想田監督も驚く上西小百合議員の意外な頑張り。 近頃の現象[一二七〇]

【雑感】おお! 映画監督の想田和弘氏が上西小百合氏の「活躍」を取り上げるようになった。
想田監督の映画はどちらかといえば旧革新系や現在の護憲派から支持される内容であり、ネトウヨからは「サヨク」「パヨク」とレッテル付けされている。その社会的立ち位置からすれば、維新勢力は批判や軽蔑の対象であり、実際に想田監督は橋下徹氏批判を積極的にtweetしていた。
そんな想田監督が、かつて維新の非常識な若手議員として世間から叩かれていた上西小百合氏を「すげえ頑張っとる!」と感想を漏らすのだ。
実際、近頃の彼女の言動と言ったら、保守から見れば左翼へ宗旨替えしたのではと思うほどの論調で自民批判・維新批判の連発乱発。かつての上司の橋下氏に対してもボロンチョン!
私が驚いたのは、なんと彼女は「週刊金曜日」の記事をTwitterで紹介していた事だ。

週刊金曜日といえば、90年代前半に左派系出版社晩聲社の和多田進氏と元朝日新聞記者本多勝一氏らが中心になって創刊された左派系週刊誌である。発行部数は以前聞いた数字では数万部程度でけっして多くはないが、旧革新系や市民運動の「業界」では影響力が強いと思う。
そんな雑誌ゆえ、維新に集うようなタイプの人間はまず読まないだろうし、読まないどころか存在すら知らない人が多いのではないかと思う。
国会の重要委員会である予算委員会を「ズル休み」して顰蹙をかう事で一気に名前が全国区になってしまった上西小百合氏、私自身またしても維新は非常識なお騒がせ人間を輩出した程度にしか思っていなかった。
公開されている彼女の経歴を見る限りでも、天神祭りの「ギャルみこし」キャンペーンガールや維新政治塾参加など、購読者にフェミニストも多い「金曜日」とは無縁の人間にしか見えなかった。
議員としての政策や主張も「改憲」「原発再稼働賛成」「TPP賛成」「夫婦別姓反対」といった具合に保守色が強く、日本の核武装については国際情勢によっては検討なので反対はしていないから、護憲派から見れば完全なタカ派だ。
そんな彼女が、想田監督から「すげえ頑張っとる」と活躍ぶりを認められるほど野党らしい議員の仕事をやっているのだ。国会ズル休み騒動のときは、複数名いる維新の非常識お調子乗り人材の1人でいずれは表舞台から消えていなくなる、あるいは芸人かセクシータレントに転身してTV業界の片隅で細々とタレント活動をすると踏んでいたが、非常に面白い誤算だ。
彼女の動きに目が離せない。
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「小百合」 上西小百合著
自叙伝というべきか。一応、政治のカテゴリーで流通してはいるが、女優やグラビアアイドルがだすセクシーフォトエッセイ本みたいと勘違いされてもおかしくはない、というのが世間の評判だった。
橋下徹論序論1 上西議員除名問題の考察 なぜ橋下市長は上西氏を議員辞職に追い込めなかったのか(月聖出版)
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橋下最高顧問、上西小百合ちゃんに激怒か? 近頃の現象[一〇八三]



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衰えない二眼レフ写真機と銀塩フィルム 近頃の現象[一二六九]
インスタのような雰囲気
写真はすっかりデジタルカメラやスマートフォンで撮影するのが一般的になったが、フィルムを使って撮る銀塩写真も愛好家を中心に人気があり、中でも二つのレンズを持つ二眼レフカメラは今も評価されている。そのほとんどはレンズ交換ができず、不便さから時代から消えたはずの二眼レフの根強い人気の背景を探った。(毎日新聞)
【雑感】写真を撮られる時、被写体経験のある方の多くは私も含め若干の圧迫感を抱く。具体的に言えば銃でロックオンされているような感覚に近く、撮られるのが嫌な人にとってはかなり不快なストレスだ。
同じように撮る側にとっても、一眼レフを被写体に向けてファインダーを覗く動作と銃を構え銃身の背中にある凹型の照門を睨む動作は殆ど同じだ。
カメラを向けられると一種の興奮や快感を感じて演技をするようなタイプの被写体ならまだしも、普通の人はどちらかといえば不快な要素を多少は含むストレスを感じるものだ。
それを低減させる効果があるのがこの二眼レフである。

