏蘭西  【時間】91分  
【監督】ジャック・ドゥミ
【制作】マグ・ボダール
【原作】
【音楽】ミシェル・ルグラン
【脚本】ジャック・ドゥミ   
【言語】フランス語
【出演】カトリーヌ・ドヌーヴ/ダニエル・リカーリ(ジュヌヴィエーヴ・エムリ)  ニーノ・カステルヌオーヴォ/ジョゼ・バルテル(ギィ・フーシェ)  マルク・ミシェル/ジョルジュ・ブランヌ(ローラン・カサール)  エレン・ファルナー/クローディヌ・ムニエル(マドレーヌ)  アンヌ・ヴェルノン/クリスチアーヌ・ルグラン(エムリ夫人)  ミレーユ・ペレー/クレール・レクレール(エリーズおば)

【成分】ゴージャス 切ない 悲しい 泣ける アルジェリア独立戦争 フランス 1957年~1963年 ミュージカル 

【特徴】ミュージカルの金字塔、恋愛映画の金字塔。全台詞が歌であるのが特徴で、一人の人物に扮するのに演技を担当する俳優と歌を吹き替える歌手の二重キャスティングになっているのが大きな特徴。

 ベタな恋愛物語だが、その背景に現代の国際情勢にも通じるアルジェリア独立戦争が背景になっている。主人公の青年ギィは独立を阻止する側のフランス軍兵士として出征し、将来を誓い合った彼女と引き裂かれた悲劇。

 ヒロインを演じるカトリーヌ・ドヌーヴ氏は当時17歳。この映画によって世界的に脚光を浴びる。

 映画処方箋としては幸せの在り方を考える意味で「カップルで考えよう」のカテゴリーにするべきかもしれないが、ラストの幼児の顔でささやかな幸せの中から癒しを感じたのでこのカテゴリーに選んだ。

【効能】激しい恋愛に傷つき、ささやかな幸せを見つけた若者の心を癒す効果が期待できる。

【副作用】ベタな恋愛モノに甘ったるい歌に食傷。

下の【続きを読む】をクリックするとネタバレありの詳しいレビューが現れます。記事に直接アクセスした場合は、この行より下がネタばれになりますので注意してください。

今回のテロで難民対策は縮小、世界中は縮こまっていくだろう。 近頃の現象[一二〇六]

フランス国籍の26歳男を指名手配 
パリ同時多発テロ


 多数の死傷者を出したパリの同時多発テロ事件で、フランス警察は15日、事件に関わったとして、26歳のフランス国籍の男を指名手配しました。
 警察当局が指名手配したのは、フランス国籍のアブデスラム・サラー容疑者です。警察は、アブデスラム容疑者が「テロに関わった」としていますが、実行犯だったかどうかなど、詳細は明らかにしていません。一方、ベルギーの警察当局は、犯行に使われた車がベルギーナンバーのレンタカーで、借り主がベルギー在住のフランス人だったことから、ブリュッセル郊外を捜索しました。捜索の結果、関係者7人の身柄を拘束しましたが、レンタカーを借りた人物は今も行方不明のままです。レンタカーを借りたのがアブデスラム容疑者だったのかどうかは分かっていません。また、フランスのスポーツ大臣によりますと、スタジアムで自爆テロを起こした実行犯は、スタジアムの中に入ろうとしたものの、チケットを持っていなかったため、入れなかったということです。(テレビ朝日系)


【雑感】サッカー場でのテロはオランド大統領の目の前でISの力を誇示し、あわよくば道連れにする作戦だったか。

 欧米諸国も日本と同じく戦後間もない時期の50年代から60年代にかけて高度経済成長を経験している。フランスの場合は主にアルジェリアからの移民を経済復興のための労働力として活用したので、フランスで生まれ育ったアラブ系フランス人は大勢いる。
 社会的立場は日本の在日韓国朝鮮人に近い。だから、日本で北朝鮮が事件を起こすたびに在日コリアンへの差別や排斥運動が顕在化するのと似たような現象がフランスでも発生する。

 その現象はISにとって好都合だろう。結集テーマはイスラムと反欧米なので、たとえば民族がアラブ系だとか国籍がシリアだったりはあまり関係ない。
 全世界には自国政府を信用していない貧困者がいる。これまでの宣伝工作によって全世界にシンパシーを感じる人間は増えつつあるし、ISにシンパシーを感じなくても反欧米であればISを利用する。弱小組織であってもISの地方組織を名乗れば敵にインパクトを与えられる。無限大に広がる。


 これは大変な事になった。
 それでなくても実行犯の中にはシリア人のパスポートを持っている者がいた。おそらく旅券は偽造ではなく「ホンモノ」だろう。ISはシリアの地方都市を占領し旅券事務所などの公的機関の施設も押さえているので「ホンモノ」を発給できる。
 シリア難民を装って諸外国に潜伏するという美味しい戦術をISが無視するとは考えにくい。

 今後、疑心暗鬼が蔓延し差別が横行し、その差別の被害者たちがISの勧誘工作に狙われる。欧州各国は難民受け入れに消極的にならざるを得なくなる。IS側にとっても支配地域からの住民流出を抑えることができ、新兵発掘もでき一石二鳥も三鳥もの成果が期待できるわけだから、戦術的にはISの勝利だ。


 
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邦画優勢から洋画優勢へ。7年ぶりにシェア逆転か? 近頃の現象[一二〇五]

洋画の7年ぶりシェア逆転はあるか? 
一方で依然厳しい洋画不況の内実


 今年は洋画復活の年になるのだろうか。夏にヒットが集中し、2016年の正月興行でも、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』や『007 スペクター』といった強力作品が揃い、洋画に久しぶりにスポットが当たっているのである。今年の映画興行では、『ジュラシック・ワールド』が最終興収93億円前後と推測され、最大ヒット作品となる。2014年の『アナと雪の女王』(255億円)に次いで、2年連続で洋画がトップ獲得だ。近年、邦画に押されっぱなしだった洋画は、確かにがんばってはいる。(オリコン)

【雑感】洋画不況というが、その前は邦画暗黒時代が長く続いた。山があれば谷もある。

 ただ、やはり懸念するのは洋画はリメイクがあまりに多過ぎる事だ。またリメイクか、また邦画や東アジアからの借用か、といった作品が目立つ。
 洋画にはネタは無いのか、ネタは尽きたのか、と思いたくなるが、実はそうでもないようだ。相変わらずB級はそれなりに面白い物もある。では何故メジャーのハリウッド映画にはリメイクや使い古されたシリーズ物ばかりが目立つのか?

