学校史切り取り事件。例によってマスコミに登場する犯罪心理学の専門家の解説もアテにならんやろうなぁ。 近頃の現象[一二七九]
目的不明で関係者ら不安、模倣犯も?
図書館が所蔵する学校史や記念誌が切り取られる被害が、中部地方を中心に全国で相次いで発覚している。11日には群馬、山梨両県の図書館も、関東地方で初めて同様の被害を公表した。公立図書館の8割が加盟する日本図書館協会(東京)は緊急調査の実施を決定。写真掲載ページに被害が集中するなど共通点はあるものの、目的が見えないだけに、関係者らに不安が広がっている。(産経新聞)
【雑感】この事件を聞いて、私は高校時代に発生した高校図書室の書籍破損事件を思い出した。
高校生だった頃、学校の図書室にビートルズの写真集が数冊あった。その中で写真が比較的多く掲載されているA4サイズくらいの分厚い本があって、私は昼休みにちょくちょく見に来ていた。
ビートルズ解散から既に10年が経過しており、生徒間での知名度も特に高いとは言えなかった。音楽を気晴らしに聞く程度の平均的な生徒はやはり日本の芸能人やアイドルに注目しているし、音楽をやる子の大半もアリスとかオフコースなどの今でいうJP、当時はシンガーソングライター?にハマっていて、ビートルズに熱中しているのはごく少数だった。
なのでその本は私の独占状態であり、図書委員として週番でカウンター業務の時でも「読んでいた」ものだ。
ところがある日の事、本の厚みに違和感を覚えた。案の定、ページが破られていた。たしかビートルズの最高傑作と今でも讃えられている「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」のジャケット写真撮影風景を見開きで掲載したページだったと記憶している。
破り方は非常に雑、捥ぎ取ったような感じだ。これは絶対にファンの仕業ではない。仮に私が犯行に及ぶとしたら、カットマットとカッターナイフと定規を使って綺麗にページを切り取る。
あの本を手にする機会が最も多かったのが私だったので陰で疑う人はいたかもしれないが表には出なかったと思う。一応私は真面目な生徒であったし、体育会系で頭を坊主にしているのに「お寺の息子」と思い込む人が多かったほどの知的キャラだった。また司書の女性教師との信頼関係も確立していたので、私は破損を見つけ報告した第一発見者の扱いで済んだ。たぶん、司書も私の性格を御存じなので、私の犯行ならぞんざいにページを千切る事はないと思ったのだろう。
もしかしたら、学園ドラマ的な発想になってしまうが私への嫌がらせの可能性があったと思う。乱暴な千切り方ゆえ、ビートルズが好きでページを千切ったとは思えない。私が頻繁にその本を手にしている事を知っている者、頻繁に借りているのは巻末に貼り付けてある茶封筒の図書カード(現在はバーコードとIDカードで処理するだろうが、当時はボール紙のカードに記入する)を見れば借りた人の履歴が判る。(ジブリ映画「耳をすませば」にその場面がある)ので、友人以外にも私がその本をよく手にしていた事を知りえる。
結局、犯人は判らず迷宮入り。
さて、名古屋などを中心に図書館にある学校史の類が破損しているニュースを耳にする。学校に何らかの悪意をもった人物の犯行説を専門家たちは唱えているようだ。これは高校時代のビートルズ本破損事件で私が推理したのと同様の内容だが・・。それだけにアテになるのかなと逆に疑問に思ってしまう。だって、専門家のくせに10代の頃の私の発想と同じなのだ。
という訳で単純な愉快犯説を唱える。 この手の書籍は比較的奥まった場所の棚に陳列される。閲覧者も少なく人通りが少ない、財政難の自治体ばかりなので防犯カメラ設置を図書館に割り振れないところも多い、したがって死角で悠々と犯罪をやってのける事ができるだろう。
なぜ学校史なのかというと、話題になりやすい点を計算したのではと思う。2014年に東京各所の図書館で「アンネの日記」破損事件が起こったが、あれの模倣の可能性があるとともに、学校史の類は反戦反差別資料や児童書として名高い「アンネの日記」よりは地味であり閲覧の機会が少ないが、卒業シーズンに入る前の時期にアルバム制作や学校史編纂の参考に閲覧する事は多いと思う。数年に閲覧が一回あるかないかの資料よりは毎年必ず誰かが閲覧する類だ。