Wikipediaから参照。
中古市場で最も手に入りやすい型の二眼レフ。
実は私自身も二眼レフを使った事は殆ど無いし保有した経験もない。大昔、先輩から一度だけ手に持たせてもらって解説を聞いただけなので、操作方法はうろ覚えだ。
一眼レフは文字通りレンズは一つしか使わない。ファインダーから見える画像はレンズを通してフィルムにあてる光をミラーとプリズムで誘導したものだ。シャッターを開けたままにするバルブ撮影にするとファインダーに光を送る役目をするミラーの角度が変わるのでファインダーは暗転して画像が見えなくなる。
ところが二眼レフは撮影用のレンズとファインダー用のレンズが別になっている。上記参考写真の場合、たぶん上側に付いているレンズがファインダー用だろう。
二眼レフの場合、ファインダーは上部にある。上記写真はファインダーを開けた状態で、箱を開けて上から覗き込むような姿勢で被写体を見る。
これはポートレート写真を撮るに有利な道具ではないかと思っている。前述したように一眼レフで写真を撮る動作は銃を構えて射撃する動作と同じだ。一眼レフを向けられた被写体も何か狙われているような圧迫感を抱く事が多い。
ところが二眼レフだとカメラの上から覗き込むようにしながら撮影するので射られるような視線の圧迫は感じない。
それから二眼レフに使うフィルムは通常120判とよばれるフィルムを使用、これは世間で普及しているフィルム(ライカ判もしくは35ミリ判と呼ばれる)より大きく解像度が高い。
ただ、今のカメラに比べたら欠点もある。二眼レフゆえに一眼レフのような多彩なレンズに交換はできない、構造は一眼レフに比べて単純で故障が少ない半面、上記写真のように大きな箱のような形状なので持ち運びにはストレスを感じる。
フィルムも通常は12枚撮りが主流なので、35ミリ判の36枚より少ない。デジカメに至っては解像度を変えれば1万枚撮る事も可能であることを考えれば不便だ。
しかしカメラが開発された19世紀に絵画の役割が無くなるなんて極論もあったようだが、後のピカソやダリをみれば解るように絵画の表現は写実に留まらない。結局、絵画と写真の役割の棲み分けが成り立った。
今回も、実用のデジタルカメラと藝術の銀塩・アナログとの棲み分けが成り立っていくのではないかと思う。そういう意味で、かつて一眼レフより不便で旧式の二眼レフが再び脚光を浴びるのは不思議ではない。どうせアナログ写真を楽しむなら、手ごろな二眼レフから19世紀前半のダゲレオに挑戦する方が面白いと思う者がいても当然だろう。



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「ワールド・ウォーZ」 ストレス解消活劇〔90〕
ブラピが放つ贅沢なゾンビ映画。
【英題】World War Z
【公開年】2013年 【制作国】亜米利加 英吉利 【時間】116分
【監督】マーク・フォースター
【制作】ブラッド・ピット デデ・ガードナー ジェレミー・クライナー イアン・ブライス
【原作】マックス・ブルックス
【音楽】マルコ・ベルトラミ
【脚本】マシュー・マイケル・カーナハン ドリュー・ゴダード デイモン・リンデロフ
【言語】イングランド語 一部ヘブライ語?
【出演】ブラッド・ピット(ジェリー・レイン) ミレイユ・イーノス(カリン・レイン) ダニエラ・ケルテス(セガン) ジェームズ・バッジ・デール(スピーク) ルディ・ボーケン(ユルゲン・ヴァルムブルン) ファナ・モコエナ(ティエリー)
【成分】悲しい 切ない 知的 絶望的 パニック ゾンビ
【特徴】ブラット・ピットが放つ潤沢予算で創られたゾンビ映画。
殆どのゾンビ映画は低予算で制作されているが、本作の場合はかなり贅沢、そのおかげで映像面でのスケールは壮大でDVDによる家庭鑑賞よりは映画館で観る事を勧める。
物語後半でイスラエルの女優がブラピを護衛する女兵士役で登場、彼女は晴雨堂のイチオシ。続編でも彼女は引き続き同じ役で出演するらしい。
本作劇場公開時、ブラピはインタビューで「子供たちがゾンビ映画が好きなんだ」と語っていた。当時のブラピはアンジェリーナ・ジョリーと事実婚関係で子供たちに囲まれていた。このインタビューでの発言は円満な家庭が滲み出たものだが、後のアンジーとの破局を思うと切ない。
【効能】壮大なスケールに感動。坊主頭の美女兵士に萌え。
【副作用】捻りも新機軸もない展開とオチにガッカリ。
下の【続きを読む】をクリックするとネタバレありの詳しいレビューが現れます。記事に直接アクセスした場合は、この行より下がネタばれになりますので注意してください。
「話の通じない人たち、SNSを利用して思う、議論に向かないメディアだ」〔1〕 晴雨堂の晴耕雨読な日常[二五九]