 どうもスポンサーの意向が絡んでいるようだ。これは私がなぜB級映画が好きなのかにも通ずる背景がある。
 あるていど売れる事が確実な題材でないとスポンサーは銭をださない状況があるようだ。また人件費などの高騰でメジャークラスの製作費は私が高校生だった80年代初頭よりも数倍に跳ね上がっている話を聞いた事がある。そのうえ劇場公開予定日(即ち納期)を保障するための保険会社みたいなものが存在するらしい。
 こうなってくるとメジャー映画は確実に売れる内容の映画しかつくれなくなる。思い切った内容や技法が使いづらくなる。

 かくして一定の固定客が見込める過去に大ヒットを飛ばしたシリーズ物に依存するようになる。

 ハリウッドのメジャー映画とは規模は桁違いに小さくハリウッドには無い事情があるものの、日本も似たような状況にある。大手芸能プロのアイドル俳優出演に大ヒットTVドラマや漫画の実写映画化、そんな作品は俳優のイメージと観客動員数を考慮して奇抜な物語や技法は使いづらい。シネコンで上映される邦画は、私の価値観ではあまり面白いと感じる事はできないのだ。

 だから私はB級映画や深夜アニメやポルノ・AVが面白いと思う時がしばしばある。

 こういった論を並べると、「晴雨堂は商業主義を否定している」などと脊髄反射の短兵急勘違いをする輩が現れて私をイラつかせる。
 これも何度か当ブログでも述べてきたが、私は一言も商業主義を否定した事は無い。何でも過ぎたるは及ばざるがごとしで、商業主義に目が眩み過ぎると銭を払う観客の気持ちを忘れてしまい、市場調査のデータから確実に売れる内容に引きこもってしまうようになる。そうなるとジワジワ観客から飽きられていき、ときおり駄作の烙印を捺されて大コケする。あるいは業界そのものが縮こまっていく。

 逆に藝術に走り過ぎると観客がついてゆけない。黒澤明監督や市川崑監督のような巨匠になれば、信奉者やファンによって採算がとれるくらいの巨大な市場が形成される。黒澤ブランドや市川ブランドだけで最低限の興行収入が確保できる。ちょうど最下位位になっても文句を言いながら観戦してくれる阪神ファンに支えられたタイガースみたいなものだ。
 しかしそこまでの市場が形成されていなかったら、メジャー映画の現場では好き勝手はできない。これは映画監督に限らず漫画家や小説家などにも言えることだが、取り分け映画は藝術のゼネコンなので投下資本が大きく裾野が広いので、資本の論理が左右されやすい。

 要はバランスなのだ。バランスを見極めるのは難しいが、少なくともステレオタイプなモノの見方で短兵急に商業を否定したり藝術を否定する事はまかりならん。
 これは映画に限ったことではない。会社経営しかり、国家百年の計にも言える事である。バランスが崩れば必ず弊害がジワジワ首を絞めていき自らの命を奪ってしまうのだ。



 
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仏杯フィギュア中止か。 フィギュアスケート[一〇七]

仏杯フィギュアを中止 
政府、テロで通達


 国際スケート連盟(ISU)は14日、パリで13日に起きた大規模なテロを受け、フランスのボルドーで行われていたフィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ第4戦、フランス杯最終日の各種目フリーの演技を中止すると発表した。(時事通信)

【雑感】やはり、中止となったか。スポーツは平和であればこそ。今回の処置はやむを得ない。

 この手の展開になると、今後は様々な国際試合や五輪などにも影響してくるかもしれない。しかも、米ソが管理していた冷戦時代と違って、落としどころが見えない。

 選手の立場では、リプニツカヤ選手をはじめフランス杯出場者のファイナル出場への持ち点がどのように扱われるのか、振替の大会は難しいし、それよりグランプリ・ファイナルの開催も危うくなるかもしれない。

 国VS国の戦争ではない。しかもかつての社会主義者のテロ組織と違い、いま世界を騒がせているテロ組織はジャーナリストをオルグする心の余裕が感じられない。国際法を守る気はなさそうだから、どの国どの地方でも「戦闘」を行う可能性がある。
 テロ組織が標的にしなくても、国際試合を主催する国々は重い警備費の負担を強いられることになる。重い出費から採算が合わなくなり、安全面よりも経済面で中止する所も出てくるかもしれない。下手をすればリオや平昌や東京も厳しくなる可能性がある。

 五輪憲章の危機でもある。多くのフィギュア選手は白人で占めている事から判るように、フィギュアスケートは長らくヨーロッパの「国技」でもあった。ところがフランスの選手団の顔ぶれを見ると明らかにアフリカ系の選手が加わっている。フランスは異文化に対して寛容で理解のある国だった。それが今回の攻撃に晒された。
 寛容であった国が寛容で無くなる恐れがある。人間というのは都合の良いバランスには落ち着かず、統制がきつい国であればタガが外れると無法に近くなるし、寛容だった国のタガが切れると縮み志向になるものだ。
 こないだの記事でも述べたが、ドイツも危うい。ナチスドイツの反省から寛容な制度を実行しているが、メルケルが失脚するようなことがあればヒトラーのような政治家が巧妙に形を変えて出現して体制を大きく変えていくかもしれない。

 右にしても左にしても言えることだが、もう今までの価値観や方法論では通用しない時代に入っていると思ったほうが良さそうだ。

 リプニツカヤ選手を応援していたのに残念。が、ロシア機墜落の一件もある。

【追記】(2015年11月16日)ショートプログラムでの順位を大会結果とする事に決まった。従って村上佳菜子選手は4位確定なのでファイナルに向けての獲得ポイント数は9点となる見通し。


 
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「ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火」 孤独を楽しむ時に〔58〕

ホワイトタイガー 
ナチス極秘戦車・宿命の砲火」 
アカデミー賞外国語部門出品作。




【原題】Белый тигр
【英題】White Tiger 
【公開年】2012年  【制作国】露西亜  【時間】112分  
【監督】カレン・シャフナザーロフ
【制作】
【原作】イリヤ・ボヤショフ
【音楽】ユーリ・ポテイェンコ コンスタンティン・シェヴェレフ
【脚本】アレクサンドル・ボロジャンスキー カレン・シャフナザーロフ   
【言語】ロシア語 ドイツ語 一部イングランド語
【出演】アレクセイ・ヴェルトコフ(イワン・ナイジョノフ少尉)  ヴィタリー・キシュチェンコ()  ヴァレリー・グリシュコ()  ヴラディミール・イリン() 

【成分】ファンタジー 不思議 不気味 勇敢 オカルト ファンタジー 第二次大戦 独ソ戦 1943年~1945年

【特徴】ロシア産の戦争映画。戦車同士の一騎討ちを描いた珍しい作品。雰囲気は松本零士氏や小林源文氏が描きそうな戦場浪漫だ。

 邦題は安っぽいB級映画的だが、ハリウッドのアカデミー賞外国語映画部門に出品しているだけあって、つくりは非常にしっかりしている。軍服などは考証ミスは目立っていないし、ドイツ兵はドイツ語を話す。
 主人公の謎めいた戦車兵を演じている俳優は日本の津田寛治氏に似ている。主人公の理解者で上官の少佐に扮している俳優は若い頃の三國連太郎氏に似ている。