つまり、「アンネの日記」ほど頻繁な閲覧は無いが、毎年必ず閲覧されるはずの資料で、それが学校史などのものに特化していれば話題性が発生する。
無作為に様々な資料を破損するだけなら、数多くある事件の一つでしかないが、書籍の種類を限定すれば注目されやすくなる。しかもそれが集合写真の切り取りや破損であれば個人情報流出の懸念もあって話題になりやすい。同じ写真でもアイドル水着の写真集のページが破られたぐらいでは世間はありふれた事件として片づけるが、今回の場合なら少なくとも学校関係者が黙っていない。
犯人は愉快犯だと思う。時限爆弾が炸裂するかのように各自治体の図書館で犯行跡が見つかって騒ぎ出すのを楽しんでいると思う。



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古書店の英雄ブックオフ、まさかのつまずき? 近頃の現象[一二七八]
フリマアプリに押され連続赤字
中古本販売大手のブックオフコーポレーションが高級路線に力を入れている。フリマアプリ「メルカリ」など、ネットを通じた個人間の直接売買が広がっているあおりを受け、主力の書籍やCDの売り上げが振るわなかった。2017年3月期の純損益は11億円の赤字で、赤字は2期連続。(朝日新聞デジタル)
【雑感】古書店を個人で経営している知人からブックオフの悪口を聞いていたので、上記紹介記事を見かけると思わず「ざまぁみさらせ」と、もとい苦境の書店業界の中では元気だったブックオフの躓きは気の毒に思ってしまう。
仕方が無いといえば仕方が無い。
少子高齢化というのは人口がじわじわ減っていくのではなく特定の年齢層の激減を意味する。即ち、最も書籍に親しむ機会が多いはずの就学年齢層である。
しかもネット社会の定着で音楽や映画などはネット配信によるダウンロードで購入する形式をとる者が多く、その新しい形式の利用者は当然の事ながら就学層である。
私の姪っ子が通ってた小学校などでは紙媒体の教科書は廃止され、全員タブレット装備でハードディスクに教科書をしまう。この現象だけでも紙の書籍の激減は必定だ。
だから書店業界は縮小の一途をたどっている。レンタルビデオ屋もネット配信に切り替わりつつあり、店舗を構えてDVDやCDソフトを貸出しするやり方を止めつつある。現実に私の周辺では書店やレンタルビデオ屋は消えつつある。
ブックオフだけが成長拡大なんて事は有り得ない。ブックオフの経営陣がマトモならば減収は覚悟していたはずだ。
事態を好転させる決定打は誰も解らない。私などは景気不景気関係なく膨張を続けていた漫画同人誌即売会に起死回生のヒントがあるのではと思っていたのだが、どうやらヒントのようでいてヒントではないかもしれない。
漫画同人誌即売会は主にアマチュア漫画家が自分が描きたい漫画を自費出版して売る場で、同じ趣味の人間と同人誌を通じて友達の輪を広げるコミュニティーのようなものでもあり、私はそこに未来の書店の姿を見たような気になった時期があった。
実際、喫茶店との兼業のブックカフェでサロン的な古書店を維持しながら人との交流を盛んにしていく知人も複数名しっているが、どこも莫大な利益が上がっている訳ではなく、あくまでカツカツながら経営が維持され、金銭的な利益よりも店舗を舞台に人と人との交流に価値や生き甲斐を見出すパターンである。
つまり、書店業界が再び拡大に転じる可能性は現状では無いに等しい。未だ下げ止まりの底が見えない段階である。
晴雨堂関連作品案内
全然大丈夫 [DVD] 藤田容介監督 2008年
古本屋を舞台に展開する荒川良々・木村佳乃主演のラブコメディ。



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表現の自由とは(20) 柴田英里氏のtweetをめぐる紛糾について。ヘイトスピーチをめぐる見解の相違 相違を認めずに異論者を短兵急に否定してはいかんだろう。 近頃の現象[一二七六]
異論者を否定というのは、
全体主義者と
同種の精神状態ではなかろうか。
(毎度のことながらTwitterは議論に向かない)
【雑感】たまたまTwitter上でこんなやり取りを見かけた。その一部を以下紹介する。
佐藤剛裕氏
え?「ヘイトスピーチには、それを表現の自由として認めるに足るだけの背景がある」というのがあなたの主張ですよね?
