天津優貴展に行ってきた。 晴雨堂の晴耕雨読な日常[二五七]

『閃光』 2016.11.9-11.13 京都gallery Main 個展
【雑感】京都五条通沿いの麩屋町通りに元は倉庫兼町工場風の古社屋がある。以前にも紹介した事があるが、現在は文化会館として藝術的なイベント拠点になっている。町興し村興しに関心がある私にとって前から気になっていた物件だ。(自分の生活もままならん時に村興しどころではないのだが・・・)
そこで昨年と同様の晩秋に天津優貴氏が写真展を開いた。この13日(日)が最終日だそうである。
実は私は息子から風邪をもらって先週木曜日からひどい状態だった。夜勤シフトだったので免疫力が落ちているのか、喉が少し痛いかな?と思っていたらたちまち炎症が喉全体へと広がり微熱が出たので土曜日の夜勤は休んでしまった。日曜日の朝になって熱が引き咳も治まり関節痛も無くなったので、昼下がりに京都へ行く事にした。咳をしなければ他人様へ感染させることはあるまい。
天津優貴氏の存在は知るきっかけとなったのはTwitterである。昨年の5月頃にたまたま洪潤梨氏のtweetを見かけ井口昇監督が何やら楽しそうな映画企画を進行させている事を知り、彼女ら彼らのフォロワーになった訳だが、その過程で洪氏をモデルに写真制作をするカメラマンを知った。天津優貴氏である。
当初、私は「あまつ まさたか」と読んでいたので男性カメラマンだと思い込んでいた。作風もどことなく昭和の薫りがするし、洪氏が参加しているユニット「ノーメイクス」のファン層はどちらかといえば中高年が多そうなので、天津氏は私と同世代のオッサンというイメージを持っていた。
ところが洪氏らのtweetをよく見てみるとまだお若い女性、こないだも洪氏と一緒に女子高生風の衣装を着て写真に納まっていた。が、実際にお会いしていないので男性なのか女性なのか結論は今まで保留にしていた。
今回、会場を後にしようと思っていた時に幸運にも会う事が出来たので私の中で「正式」に女性であると認識を改めた。
さて、作品に対する感想だが、天津氏の作品は昨年もそうだが写真単体で観るのではなくギャラリー全体で観る性格のものである。
作品の演出方法は大きなガーゼのような布を垂らしてカラー動画を映写し、ピアノと朗読をBGMに流し、布の後ろには被写体を撮った白黒フィルムをベタ焼きにして一コマずつ分割して貼り付けている。デジカメしか知らない世代には、ベタ焼き云々の説明だとなんのこっちゃ判らないかもしれない。
人の作品をあまりパシャパシャと撮っては顰蹙と思い天津氏本人の許可を得て上記写真1枚しか撮っていないので、詳しくは天津氏のHPやTwitterを参照されたし。
天津優貴ホームページ
天津優貴Twitter
で、感想に戻るが、私にとっては思春期の頃の仄かに哀しい残照のようなものを思い出させてくれる作品だった。今回、洪氏は被写体としての参加ではなく、BGMの朗読をしていた。事前に天津氏のtweetで朗読が棒読みである事を知っていたが、まっこと棒読みでも読み慣れていない稚拙臭い棒読み、しかも録音か拡声器が悪いのか何を読んでいるのか聞き取れない。まさにBGM、ピアノが合わさっているので中高生時代の文化祭を思い出す。
洪氏が演技でワザと下手っぽい棒読みをして、天津氏が効果を計算して演出に使用したのなら大したモノである。少なくとも私の心にさざ波を起こし、忘れかけていた青春の残滓を引っ張り出させる事には成功している。
出演女優全員が多感な少年を演じる金子俊介監督「1999年の夏休み」で描写された危うさに似ているような感がする。