【効能】戦車マニアにはたまらない描写。

【副作用】物語が唐突に展開するので意味が判らなくなる。

【読者の皆様へ】俳優名と役名が不明。エンドタイトルで確認しようにも、ロシア語が解りません。情報求む。
 
下の【続きを読む】をクリックするとネタバレありの詳しいレビューが現れます。記事に直接アクセスした場合は、この行より下がネタばれになりますので注意してください。

第2041回「毎月、洋服にいくら使う?」 晴雨堂は0円。

こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の栗山です。今日のテーマは 「毎月、洋服にいくら使う?」です。洋服は安かったり、セールと聞くとついつい買ってしまいます今週もセールがあるので今から楽しみです♪(/・ω・)/ ♪いくらくらい使っているだろぅ…大体ひと月1~2万円くらいでしょうかあ、節約するようになったんですよ、少しは。。相場がわからないですねみなさんは毎月どのくらいの金額を洋服類に使ってい...
FC2 トラックバックテーマ:「毎月、洋服にいくら使う?」



【雑感】0円だ! 年間でも0円だ。
 5年くらいのスパンにすれば5千円くらいにはなるかもしれない。それを60ヶ月で割れば100円未満になる。このあたりが正確な出費だろう。社会に出てから現在まで約30年の衣服購入代を月で割れば、たぶん200円以下になると思う。
 だから栗山君よ、毎月1・2万も使うなんて異常だ。それだけ服に使っていれば、買ったものの袖を通さないまま押入れの奥にしまわれる服や、季節が過ぎれば忘れ去られる服が大量にあるはずだ。それを「節約するようになった」とは笑止!

 下着などの消耗品でさえ私は数年以上着る。いや、一人暮らしならば20年単位で着続けるかもしれない。破れたりカビが生えたりで世間体が悪いという連れ合いの判断で強制的にリセットされるのだ。

 ジャンバーやパーカーなどは20年以上着ている。一応、私は安物は買わない。そこそこの値段の登山用パーカーやイタリア製の革ジャンなどを着る。耐久力がある衣服なので2・30年の着用にも耐えられるのだ。
 背広なども既製品ではなく30年近く前に専門の洋服店で仕立てた物を着ているし、ドレスシャツも30年前に百貨店で仕立ててもらったダブルカフスだ。ネクタイやカフスボタンは貰い物。
 問題なのは仕立ててもらう際に体形変化を予測して大きめにしてもらったのだが、残念なことにウエストの数値が私の予想を超える増大だったので苦しくなってきた。

 その点、和服は逆にシックリくるようになった。和装はゆったりとした仕立てなので、身長さえ変わらなければ10数キロていど肥えても縫い直す必要は無い。最初の頃はすぐに着崩れて、何度か便所に行くついでに帯を締めなおしたものだが、今はウエストが程よく帯締めにフィットするようになってきた。和服はあるていど腹が出ている人のための衣服なのだと認識を新たにしている。
 たぶん、時代劇に出演する今風のイケメン俳優たちは、細くて引き締まったウエストにぐるぐるとサラシを巻いているか、小さな座布団のようなものを挟むなどしているはずだ。

 もっぱら数年単位で購入するのは、下着と靴下くらいだ。私は同じものを複数購入してローテーションを組むので服の消耗は小さい。
 連れ合いはしばしば私のコレクションであるビアグラスやビアジョッキを「使わないくせに無駄に場所をとる」と批難するが、そのたびに「おまんの親戚は『旦那さんはいつも小汚い作業着なのに、あんたはなにしてんの』と言ってた事を忘れたのかね」と言い返して批判を封じている。

 FC2トラックバックテーマ担当の栗山君よ、「節約」と公言するのならせめて私ていどのレベルにしないと節約のうちに入らん。


 
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スー・チー氏、やはり院政か。しかし堂々と宣言するとは潔い。 近頃の現象[一二〇四]

スー・チー氏、実権に意欲 
ミャンマー、野党躍進で


 ミャンマーの野党、国民民主連盟NLD)の党首アウン・サン・スー・チー氏が5日、最大都市ヤンゴンで記者会見した。8日に迫った総選挙でNLDが勝利した場合、「私が政権を運営する」と強調。自らの大統領就任は憲法の規定で禁じられているが、国政の実権を握る意欲を示した。.

 総選挙ではNLDの躍進が確実視され、政権交代も現実味を増している。ただ、憲法は外国籍の家族を持つ者の大統領資格を認めず、英国籍の息子を持つスー・チー氏は大統領になれない。同氏は、大統領に別の人物を充て、自身が「大統領を上回る存在になる。既に策はある」と述べた。(ヤンゴン共同)


【雑感】ミャンマーの憲法では近親者に外国籍の者がいると大統領にはなれない規定がある。
 この条項は英国人の夫と息子をもつ彼女を狙い撃ちにした法律だ。

 通常、憲法というものは時の政府を管理下に置くための最高法規ゆえ、通常の法律より改正のハードルが高い。

 今回のスー・チー発言で失望的に驚かれる方は多いと思う。

 「有能な盟友に大統領をなぜ託さないのか?」
 「まずは憲法改正だろう」

 実際にそんな嘆きの声がTwitter上で見受けられる。

 彼女の過酷な環境を察して考えれば、改憲となると軍事政権と同じマネはできないので、回りくどい民主制手続きを行わざるを得ないが、これは今回の国政選挙以上に時間と労力と危険が待ち受けている。
 何故なら国際情勢に譲歩した軍部はこれには既得権を守るため必死に抵抗する。憲法改正の行動は格好の付け入る隙だ。

 何しろ軍部には憲法によって一定の議席枠を与えられているから議会の発言権は依然として存在する。さらに軍や警察や地方自治などは大統領とは別の国軍最高司令官が指名できるなど、軍部にとって超有利な内容なのだ。下手をすれば、統帥権をチラつかせて日本の国体を牛耳った軍部より強力な力を持っている。
 また、軍事政権を支援していた中国の動きも気になるだろうから、これ以上は民主的手続きで時間をかけたくはないはず。仮にどこかの国が国境紛争を仕掛けたりすると国軍最高司令官は大統領をさしおいて非常事態宣言を発令できるので、たちまち軍政下に戻ってしまう。
 スー・チー氏が「大統領は飾り」と言ったのはこういったミャンマーの特殊な憲法下の背景があることも理解してやらなければならない。民主主義が定着した国の感覚で無い物ねだりしたら彼女が可哀想だ。

 ミャンマー憲法の制限規定が大統領のみであったら、ドイツのように大統領を名誉職にし自らは内閣総理として行政の第一人者になる手がある。
 その手を使うと思い込んでいた海外のスー・チーの信奉者はいたはず。
 しかしどうやら彼女はそれができないか、やらないようだ。

 あとはかつての日本や中国や今の北朝鮮のように、法的元首とは別に「最高実力者」として政権を牽引する手がある。
 例えば北朝鮮の最高指導者金正恩氏の正式な政府役職は「国防委員会第一委員長」で大統領でも内閣総理でもない。大統領にあたる共和国主席は金日成が永遠に務めるため事実上空席か廃止の状態だ。
 中国の鄧小平の晩年は公的な役職から身を引くが、党中央軍事委員会主席の役職だけは手放さず軍事を掌握して国家主席よりも偉い人であり続けた。
 日本でも総理大臣よりも偉い自民党の重鎮の存在はしばしばニュースになる。