柴田英里氏
そんな主張していませんよ。複雑な背景があろうがなかろうがヘイトスピーチする自由があり、それを批判する自由もあるが、ヘイトスピーチを法的に規制するのは自由権の侵害であるという主張です。
Ikuo Gonoï氏
現代美術家が「ヘイトスピーチする自由」を主張している。完全な表現の自由とは、殺人や暴力など他者への加害も含む、自然権の自由行使状態を指す。ヘイトスピーチは加害行為であり、他者の自由も奪い社会も壊す。アートの名の下に「表現の自由」を振りかざせば何でもできるとの発想はただの中二病だ。
柴田英里氏
うーん。“アートの名の下に「表現の自由」を振りかざせば何でもできる”なんて思ったことも言ったこともないのだけれど。なんでこう、「自分が思ったことが真実であり正しい」という認識になるのだろう?
青野忠彦氏
柴田英里氏の一連の発言を見て思ったのは、氏が言うような表現の自由に関する言説がそれなりに有効であると信じられてた時代がかつてあったって事。でも表現の自由に関しては今確実に新しいフェイズに移行してるんだと思う。それに全く気付けていない鈍感さを晒している感じ。要するに古くてダサい。
青野忠彦氏
インターネットがここまで普及してくると、表現者が表現の自由について鈍感である事が直接的にマイノリティの存在を脅かしてしまうの。それに気付けないの表現者としてかなりやばいですよ。あんたが恥かくのは構わないけど、マイノリティを危険に晒すなよ。
以上、目に付いた柴田英里氏の主張とそれへの反対論の代表的なモノを列挙してみた。
私の見解を話そう。
「表現の自由」は民主主義社会にとって欠かす事の出来ないアイテムなのだが、実は私のような庶民にとっては直接生活に影響するものではない。
言論と表現の自由は国家権力の暴走を抑止するための第四権力を市民側が保持する云々の話はあるが、残念な事に我々庶民は学校や部活や会社などの不可解で無意味な規則に縛られてきたので不自由に我慢する事に慣れている。三度の飯と安定した社会が確保されるのであれば「表現の自由」が無くても我慢するのが庶民である。
だからこそ、ヒトラーは三権を独占できた。ヒトラーは演説と暴力だけでドイツを牛耳った訳ではない。我慢できる庶民と無関心の庶民の「協力」があったからこそだ。ヒトラー側もそんな庶民に一時的であれ賃金増とバカンスなどの夢を実現させる事を忘れない。
何が言いたいのかというと、「表現の自由」なんてものは当たり前のようでいて実はきっかけさえあればいつでも簡単に消滅してしまう儚いものなのである。
一見すると柴田英里氏の主張は古典的な自由論のようだが、私はあながち古臭くはないと思う。それよりも多様化のしんどさを私は実際に市民運動の現場で目撃・体験したので逆に佐藤剛裕氏やIkuo Gonoï氏それに青野忠彦氏の主張や反論の方に古臭さと短兵急さを感じる。
今の時代、様々な民族・宗教・思想が正義を振りかざすようになった。というより昔から振りかざしているのだがグローバル化によって世界中に乱立し接触・衝突する機会が増えてきた。各々が各々の価値観に基づいて善悪を判断し悪を糾弾している状況である。
私が学生だった80年代の時点でも既に二元論では括れなくなってきた。当時友人だった労組運動家が離婚した。彼にとっては目前の敵は国家権力や資本家だった。ところが彼の同志だったはずの元妻はフェミニズムに「目覚めて」しまい男性である彼も糾弾すべき存在になってしまったようだ。彼にとっては背後から攻撃されたような感だったろうし、彼女にとっては「最初は信頼できる男だったのにやはり他の男と同じ支配者」ということなのだろう。
付け加えるとフェミニストの元妻はヘビースモーカーなので嫌煙派で喘息もちの私にとっては彼女も立派な加害者なのだ。高慢な理想を掲げるのであれば、ともに煙草撲滅運動に協力せよとは言わん、せめて己が卒煙するぐらい朝飯前にやれと、私は今でも彼女の志を疑い怨念に近い憤懣を抱いている。
昨今の言葉狩りの状況を鑑みれば、もはやシンプルな加害者VS被害者、支配者VS被支配者、多数者VS少数者では括り切れなくなりつつある。
例えばポルノは社会が全体主義に陥る際のカナリアの役目を果たしてきたのだが、一部フェミニストにとってポルノはヘイトと同様の「犯罪」である。現行法では合法でも隙あらば法改正で「犯罪」にしてしまう魂胆を持った者を複数名みかけた。「表現の自由」真理教信徒を自負する私は、フェミニストを自称する女性から何度「おぞましい」と批難されたか。
各々が各々の正義を振りかざし、各々にとっての悪を糾弾する。そして悲しい事に各々は自分の分野外にいる他者の痛みには例外なく無頓着である。理解していると嘯く者も大勢見かけたが、それは理解しているつもりであって、多様性を主張する者に限って多様性に直面した時に馬脚を現すところを何度目撃したかわからない。
私の保守的な価値観を批難するフェミニストが喘息もちの私に向かって煙草を吹かす行為などが典型例だろう。私に向かって「殻(保守的な価値観)を破れ」と迫りながら己は煙草を止めないのだ。(加害者である事を認めないから加害者であり続ける)
無数にある勢力が各々の価値観に基づいた正義を振りかざし、加害表現を糾弾していったらどうなるか? 無数の正義から「加害行為」と決めつけられる事例が際限なく増え際限の無い魔女狩りとなる。
それを過度か適度かを判断して実際に規制を実行するのは誰だと思っているのか?! 隙あらば全体主義に持ち込みたい国家権力ではないのか!