洪潤梨氏の朗読はCD化され販売されていた。1枚1500円。
ピアノ伴奏無しの朗読がCDで売られていたので購入。残念ながらギャラリーのBGMで流している朗読では何を言っているのか聞き取れなかったのだ。加齢で耳が悪くなっているかもしれない。
購入するとき、天津氏は「洪潤梨さんのファンでしょ、Twitterでよく絡む」と話しかけてこられたので、「いやいや、ゆんゆん殿も売れっ子になってきたのでファンは卒業します」と返した。あるていど売れたり軌道に乗ってきたら、私はファンから去る習慣がついている。去らないまでも距離を遠くに置く。
「まあまあ、そんな事いわずに」と天津氏はCDを手渡す。連れ合いが聞いたら「また、何をカッコつけてんねん」と嫌味を言うだろう。
今回は天津氏本人に会えたので疑問に思う事をぶつけてみた。まずは壁に貼っているベタ焼きについて突っ込みを入れる。既に個展は終わっているので具体的に言っても良いだろう。
素人の私の目から見ても、ベタ焼きが雑いのである。私が写真の現像と焼付をやり始めた10代の頃のレベルだったので、えっ?と思ったのだ。さらに頭を抱えたのは、ベタ焼きの1コマを500円で販売。「これを売るか? 高けぇ・・」と思わず声が出てしまった。
藝術的な演出なのだろうか? その点を天津氏に尋ねたら、なんと本当に雑だったのだ。彼女の弁によれば協力者が現像してくれたそうなのだが不慣れで現像ムラや焼きムラができてしまったそうである。
ま、ポートレートや商業写真ではなく藝術作品なので、買い手が納得した上での事なら問題は全くない。知人の画家も原価数百円(人件費は除く)の作品を2・3万で売っていたし。それに時代はすっかりデジカメ主流、フィルムやベタ焼きを見た事が無い人も多い事だろう。そういう意味では付加価値があるかもしれない。

個展を観る前に腹ごしらえをした。個展会場から降りたところに「すずなり」というカフェがある。そこはホップの香り爽やかなハートランドの生を出してくれるから嬉しい。
ホットワインを始めたらしいが、今日は暑い小春日和だったのでおでんを肴にビールにした。体調が悪い時に効くのはやはりビールだ。
【追記】2016年11月14日 天津氏がTwitterで返信。プロの方が敢えて濃淡が出る現像をやったらしい。またBGMも朗読の声が小さくなるように調整したらしい。
前述したように、藝術作品で判断に悩むのがワザとなのかミスなのかの判別が困難というところだろう。
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町興し村興しのヒント(8) 有隣文化会館 晴雨堂の晴耕雨読な日常[二三五]



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ヒラリーは二度負けた。前回は綺麗事吹聴する学生臭さの男の子に、今回は美女を侍らす野卑なオッサンに。 近頃の現象[一二六六]
クリントン氏が敗北電話 トランプ氏に
◇米CNN報道
8日(日本時間9日)に投開票された米大統領選で、民主党のヒラリー・クリントン候補が共和党のドナルド・トランプ候補に敗北を認める電話をかけたと米CNNが伝えた。(毎日新聞)
【雑感】ビル・クリントン政権時、大統領よりも偉いと噂されたヒラリー・クリントン、実務能力については夫よりも玄人との評判だった。
彼女が単なるファースト・レディではない事は、その後の議員生活や事実上大統領の次に偉い国務長官を歴任したことでも実証済みだ。
アメリカ史上初の女性大統領に最も近い人物という評価は疑いなかった。そんな彼女の前に立ちはだかったのは、おそらく彼女自身は格下と思っていたのではないかと思われる二人の男性だ。
前回の大統領選は臆面もなく綺麗事をぺろんと吹聴してしまう口が上手くて学生臭さが残る歳下の男の子、政治家になってまだ年数が浅く実績もあまりない未知数のバラク・オバマ氏だった。
今回はオバマとは真逆のタイプでいつも周りに美女を侍らせていそうな成金親父風のオッサン、ドナルド・トランプ氏である。言動も居酒屋で会社や社会の不満をタラタラ怪気炎を上げる野卑なオッサンそのもの。もちろん政治家としての経験は浅く未知数である。
つまり事務能力に長け政治家としてキャリアもあり、なにより大統領として好意的な実績を残したビル・クリントン氏がバックアップしてくれる貴種中の貴種ヒラリー・クリントンは、二度もド素人に負けてしまったのだ。スマートで知的な男の子と太って下品なオッサンの二人にだ。
社会改革を考えるうえで、というよりも今後私たちが荒波を乗り越えて生きていくヒントのようなものがこの現象に隠されているような気がする。