 いずれにせよ、失望して離れていく者が大勢でてくるだろうし、スー・チーを「女王」にしたい人は残る。難しい綱渡りだ。頼みの綱はやはりスー・チー氏が持っている独立の父の娘であるカリスマ、だから軍部も今まで命を獲る事はできなかったし、軍隊内でも信奉者がいる証でもある。
 もしかしたら、彼女の奇策は国軍の掌握か? 大統領より上のポジションは今のところ独立の父アウンサン将軍の後を継ぐ以外に見当たらない。

 スー・チー氏の発言で激しく失望された方はもう一度ミャンマーの国情を調べたほうが良いだろう。


 
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映画ブログ「男の魂に火をつけろ!」の企画「2015音楽映画ベスト10」に乗ってみるか。 晴雨堂の晴耕雨読な日常[二三一]

晴雨堂の「2015音楽映画ベスト10

【雑感】映画ブログ友達のしろくろShow氏つながりでワッシュ氏が運営する「男の魂に火をつけろ!」の「おっぱい映画ベストテン」に続き「2015音楽映画ベスト10」に参加してみようと思う。

 今回のベストテン趣旨は「おっぱい映画」と違ってやや複雑な条件だ。下記の緑字は、ワッシュ氏が提示した条件である。

•音楽をテーマとした映画、音楽家が主人公の映画、ミュージカル/オペラ、音楽家の伝記映画などを対象とします。
•洋画/邦画、実写/アニメ、劇映画/ドキュメンタリー/モキュメンタリーなどの区別は問いません。
•「サウンドトラックが名曲」や「主題歌が大ヒット」などの作品ではなく、音楽がストーリー上で重要な役割を果たしているものを選んでください。


 エントリーされた方々のベストテンを拝見すると、どうやら2015年公開にこだわる必要がなさそうだ。しかしながら、当ブログで何度か述べた事があるが私はミュージカル嫌いである。取り敢えずは観るが不快感が残る。「ウエストサイド物語」なんて、唐突に踊ったり歌ったりなので「こやつら気でも違うたか?」「これは何かのギャグか?」と思ったほどだ。
 果たして10作品ならべる事ができるか自信が無いが挑戦してみよう。

 予めことわっておくが、長々と能書きを垂れるかもしれない。映画のタイトルのみを順位順に列挙するだけで良いのだが、やはり何故この作品を選んだのか、その気持ちや思い入れというものを説明しなければならない。
 字数制限が無いブログといえども、読者の集中力などを考えれば二千字以内にまとめるべしと諸先輩から注意を受けているが、私は選んだ理由も全て明らかにしたいので敢えてカット無しで書きだす。
 能書きが嫌な方は太字で表示したタイトルのみご覧いただきたい。


晴雨堂の「音楽映画ベスト10」
 ミュージカルをはじめ音楽映画はあまり好きではないので、私が認知症になってもたぶん忘れないかもしれない作品に絞った。

1位 「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか
 1984年公開。上記の条件に合致する作品として真っ先に浮かぶのは、やはり「マクロス」である。主人公は主役の如く振る舞う天才的パイロット一条ヒカル大尉ではなく、愛と平和の歌姫であらせられる林明美(リン・ミンメイ)だ。
 副題の「愛・おぼえていますか」は異星人の古代遺跡から採取した音楽テープをヒロインの早瀬未沙少佐が解析翻訳、その歌のタイトルが「愛・おぼえていますか」なのだ。
 物語の佳境で伝説の歌姫ミンメイが無数の砲弾炸裂する宇宙空間をバックにマクロス艦内に特設されたステージで「愛・おぼえていますか」を熱唱、歌に衝撃を受けた敵軍の中から寝返りを誘発し、圧倒的劣勢であった地球統合軍が一気に形勢を逆転させ勝利する。このアニメ映画ほど今回のベストテンのテーマに合致する作品はあるまいと本気で思う。

 当時、戦争アニメにアレルギーを持った「平和主義」の友人がマクロス批判をぶちまけていた。「結局、この作品で何が言いたい? 歌謡曲に合わせて残酷な空中戦や殺戮シーンを楽しむだけの低俗な戦争アニメや」と。私の返答は一言二言である。「これは歌手リン・ミンメイの大袈裟なプロモーションビデオや。それ以上でも以下でもない」と。
 現在はプロモーションビデオというよりはミュージックビデオと言ったほうが通りが良いかもしれない。我ながら言い得て妙。いま観ても、この作品はミンメイのMV以外何物でもない。恋愛の歌に合わせてマクロスを中心に敵軍へ突撃していく様は感動を通り越してシュールだ。しかし一応世間では長編アニメ映画として公開されているので1位にあげる。
 この作品は劇場へ行って朝の1回目の上映から晩の最終上映まで観まくった。当時はシネコンなんぞ無く入れ替え制ではないので、体力が続く限り映画館に籠る事ができた。さらにβマックスのビデオソフト14800円をはじめ、「マクロス」サウンドトラックのLPレコードにミンメイ役の飯島真理氏のLPに、関連の資料本等々、買いまくった。非常に思い入れの強い作品である。

2位 「シェルブールの雨傘
 1964年公開。小学生の頃に観たような覚えがある。1位とは全く毛色が違って洋画のミュージカルだ。ミュージカル嫌いの私にしては我ながら意外なのだが、この作品は完全ミュージカル、全台詞が歌なので逆に得心がいく。「ウエストサイド物語」みたいに突然わざとらしく踊りだしたり、シリアスな会話をしているかと思ったら唐突に歌いだすという不自然な構成はない。
 もっとも有名な歌は、主人公の青年が徴兵され紛争の地アルジェリアへ出征することになり、恋人と最後の逢瀬をして翌朝駅のホームで別れる場面だ。これは懐かしの映画音楽の類でよく紹介される。引き裂かれる若い男女の切なさがよく出ていた。
 ヒロインのカトリーヌ・ドヌーブは当時10代後半、私は眉毛が太くて長い黒髪の美女が好きなのだが、カトリーヌの横顔は素直に美しいと思った。
 カトリーヌの歌声は可愛らしくて、ときおり大人の抑揚が出て10代の魅力だな、と最近まで思い込んでいたが、実は出演者たちは歌の素人ゆえ全員吹替だったらしい。カトリーヌの歌声はダニエル・リカーリ氏が務めた。 

3位 「メリー・ポピンズ」
 1964年公開。デズニー嫌いの私だが、これはまだアメリカ資本主義の悪行に対する知識が無かった小学生の頃に観たので、素直に楽しくて面白い映画だと思った。なにより田舎の私から見ると登場人物たちが豊かで御洒落に思えた。
 子供心に気に入っている場面は、主人公メリーの友人で煙突掃除屋のバートが垢抜けした身なりの良い男の子と女の子を連れて楽しそうに歌いながら歩く場面である。歌のタイトルは有名な「Chim Chim Cher-ee」。