2017.02.09Twitter画面。
ユーザーの名前はイングリッシュ系、欧米のアニメファンによる作画か?
【雑感】こんな事をいうと、古くからの友人たちから「いやいや、ミカエルの方からあちこち喧嘩うってるんちゃうんか」と突っ込まれるが、そうだとしてもその「喧嘩」すら成り立たない奇妙な世界がネット社会の特徴かもしれない。
まず、ネット上の議論は相手の顔が見えていないので、表情の無い活字による文面のみでやり取りする。直接相対しての議論なら、真面目に真剣に論を展開しているのか、怒っているのか、あるいは相手を小馬鹿にして戯言を並べているのかが相手の表情や語調などから読み取れる情報で推察できるのだが、活字は単なる記号でしかない。
この表情の無い記号の並びが曲者である。
よく軽んじられるのが言論界のルールである。これを知ってて無視しているのか、知らないで無視しているのか、よく判らないがあまりにも多い。
例えば、私は相手の言に対して反論するとき、相手の言を抜粋する事も多々あるのだが、その場合はカギカッコ括りにして相手の発言を一字一句違わずに抜粋する。あるいはネット社会の場合は引用符「<」を抜粋文各行に冠する事もある。これは「自分ルール」ではなく言論界のルールである。
それは相手の発言に対する反論を述べている事を正確に表す意図がある。相手に「お前の発言はこうだが俺はこう考える」を明確にするためで、口頭の議論と違い相手の発言が記録に残る利点を活かし念のためさらに強調する意味合いがあるのだが、それでも相手から「前後の文脈を考えろ」との批難を受ける事が多々ある。
ところがネットではそんなルール無視なのである。
相手が的外れの反論をされるので、「どういうつもりや」と問いただしたら相手は「貴方は○○と言った」というのだが、もはや私の元の発言とは似ても似つかない文面なのである。無茶苦茶だ。
同じ日本語でも、住んでる地域や生まれた世代によって意味が微妙に異なる。だから通常の会話でも自分の発言が意図しない方向へ解釈されたり誤解されてしまう事が多々ある。しかし文章による議論は発言が「文」という記録に残るから、誤解を防げる利点があるのだ。
しかし残念な事に多くの方々は口頭の世間話と全く同じ感覚で、他人の発言を自分勝手な解釈で捉えて反論する。下手をすれば、私が言ってもいない架空の発言に対して反論を試みるので、私にしてはもはや話にならないのだ。
その上ネットでは相手が私への反感と悪意で作り上げた架空の発言が晴雨堂ミカエルの発言として拡散するので非常に迷惑千万である。下手をすれば名誉棄損の疑いすらある。
ネットの無い時代であれば、市井の口頭の議論はある意味適当いい加減で、突っ込まれても「俺はそんな事いってない」「忘れた」でしらをきれた。
雑誌や新聞紙上の議論では文章という記録に残る。議会や裁判では書記が発言を速記にて正確に記録するし、録音でも記録にとる。なので発言者は慎重に発言する。最悪、名誉棄損に抵触して紛争になる場合もあるからだ。
ネット社会に於ける議論とは、市井の居酒屋の議論と違い、新聞や雑誌上の議論と同様の重さがある。場合によってはそれ以上だ。下手をすれば世界70億の人間へと拡散される可能性もゼロではない。
なのに、SNSはコミュニケーションの道具以上の存在でもある事を意識しない人たちが殆どだ。市井の居酒屋での世間話と同じ調子でやりおる。
もちろん、居酒屋での世間話と同じ調子で全く面識のないアカの他人と意見交換できるのがネットの良さであることを認めているし、私自身もかたぐるしい挨拶抜きで話しかけたりもする。(余談1)
気をつけなければならないのは、自分の発言はネット上に残るという事である。居酒屋での無礼講と同じように会話ができるが、酒の上での行き違いでは済まない怖さがある事を私自身も含めて肝に銘じようではないか。
(余談1)その点をこないだTwitter上で「はるかぜちゃん」つながりで某氏から「注意」された。一言「横コメ失礼」とことわったうえで割り込んだので現代の感覚では無礼に当たらないと思う。一言無しでズカズカ割り込む人が圧倒的だからだ。
ところが私の言動が遠慮のない無礼に見えたようである。それ自体は反論も否定もしない。相手も穏便に注意したつもりだと思うし、私も穏便に返答したつもりだが、相手はそうはとらなかったようだ。次第に喧嘩腰のやり取りになり某氏はブロックした模様。
私は「博愛精神」なので基本ブロックしない。別段、多様性社会や世界平和云々を声高に主張している訳ではなく、趣味の延長でTwitterやっているだけなのでブロック機能を乱用する権利はあるし相手も正当な処置をしたと思っている。しかし私はブロックはしない。
逆に多様性社会や世界平和を主張する左派系市民運動家関係の御仁にブロック機能を使う権利は無いと思う。多様性社会と世界平和を主張した時点でその権利は放棄したものと心得るべきだ。



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