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例外なく晩節汚す韓国大統領。韓流時代劇に見る権力者の失脚。 近頃の現象[一二六五]
朴槿恵大統領が断崖絶壁に立たされている。
「友人」とされる崔順実容疑者や部下である大統領秘書官らの不祥事によって混乱を招いたことについて2度に亘って国民に謝罪したにもかかわらず、事態を収拾できないどころか、むしろ火に油を注ぐ結果となり、大統領への国民の怒りは土曜の10万単位の大規模デモに発展した。このままでは任期途中で辞任した初の大統領として汚名を残すかもしれない。(辺真一)
【雑感】日韓問題や北朝鮮の話題になると必ず解説者としてニュース番組に出演する「コリア・レポート」編集長の辺真一氏がジャーナリストの視点から韓国政治の特徴を語っている。
当ブログは一応「映画ブログ」なので映画やドラマを楽しむ者として韓国の政変を観てみよう。
私は韓流時代劇が好きでよく録画して観る。というのも、日本の時代劇は基本的にチャンバラ主体で物語に複雑な心理描写や政治的な相関関係などはあまり盛り込まない。よく言えば判り易くて悪く言えば単純、台詞も手垢がついた体育会系用語が並ぶ。典型的なのが「水戸黄門」だろう。
ところが韓流時代劇はアクションも盛り沢山だが物語も複雑なのである。日本の時代劇のようにステレオタイプの善玉と悪玉のシンプル二元劇ではない。だから権力闘争ドロドロ劇が好きな私には面白いのである。
そんな韓流時代劇を観て思った事がある。失脚劇のえげつなさだ。高位高官の御大臣はもとより、王族でさえも拘束されると白い肌襦袢だけにされて寒空に晒されたり粗末な地下牢にぶち込まれる。時には拷問にかけられて、たちまち白い襦袢はボロ布になり血でドロドロになる。処刑時にはまるでホームレスのような風体だ。
日本の時代劇で家老や大名が失脚して無残な風体になるだろうか? 実際にはあったかもしれないが時代劇の中では小奇麗な姿のまま蟄居(一室に軟禁)されるか、真新しい浅葱色の裃で切腹だ。
現代韓国も時代劇さながらの失脚劇かもしれない。友人の中には時代劇と現実は違うと小馬鹿にする輩がいるが、それは愚かで読みが浅くて甘い。他のジャンルのドラマでもいえる事だが、長く親しまれている時代劇は国民性、流行りのドラマは現代の世相を反映するものである。
日本であれば晩節を汚してしまった失脚政治家でも、表舞台からは去るものの悠々自適な余生は概ねおくれている。それどころか失政を指摘されている鳩山由紀夫氏は元首相の立場を利用してロシアや中国を外遊して政府方針とは違う主張をばらまいているし、細川護熙元首相は文化人として藝術とエコ活動、そして小泉純一郎元首相(余談1)は反原発へ宗旨替えしてたぶん最も影響力がある反原発活動家へと変貌した。早い話、現政権側から見れば好き勝手を楽しめるお気楽余生なのだ。
ところが韓国は違う。朴槿恵氏の御父上朴正煕大統領暗殺から数えてもそうだが、歴代大統領は概ね刑事訴追されているか、身内が逮捕されているか。日本の元首相たちの余生と違い波乱だらけだ。
そんな意味で韓国の権力者たちは日本の権力者と違って露骨に権力振るい放題かもしれないが、失脚してしまうと悲惨だ。
(余談1)厳密に言うと韓国大統領たちは任期満了で辞めているし、日本の元首相たちは厳密には失脚政治家ではなかった。小泉元首相に至っては惜しまれながら勇退だった。しかし韓国の大統領も失脚せずとも任期満了退職から刑事訴追とか身内が逮捕されたりなど騒がしいので、主張には影響しない。