4位 「レット・イット・ビー」
 1970年公開。ビートルズ主演映画。ビートルズが解散へ向かっていく様を記録した映画、ポールがやたら張り切っている姿が不愉快だったが、今にして思えば皆の心を引き留めようと必死だったのだろう。
 ビートルズの映画といえば、「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ」「イエローサブマリン」「マジカルミステリーツアー」など明るい作品があるのだが、これらは朗らかに演技している「偽りのビートルズ」。ところがこの映画はビートルズ晩期のギスギスした素のママが出ている貴重映像だ。
 ポールがやたら甲高く腹に力を入れて歌っているのが印象的だ。まるで「俺はまだやるぞ! ビートルズを続けるんじゃ!」とでも言いたそうな。

5位 「サウンド・オブ・ミュージック」
 1964年公開。この作品は12・3歳の頃に観たと思う。「ドレミの歌」など保育園時代から小学校低学年にかけて覚えた馴染みの歌を英語で歌うので驚きだった。
「これって、日本の歌や無かったんや。もともとヨーロッパの歌やったんや」

6位 「マイ・フェア・レディ」
 1964年公開。映画は大人になってから観たが、主人公イライザが就寝する時に興奮がなかなか冷めず踊ろうとする場面で歌う「I Could Have Danced All Night」は小学生の頃からよく聞いていた。ラジオ番組でミュージカル音楽特集をやっていて、何故かテープに録音していたのだ。
 私はオードリーの追悼番組で紹介されるまで、本作はオードリー自身が歌っているものと思い込んでいた。

7位 「モスラ」
 1961年公開。特撮ファンなら外せない怪獣映画である。特に「音楽が絡む怪獣映画」という括りならば1位ではないか。当時の日本歌謡界に君臨する双子姉妹のデュオ「ザ・ピーナッツ」がモスラが生息する島で、モスラを神として祀る巫女「小美人」を演じた。
 2人が揃って「やってみましょう」と言うなり歌いだす。「モスラーや~」は有名。
 90年代になってモスラが何十年ぶりかに映画界に登場した時、私はてっきりウインクが「小美人」になると期待したが、制作者側は新人起用にこだわったようだ。

8位 「グリース」
 1978年公開。高校が舞台の学園ラブストーリーミュージカル。しかし学園モノなのに授業風景は皆無、毎日が学園祭のような世界である。ヒロインに歌手として大成したオリビア・ニュートンジョン氏が扮する。主役に当時24歳の髭剃りあとが青々のジョン・トラボルタ氏が高校生というのも難があるのに30歳のオリビアが高校生というのは、鑑賞当時中学生だった私には失礼ながら若奥さんが無理して若作りしているようにしか見えなかった。
 しかし楽曲は楽しいものばかりで心が明るくなる。使用された歌の幾つかは全米や全英でヒット曲になった。

9位 「サタデー・ナイト・フィーバー」
 1977年公開。ジョン・トラボルタ氏が主演しているせいか、私の中では「グリース」と姉妹編のような感覚がある。が、内容は毎日が学園祭のノー天気な青春ラブストーリーの「グリース」とは違い、低所得のスパニッシュ系アメリカ人が抱える問題も背景にしている、けっこう社会派色がある。
 ビージーズのダンスミュージックとともに物語がスタート、全編に渡ってビージーズの独特の歌い方とトラボルタのダンスが輝いている。本作は映画だが、ミュージカルとして舞台化されている。

10位 「ザナドゥ」
 1980年公開。オリビア・ニュートンジョン主演のファンタジー・ミュージカル映画。オリビアがギリシア神話の音楽の神様ミューズに扮する。当時引退状態だったジーン・ケリー氏がすっかり肥え太った老人になっていたが、若いころと変わらぬ軽やかなタップダンスを披露する。
 オリビアが歌った「ザナドゥ」は全米1位を記録するが、映画のほうは酷評された。私も映画というよりはオリビアのミュージック・ビデオを大袈裟にしたように見えたが、嫌いではない。特にオリビアの腋みせノースリーブの華奢な姿にはときめいた。
 因みに本作はブロードウェイのミュージカルとして舞台化されるが、こちらの方は絶賛だったようである。


 私はミュージカルは嫌いだと公言しているが、あくまで嫌いであって観ないのではない。この点は誤解なきように願いたい。
 こうして音楽映画ベストテンを並べてみると、小中学生の頃に観た映画が殆どだ。音楽を主体にした映画というのは、やはり子供の頃に見るに限るのかもしれない。大人になってからもミュージカルは観ているのだが頭に残らない。
 私の中で「ミュージカル」は「マクロス」で終わった。


 
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他国への安易な賞賛が目立つが、自分の足元を確かめる方が逆に良心的ではないのか? 近頃の現象[一二〇三]

ヨーロッパの「静かな崩壊」が始まった! 
難民問題でドイツはギブアップ寸前。
じわじわと広がる排斥運動が、
EUの理念を侵食する


 現在、ドイツに続々と到着している難民は、オーストリアからドイツのバイエルン州に入る。オーストリアが、スロベニアから自国に到着した難民を、せっせとバスで運んでくるのだ。
 国境には公式の通過地点が5ヵ所定められており、9月と10月だけで、到着した難民は31万8000人。つまり人口1260万人のバイエルン州には、2ヵ月間、毎日平均5000人がやって来た勘定になる。
 受け入れ側の警察、役人、ボランティアは、文字通り休みなしだ。難民の身分証明書をスキャンし、指紋を登録し、健康チェックをし、食事を与え、仮眠所で休息させているうちに、次のバスが到着する。
 ベッドが足りなくなると、数時間仮眠した人たちを起こして、チャーターしたバスに乗せ、他州に振り分ける。世話をする人たちは、難民が到着すれば、どんなにくたびれていても放っておくわけにはいかない。
 オーストリアからのバスは、しばしば深夜に、それも予告なしに、何百人もの難民を国境に置いていった。そして、このやり方がドイツとオーストリアの間に緊張をもたらし、10月末、デ・メジエール内相が「了解できない」と強く非難した。
 それに対してオーストリアのミクルライトナー内相は「ドイツは、難民を他のEU国に戻さないと宣言した唯一のEU国だ。それによって、難民の数が爆発的に増えた」と反論。問題がここまで混乱したのは、ドイツのせいだと言わんばかりだった。(現代ビジネス)


【雑感】Twitter上ではドイツの脱原発政策やシリア難民受入政策を賞賛する声が多い。しかし私は逆に不安になる。これは以前の「アラブの春」でも同様の不安を抱いた。欧米のメディアや日本の旧革新系(現在の護憲派や左派)は論調だけを見ると手放しの賞賛、そして日本も見倣って続けの連呼だ。

 私は安易な綺麗事を言う輩は嫌いである。そういった方はよく花火だけあげて後始末はやらない事が多い。盛り付け豪華な美味い御馳走を作って食事後の後始末は配偶者(女とは限らないよ、今は)に押し付ける様に似ているかもしれない。
 どうしても問題になるのが物理的制約と物理的担保である。これを無視すれば、良い顔をして約束しておきながら、後になって「できませんでした」となると、先の民主党政権が沖縄県に対してやった公約と同じで、かえって混乱と災いを招く。日常でもええカッコして転んだらイメージは実行する前より信用は大暴落だし、助けられる側も期待持たせられての突き落としだからもはや信じなくなる。