柴田氏の姿勢はむしろ国家から「表現の自由」を守る闘争をする上で当たり前の姿勢だと思う。それに表現不自由になっても直接影響はない路傍の庶民と違って、柴田氏は藝術と言論を生業にしている作家だからだ。柴田氏の疑問は至極当たり前で、言論を生業にする者にとって死活問題になりうる大問題になぜ無警戒に規制を叫ぶのか? なのである。
言論人が規制推進を叫ぶという事は、反原発派が「やはり当分は原発必要だから再稼働に賛成する」に等しい。実際の反原発派の主流は、エネルギーや経済など一筋縄ではいかない考慮すべき複合的な問題が山のようにあるはずなのに、敢えて妥協せずに再稼働反対・原発ゼロを主張しているではないか。原発の脅威の前には経済の混乱など蚊に刺されたモノでしかないと考えているからだ。
頑迷な姿勢の人間も多いが、同時に国家権力を相手に最初から妥協は禁物でもある事を悟っている運動当事者は行動している。表現者たちも妥協は禁物だ。
立場が違えば「ヘイト」の意味も変わってくる。どの人たちのヘイト解釈を採用するかは絶大な許認可権を持ち隙あらば全体主義に均していきたい国家権力である。権力に言論規制の口実を与える事は危険である。



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「アイアムアヒーロー」 不安と恐怖を楽む時に〔27〕
日本産ゾンビ映画の佳作、
原作漫画から実写映画化の成功例。
【英題】I Am a Hero
【公開年】2016年 【制作国】日本国 【時間】127分
【監督】佐藤信介
【制作】
【原作】花沢健吾
【音楽】ニマ・ファクララ
【脚本】野木亜紀子
【言語】日本語
【出演】大泉洋(鈴木英雄) 有村架純(早狩比呂美) 長澤まさみ(小田つぐみ)
【成分】かわいい パニック ファンタジー 不気味 勇敢 恐怖 悲しい 絶望的 ゾンビ
【特徴】日本産ゾンビ映画の佳作。原作漫画の実写映画化の成功例。
近年、原作漫画の実写映画化の失敗が相次いでいる。どんな佳作に仕上げても必ず低い評価を下す原作ファンはいるものだが、興行的にも成功とは言い難い作品が多いような気がする。その点、本作は成功例に加えてもいいだろう。
大泉洋氏の鈴木英雄ぶりは完璧、おそらく目玉であるクレー射撃術はかなり特訓したのではないか。映画館で観れば大泉洋の射撃場面は非常に迫力があるだろう。(残念ながら家庭の事情で映画館へは行けない状態が続いている)
また気が強そうなキャラが似合う長澤まさみ氏を小田に、有村架純氏を女子高生比呂美に配したのも適切なキャスティングだ。
とりあえず、「邦画のゾンビ映画はつまらない」「漫画の実写化はつまらない」といった偏見や先入観を排して本作を楽しもう。
【効能】主人公の射撃シーンにストレス解消。平凡な日常が次第に壊れていく様に悪寒を感じる。
【副作用】ありきたりなゾンビ映画の展開とオチにガッカリ。
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