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ナチスドイツ風衣装への嫌悪は理解しているが、一連の欅坂46へのバッシングは違和感。 近頃の現象[一二六四]
所属レコード会社が謝罪
アイドルグループ・欅坂46が10月22日に開催されたコンサートで着用した衣装が「ナチス・ドイツ」の軍服を思わせるデザインであるとネットを中心に物議を醸した問題で、所属レコード会社のソニー・ミュージック公式サイトがきょう1日、コメントを掲載。「ご不快な思いをさせてしまったことに対し、心よりお詫び申し上げます」と謝罪した。また、プロデューサーの秋元康氏もグループ公式サイトで「プロデューサーとして、監督不行き届きだったと思っております。大変申し訳なく思っています」とコメントを発表した。(オリコン)
【雑感】日本のミリタリーショップでは普通にドイツ国防軍制服や親衛隊制服のレプリカだけでなくヒトラーユーゲントのバッチなどもの売られている。サバゲーなどではたまにドイツ国防軍の制服姿で参加する人もいる。
さて、このミリタリー趣味をそのままヨーロッパへ持ち込むとどうなるか。逮捕されたり罰金されたりと大変な事になる。ドイツなどは細かく法律で禁止しているほどだ。
映画「帰ってきたヒトラー」でも、ナチ式敬礼はやってはいけない旨をマナー講師がヒトラーに教授したり、ヒトラーがネオナチ政党の事務所へ乗り込んで「私の著作を読んだのか?」と詰め寄られてネオナチ党首が困惑する場面がある。
ヒトラーの「我が闘争」はドイツ国内では発禁本であり、ナチ式敬礼は下手をすれば懲役三年をくらうかもしれない。そういった事が背景になっている。
日本の漫画アニメではしばしば格好いい悪役や個性的な脇役にナチスドイツ風の制服を着たキャラクターが登場するのだが、知人からの伝聞情報によると海外へ翻訳出版される際には書き換えられたり削除されたりするそうである。
日本はまだ牧歌的かつ無邪気にナチスドイツのスタイルをお洒落に着こなしたりするのだが、ヨーロッパでは笑い事で済まない。
以上のことを理解したうえで敢えていうが、私は欅坂46へのバッシングには違和感を抱いている。
まず、ハロウィンでなぜ魔女やドラキュラやゾンビなどの扮装をするのかというと、悪霊が闊歩する日ゆえに悪霊の姿になって悪霊から絡まれないようにするという意味合いがあるのだ。
そのハロウィンの趣旨からすれば、忌むべきものであるナチスドイツの格好をするのはむしろ当然かもしれない。趣旨に全く反していないからだ。さらにナチスドイツの毒牙にかからない呪いの意味合いも発生するではないか。
ハロウィンの仮装の本来の意味を考えたら、逆に欅坂46の面々をとんでもない非常識で無知蒙昧で愚か者であると断ずる方々の態度に釈然としないものを感じるのだ。短兵急な悪書追放運動に似たおぞましい臭いを逆に感じる。
ナチスドイツ的な衣装は昔からヘビメタなどでも珍しくない。テクノポップのYMOが83年散開コンサートで使用した衣装はナチス的であったが、今回の欅坂ほどバッシングの雨は降らなかった。
バッシングする方々はおそらくサブカルチャーの世界は視界の外なんだろう。
SNSのせいかもしれないが、バッシングは少しやり過ぎだ。このバッシングの行きつく先は、表現者を委縮させて言論の自由を阻害する、一種の全体主義だ。
欅坂46の諸君、それなら次回は中国の紅衛兵の姿で赤い手帳を振りながら歌ってはどうか。あるいはパレスチナのハッタを被ってはどうか。



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