 ドイツはナチスドイツ時代を反省して日本の革新系勢力が羨むような制度をつくり実行してきた。今や日本の左派ジャーナリストの大御所ともいえる立場になった本多勝一氏は今でも日本を批難する際には「ドイツでは云々・・それに引きかえ日本はなんや」という理屈で来よる。
 だから、欧州各国は移民受入に寛容なドイツを批判している場合ではないのかもしれない。むしろ二度の世界大戦を引き起こした前科があるドイツの寝た子を起こさないためにも、仏の顔のドイツを支えてやらなければまたヒトラーみたいな魔王が台頭してくるかもしれないのだ。

 しかし実際はドイツへの批判が高まりつつある。ドイツ国内でもジワジワ難民受入への不満がボヤから火災へと大きくなりつつある。とどまる事を知らない難民の急増に政府スタッフやボランティアは大変だろう。このまま増え続ければ、対応力は限界に達するし、ドイツが抱えているのは難民問題だけではなくギリシアなどのEU内の経済的困窮国への債権もあるし脱原発政策もある。
 ドイツ経済が破綻する噂が右派世論から聞こえているが私はそこまではいかないと思っている。しかし、メルケル政権は倒れるかもしれないし極右の台頭を許す事になる。

 これを東アジア情勢に視点をうつそう。右派市民は安易に中国との国交断絶や金正恩政権と朝鮮総聯の打倒を口にするが、私には「お花畑の論理」に聞こえる。今や中国は日本にとってアメリカよりも御得意様だ。昨年は僅差でアメリカが第一位の上得意になったが、いずれにせよ輸出総額の5分の1弱を中国が担っている。これに韓国や台湾を入れたらどうなる? 有事の際は日本経済に亡国的ダメージを与えるのは目に見えている。
 さらに北が転ぶと難民が大挙して周辺諸国にやってくる。当然、日本にも大勢くる。そうなった場合、現状の日本の体制で受け入れる事はかなり困難。日本は受入数を「賢明」にも低く抑えてきたが、抑え過ぎたために政府側にノウハウがあるのかどうか怪しい。そのような事態に仮になった場合、朝鮮総聯の力を頼らざるを得ないし、取り分け難民児童の教育については朝鮮学校以外に担える機関が見当たらない。

 そうなっては困るから、現状維持が大事なのだ。北が転んだり過度に朝鮮総聯や朝鮮学校に圧力を加えたら、最終的に困るのは日本だ。

 私に言わせれば、ドイツを賞賛する左派世論も、ドイツを皮肉る右派世論も、立場は違えどお花畑だ。夢を見るのは結構だが、幻想と現実の区別はつける習慣を持たなければとんでもない不幸を呼び込む。


 
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浅田真央、2015年グランプリ中国杯優勝。 フィギュアスケート[一〇六]

浅田真央が復活Vも 
「満足していません」2位は本郷


<フィギュアスケート:グランプリ(GP)シリーズ第3戦・中国杯>◇7日◇北京◇女子フリー 2季ぶりにGPシリーズに復帰した元世界女王の浅田真央(25=中京大)が優勝を飾った。(日刊スポーツ)

【雑感】復帰第一戦にしては出来すぎかもしれないが、グランプリ・ファイナルで優勝を考えたら妥当な成績かもしれない。今の時代、グランプリ・ファイナルや五輪で金を獲ろうと思ったら、やはり200点超えが目安になりつつある。
 もっとも、細かなミスとルールの勘違いが無ければ200点台に届いたかもしれない。

 今回の優勝は、ロシア勢の失速も味方した。エレーナ・ラジオノワ選手もアンナ・ポゴリラヤ選手もここ1・2年で身長が5センチ以上伸びた。重心が変わりジャンプの感覚がついて行けなかった可能性がある。2人とも200点超えできる地力がある。

 浅田真央、世界女子フィギュアの第一人者に復帰といった感がある。中国杯の主役はどうみても浅田真央選手だ。ここは真央を追い抜かす勢いのある選手の台頭が待たれる。
 私は勢いからいって樋口新葉選手に期待している。シニアデビューが楽しみだ。


 
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浅田真央、SP首位で折り返す。エレーナちゃんは体形の変化に苦しむか・・。 フィギュアスケート[一〇五]

真央、貫禄のSP首位! 
2季ぶり舞台で究極ジャンプ魅せた


 フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ第3戦、中国杯は6日、中国・北京の首都体育館で開幕。女子ショートプログラム(SP)には1年の休養を経てGPに復帰した浅田真央(25=中京大)が出場、71・73点で首位と貫禄の滑り出しとなった。本郷理華(19=邦和スポーツランド)が自己最高の65・79点で2位につけた。(スポニチアネックス)

【雑感】たしかに、浅田真央選手は見事という他ない。一年のブランクを経て貫禄の滑りで2位より大差をつけて1位なのだから。ミスらしいミスは無い。
 本郷理華選手は期待通りの滑り。意外だったのは本大会では真央ちゃんの脅威となるエレーナ・ラジオノワ選手とアンナ・ポゴリラヤ選手の失速だ。

 ハイティーンの頃の真央ちゃんもそうだったが、ロシアの16歳と17歳の選手は体形の変化に苦しんでいるような気がした。特にエレーナちゃんは8センチ程度も伸びたという。以前、織田信成君がインタビューで体重が500グラム変化しただけでジャンプの感覚が狂ってしまうと語っていた。ましてやエレーナ選手は8センチだ。
 そういえば、グランプリデビュー時は痩せた小学生のような雰囲気だったエレーナ・ラジオノワ選手は、今ではやたら手足が長い成人したファッションモデルのような体形、身体の重心は激変しているはずだ。浅田真央選手も自分の今までの競技生活を振り返って「15歳のころのジャンプが一番」だとインタビューに答えていた。

 露骨な身内贔屓である事を認めたうえで言うが、エレーナ・ラジオノワ選手は以前より真央シンパを公言していた。だから熱い親近感を持っているのだ。頑張ってほしいものだ。
 そういえば、同じくロシアの新星だったユリア・リプニツカヤ選手もこないだのフィンランディア杯で本郷理華選手に負けている。点数は170点台で、200点以上を何度も叩き出している彼女の力からすればどこか調子が悪いような気がする。やはり成長期の体形変化かもしれない。

 ところで、今回のロシア選手を見て認識を新たにしたのだが、アメリカの選手とはあまりにも筋肉の付き方が違う。浅田真央選手やロシアの選手に比べると、アメリカの女子フィギュアの選手はずんぐりとして肉の塊のような重量を感じてしまう。容姿端麗のアシュレイ・ワグナー選手でさえ競技に入った時の逞しい筋肉線の盛り上がりはまるで格闘家のようだ。本大会出場のコートニー・ヒックス選手は失礼ながらジャンプのたびに地響きが聞こえてきそうなほど重たく感じてしまう。
 同じ「白人」なのにロシアとアメリカとではこうも違うのか。アメリカはまだ純粋に「スポーツ競技」としてフィギュアを捉えているのかもしれない。


 
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三重県志摩市、「碧志摩メグ」公認を撤回。敵対ではなく議論で折衷案を見つける努力は嫌なのかな。 近頃の現象[一二〇二]

色っぽ過ぎる海女キャラ 
碧志摩メグ」公認を撤回 
作者申し出 三重県志摩市


 三重県志摩市が観光PRのために公認した海女のキャラクター「碧志摩(あおしま)メグ」が「性的な部分を過剰に強調していて不快だ」として、現役の海女を含む市民が公認撤回を要望していた騒動で、市は5日、公認撤回を決めたと発表した。撤回の理由を市は「キャラクターの作者から申し出を受け承認した」としている。(産経新聞)

【雑感】当事者である「現役の海女」が抗議して「作者の申し出」で撤回が決まった、第三者の異議が入り込めない形にして撤回を選んでしまったか。

 当ブログで何度も述べたように私は「表現の自由真理教」の信徒だ。だから、表現規制や悪書追放運動の類には激しい嫌悪と軽蔑と怨念を抱く。

 橋下徹氏が政争で口癖のごとく敵対者に向かって「対案を示せ」と吠えたおかげで一部の市民の間には「対案」という単語に悪いイメージが定着してしまったが、しかし対案はあるにこしたことはない。徒に「反対だ」「撤回しろ」だけでは生産的な話し合いはできないし、今回の場合であれば、どんなキャラクターなら良いのか見えづらい。一方の当事者である海女さん側からも「撤回しろ」以外の「キャラデザイン案」をぜひ聞きたい。

 だから私はTwitter上で何度か海女さんたちに向けて「対案」を御提案した。

「私たちは昭和をウリにするので、70年代少女漫画風のキャラを希望する」

 具体的に言えば「ベルサイユのばら」とか「エースをねらえ」とか「つる姫じゃ〜っ!」などに登場するような女性キャラである。これなら性的描写を疑われ難いだろうから妥当であろう。

 こういうことを言えば、「絵画やデザインとは縁のない人に提案は無理」などと反論する輩がいるが、そんな事を言ってしまったら何もできない。引いて言えば「政治の事は素人には解らないから主権は返上する、選挙権も被選挙権も放棄する、江戸時代に戻してください」なんて言うのか?

 私が悪書追放運動の類に憎悪を抱いてしまうのは、相手を否定するだけだからだ。以前などは個人の作品だけでなく「漫画・アニメ」全般を一括りにして否定してきた。これでは「朝鮮人、出ていけ」のヘイトスピーチとの違いが判らない。
 そうではなく、自分たちのメガネに適う作品を描く漫画家やデザイナーを日ごろから支援しろ!と怒鳴りたい。自分たちは描けなくても、描ける人を発掘して育成すれば良いではないか。冷や飯すら食えない画家やデザイナーは大勢いるぞ。そんな人を応援して自分たちの都合の良い作品を描く協力者にすればよい。
 発掘の方法なんて幾らでもある。定番の方法なら組合や自治体が公募をすればいい。あるいは美大や美術専門学校を訪問して学生をスカウトすれば良い。なんでこの簡単な一手間ができんのだ? 反対運動を展開するよりもはるかに省エネだ。

 産経新聞の記事には「現役の海女を含む市民」とあった。これは当事者である海女さんたちが意見を集約して撤回要望を出しているわけではない事を意味する。
 実は海女さんたちの間でも賛否分かれている。以前、ニュースで「こんなん嫌だ」という者もいれば「別にええんとちゃう。好きやで」と答える海女さんもいた。当事者の間でも受け取り方には温度差がある。(余談1)
 現役の海女を含む、という表現から、現役の海女さん主体の意思ではない可能性がある。つまり直接の当事者ではない「市民」の声に引きずられた可能性だ。その「市民」には悪書追放運動的な発想しかできない輩の臭いがプンプンする。

 悪書追放運動の類は文化へのヘイト集団だと私は断ずる。

(余談1)報道によれば、反対派は海女職の3割、賛成派は7割。少数意見を尊重するべきではあるが、それによって多数派の意見が否定されるのも理不尽ではないか。そうならないための折衷案を考える作業が十分ではなかった可能性がある。3割の反対者がまるで海女全体を代表しているかのように捉えられるのも如何なものか?


 
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夫婦別姓よりも、幼名と諱と通名の復活で同姓派と別姓派の共存を! 近頃の現象[一二〇一]

夫婦別姓、最高裁の判断は? 
旧姓使用が広がるなかで


 結婚後も働き続ける女性が増える中、旧姓使用を認める職場が増えている。一方で、国家資格や公文書によっては戸籍名の使用が求められ、「二つの姓」による混乱も少なくない。夫婦別姓を認めていない民法の規定は、憲法に違反しないのか。最高裁大法廷が近く、初めての憲法判断を示す。(朝日新聞デジタル)

【雑感】「二つの姓による混乱も少なくない」とくるか。朝日新聞らしい一方的な事実解釈だ。
 二つの姓を用いているのは女子だけではない。芸能人や文筆家などは古くから戸籍名と仕事名を使い分けている。朝日はそれを知っていながら無視をする。

 そもそも二つの姓を異常と考えるのはおかしい。夫婦別姓が進んでいる西洋ではミドルネームという第三の名前を活用している。日本ではかつて幼名や諱や通名があった。苗字と個人名の二つの構成に限定してしまったのは戸籍制度が確立する明治に入ってからである。
 その戸籍制度は朝日や護憲派やフェミニストが目の敵にしている「徴兵制」を実行するにあたって人口を把握するために布いた制度、現代のマイナンバーに匹敵する制度変革である。戸籍制度を確立するためには、江戸時代のように幼名や諱や通名など個人が複数も名前を持っていては事務処理が煩雑困難になるために「氏名」に限定した。
 ミリタリーの臭いがプンプンする戸籍制度はそのままに夫婦別姓を主張する別姓派を見ていると非常にイラつく。

 日本の自動車のCМで出て一時期お茶の間の顔になったジョン・レノン氏の息子ショーン・レノン氏がいる。この「ショーン・レノン」は正式には「ショーン・タロー・オノ・レノン」と呼ぶことを何故か殆どの人は知らない。ショーンには「小野太郎」という日本人名も正式名に組み込んでいるのだ。普段、仕事をするときは省略して「ショーン・レノン」を使っている。
 また、我が郷里の英雄坂本龍馬は本名ではない。本当の個人名は直柔(なおなり)である。普段は坂本龍馬を名乗るが、偉い人に出す手紙や公文書には坂本直柔とした。もし維新後も存命で天皇の前に参内する機会があったら、紀直柔(きのなおなり)と名乗ったかもしれない。苗字は「坂本」だが、紀貫之の子孫としているので本姓は「紀氏」である。これは徳川や足利や細川が朝廷に参内したら「源氏」を名乗るのと同じである。
 このように、複数の名前を使い分ける事は古今東西よくある事、それを「二つの姓による混乱も少なくない」と、さも異常事態の如くでっち上げようとする朝日新聞の論調には怒りを感じる。

 西洋ではミドルネームを活用している。日本でもかつては複数の名前を使い分けていた。単に事務処理や仕事上の問題であるならば、戸籍制度を変えて両姓を正式名として併記すればいい。同姓派・別姓派は対立よりも共存を図れ!

 前にも何度か述べたが、特にフェミニストに言いたい。自分の姓名が個人のアイデンティティーであるなら、むしろ今の名前を捨てる方が主義主張に適っている。何故なら、帰化や性別変更でもない限り、限りなく全員に近い殆どの人間は自分の与り知らぬところで名前を付けられているのを何と心得る? 勝手に名づけられてしまっている事は不快に思わないのは奇怪至極。
 江戸時代以前であれば幼名というものがある。成人してからつける名前があった。

 現行の戸籍制度で別姓を罷り通らすのは断固反対である。もし私がそこそこの著名人でTVに出演する機会があったら、大声で連呼したい気分だ。


 
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マイナンバー通知、点字表記なし。総務省想定外? 想定しなかったのではなく無視したのだろう。 近頃の現象[一二〇〇]

マイナンバー通知、点字表記なし 
視覚障害者、読み上げ依頼「不安」


 国内に住む全ての人に12桁の番号を割り当てるマイナンバー制度の番号通知が順次始まり、兵庫県内でも間もなく各家庭に届くが、重度の視覚障害者の間で、番号を認識できるのか不安が広がっている。通知カードの番号には点字表記がなく、読み上げてもらう必要があるが、番号はみだりに教えられない個人情報でもある。こうした問題を想定していなかった総務省は「自治体できめ細かくサポートしてほしい」と市町村に対応を求める。(神戸新聞NEXT)

【雑感】想定はしなかったというのは嘘ではないのか。
 まずこの問題を全障連(全国障害者解放運動連絡会議)やDPI(障害者インターナショナル)など障害者関係の諸団体が看過するのは考え難い。何らかの形で行政に対し問題提起を執拗に行っているはずだ。
 また、障害者関係の団体には左派思想にシンパシーを感じる者は少なくない。マイナンバーや安保法制などをセットと見なして反対運動を展開している勢力もあるはずだ。

 想定しなかったというよりはそれらの声を黙殺したのではないのか?


 
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毎日ハム2枚、がん発症率18%UP、WHO報告に食肉業界猛反発。「警鐘」を鳴らす事の難しさ。 近頃の現象[一一九九]

毎日ハム2枚 がん発症率18%UP 
WHO報告に食肉業界猛反発


 世界保健機関WHO)の国際がん研究機関IARC)が、ハムやソーセージ、ベーコンといった加工肉に高い発がん性が認められ、大腸がんを発症するリスクがあるとの調査報告を発表し衝撃が広がっている。5段階ある発がん性の評価で、たばこやアスベストと同じ最高レベルに分類。ハムやベーコン2、3枚分の50グラムを毎日食べ続けると、発症率が18%高まるとしている。ステーキなどの赤身の肉にも発がん性があると指摘した。これに対し、大量消費国である米国の食肉業界団体は「信憑(しんぴょう)性に欠ける」と猛反発。肉をこよなく愛する消費者は「何を食べればいいんだ」と悲嘆にくれている。(産経新聞)

【雑感】日本人の大腸癌発症率が高くなった要因として食事の欧米化があげられて久しい。なので今回の発表も日本ではありふれた情報を補強する意味でしかない。具体的に世界の権威であるWHOIARCが認めてくれただけの話だ。

 もちろん、肉料理中心の国々は反発するだろう。食肉業者は自分たちの商品を悪者にされたので黙ってはいない。自分たちの利益を守るために必要な手段を講じてくる事が予想される。
 ただ、相手は世界の権威であり国際機関だ。以前より肉類中心の食事は健康にあまり良くない事は学者や医者から指摘されてきたし、環境保護運動家たちからは肉牛の生産が森林面積の縮小を促進させているとの指摘があった。それら警鐘を結果的には今まで黙殺したり法権力やマスコミを使って圧力もかけてきたわけなので、今回の発表は意義がある。

 疾病リスクを煙草やアスベストと同格にしているところは些か薬が効きすぎた感があるが、警鐘として有益だと思っている。今回ぐらいインパクトの有る発表をしないと世間は聞く耳を持ってくれない。

 食品公害に関心の有る人間なら、問題となっている食品は肉だけではない事は知っている。牛乳にも乳癌リスクがある事を指摘する医師はいるし、そこまで具体的に言わぬまでも牛乳を避けるよう指導する医師やアドバイザーは少なくない。
 和食ブームで魚の消費が世界的に上昇しているが、全世界に広がった水質の汚濁で魚介類も安全とはいえない。水銀や放射能などはもはやどの地域の魚にも程度の差はあれ存在していると考えたほうが良いかもしれない。

 どの食材にも言える事だが、発癌性云々以前に実は致死量というものがある。これは既に16世紀の医師パラケルススが主張している事で目新しい情報ではない。
 有機無農薬無添加のオーガニック醤油であっても一升瓶分一度にがぶ飲みすれば死んでしまう、この理屈は誰でも解るだろうが、全くの無害であるはずの水でさえ一度に大量摂取すると血中ミネラルが極端に下がって神経障害を起こし多臓器不全を起こす。その量は推測の域を出ないが10リットル説が有力らしい、普通の人間が普通の生活で摂取する事はまず無い。
 毒か無毒の境界線は、少量で致死量に達するか達しないかの差とも言える。各々の食材には副作用よりも効能のほうが勝る適量というものがあって、それは食事をする人の体調や年齢や住んでいる環境や摂取する食材の種類によって絶えず変化する。

 今回の場合、本来は効能と副作用・長所と短所の両方を明記するべきなのだが、それだと警鐘にはならない。残念な事に人は自分の都合の悪い情報は拒絶して都合の良い情報のみを入れようとする。
 今回の一件でも、食肉が健康に悪い影響を与えているのではと疑惑を持っている人たちにとっては都合の良い情報なので歓迎するだろう。逆に食肉業者にとっては死活問題になるゆえWHOの発表は受け入れ難いし認められない。加工肉の効能を発表する医師がもし現れたら、おそらく積極的にそれを宣伝に利用するだろうし、自らもその情報を正しいと確信する。

 人間は本能的に自分にとって「都合の良い情報」しか受け入れない。だから物事を無意識にステレオタイプへ加工して得心しようとする。
 今回でもさっそくWHOの警鐘を「ハムやソーセージは毒」と早合点する人が大勢出現した。菜食主義の知人は「ほら、言うた通やないか」と自説が強化されたことを喜び、世界各国の食肉業者は「毒だと決めつけられた」と言わんばかりにWHOを批難する。
 しかしWHOが示した発症リスクは20%未満、仮に1000人いたとして発症が50人程度のところが60人になる程度のものだ。

 煙草の害毒が喧伝されているにも関わらず未だに吸う人がいる事で内心イラついている私としては、妥当な警鐘だと思っている。今回のインパクトある警鐘でも食肉の消費量が激減するとは思えない、公平に効能と副作用を併記したら人々の記憶には残らないので警鐘の機能は果たせない。
 WHO報告は妥当だと思う。


 
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