「シン・ゴジラ」 家族と一緒に感動しよう〔27〕
リアルな役人描写・自衛隊描写が評判
シン・ゴジラ Blu-ray特別版3枚組
シン・ゴジラ DVD2枚組
【原題】
【英題】Shin Godzilla
【公開年】2016年 【制作国】日本国
【時間】111分
【監督】庵野秀明(総監督) 樋口真嗣(特技監督)
【制作】
【原作】
【音楽】鷺巣詩郎 伊福部昭
【脚本】庵野秀明
【言語】日本語 イングランド語
【出演】長谷川博己(矢口蘭堂) 石原さとみ(カヨコ・アン・パタースン) 竹野内豊(赤坂秀樹) 松尾諭(泉修一) 高良健吾(志村祐介) 津田寛治(森文哉) 市川実日子(尾頭ヒロミ) 塚本晋也(間邦夫) 高橋一生(安田龍彥) 大杉漣(大河内清次) 柄本明(東竜太) 余貴美子(花森麗子) 平泉成(里見祐介) 野村萬斎(ゴジラ・モーションキャプチャー)
【成分】かっこいい スペクタクル パニック 勇敢 知的 放射能 怪獣映画
【特徴】久々に日本で制作された正統派ゴジラ。
主役級の俳優を助演からチョイ出演の脇役まで贅沢に起用。政治家や役人・自衛隊の監修協力があって全編にリアルな役人言葉が散りばめられ物語全体の説得力を強めている。
また、物語にはアメリカが日本の「宗主国」として絡んでくるがアメリカ人俳優は殆ど顔を出さず、石原さとみ氏が日系アメリカ人の政府高官役で登場、多くの日本人が抱く典型的なアメリカ人キャラを忠実に演じている。
ただ、政治家や自衛隊の熱心な監修協力を得ているためか、初期のゴジラ映画に比べると「反権力・反体制」色は無く、主人公は若き世襲政治家で、彼が率いるチームの活躍を前面に出すことで官僚・自衛隊に華を持たせる内容になっており左派系のゴジラファンには不評である。
【効能】日本のシビリアンコントロールの有様を実感できる。
【副作用】シビリアンコントロールに悪いイメージを抱く。放射能被害を甘く見る。
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石原さとみ 「シン・ゴジラ」(2016)
私はギャラ分の働きをしたと思っている。

日本タレント名鑑参照
【雑感】石原さとみ氏は本作でアメリカ生まれのアメリカ育ちの政府高官役を演じている。些か予想外かつ強引な設定と配役、ネット上の評判を見渡してみるとやはり英語の発音で批判があるようだ。
主な批判をまとめると、「発音は流暢だが言葉遣いに違和感」のようだ。例えばセネガル出身の芸人を引き合いに出して、訛りを感じない発声に込み入った内容の日本語を操れるけどフレーズに違和感、石原さとみ氏の英語もそれと同様らしい。
これが日本人通訳や外交官役なら許せるが、アメリカ生まれのアメリカ育ちで大統領の名代たる特使という政府高官という設定では看過できない、という事だ。当然、ネイティブな英語を話さなければならないが、石原さとみ氏の発音は流暢だがネイティブさに欠けると「帰国子女」のレビュアーたちが口を揃える。
そして石原さとみ氏の英語に対して、世襲の若き政治家矢口に扮する長谷川博己氏や実力で政府高官に成り上がった赤坂を演じる竹野内豊氏の英語台詞を絶賛する声をよく聞く。
私の英語能力は無いに等しい。中学・高校・大学と10年間授業を受けてきたが、全く身につかないまま忘却した。そんなレベルなので石原さとみ氏の英語はとても流暢で綺麗に聞こえてしまう。
とはいえ、なぜ石原さとみ氏なのだろう?と怪訝には思った。日本在住の欧米圏の女優は探せば居るはずではないか。(余談1)
物語が展開していく過程で、石原さとみ氏演じるパターソン特使の祖母は日本人で戦時中は広島に住んでいたというオチが浮かび上がる。
ゴジラを制作するうえで外すべからざるテーマが原爆の悲劇と反核だ。(余談2)容姿は日本人なのにデフォルメともとれるステレオタイプなアメリカンで日本の要人たちに高圧的かつ命令調で迫るパターソン特使が、土壇場で本国の方針に背き日本側の政治家矢口に協力する背景にあるのは、広島で被爆?した祖母の存在がある。
しかしそのオチでいくとしても、日系の欧米圏俳優をあててもよいのではないかとも思った。なぜ英語を母語としない日本人俳優をアメリカ特使役に起用するのか?という違和感は今でも抱いている。
ただ、石原さとみ氏個人への批判は言い過ぎではないかなと思ったりする。フレーズに違和感であれば、それは石原さとみ氏本人ではなく脚本家に文句を言うべきだ。俳優は映画監督の指示に従い与えられた脚本で演技をするものである。「流暢だけど可笑しな英語」ならば俳優が悪いのではなく制作を指導する人たちが悪いのである。
ハリウッド映画や中国や韓国映画などに登場する日本人も、おかしな日本語を使う事が多々ある。
たとえば英米合作の有名な戦争映画「戦場にかける橋」では早川雪洲演じる斎藤大佐はネイティブな日本語だが、幕僚役を演じる「日本人」の中にはぎこちない発音をする者がいたし、斎藤大佐自身も当時の日本軍将校なら鉄拳で済ますはずなのに「俺の責任ではない」という趣旨の言い訳を並べる場面がある。
こないだレビューした中国映画「百団大戦」に登場する日本軍も、以前に比べればかなり良くなってはいるが「その発声はあり得ないのでは」と思う箇所が無い訳ではない。しかも演じているのは中国人俳優ではなく日本人俳優である。
これらの映画で描写される日本人とは、あくまで制作国の人々がイメージする「日本人」である。同じように「シン・ゴジラ」に登場するアメリカ人も日本人がイメージする「アメリカ人」であり、石原さとみ氏はそんなアメリカ人キャラを忠実に演じきったに過ぎない。したがって、「帰国子女」を自称する人々が違和感を抱くのは至極当然であり、文句を言うのなら俳優ではなく制作者に言うべきだろう。
因みに「シン・ゴジラ」公開当時、私の周囲には「あんな特使はいないだろう」と設定に無理がある点を突っ込みまくる人がいた。まだ30歳代で大統領の名代を務める容姿端麗の女性高官なんて、いくらアメリカでも現実離れ、という指摘である。
ところがトランプ政権の誕生で、そんな高官が登場する。トランプ大統領の実子でイヴァンカ・マリー・トランプ氏である。石原さとみ氏とは5歳しか違わない。モデルやイメージキャラクターを務めたりする石原氏の容姿は高く評価されているが、イヴァンカ・トランプ氏もモデル出身でもあるので容姿端麗である。
(余談1)今ならNHK朝ドラ「マッサン」でブレイクしたシャーロット・ケイト・フォックス氏を思い浮かべるだろうが、彼女は「シン・ゴジラ」企画段階では無名だろうし、撮影時期は「マッサン」と被るだろうから時期的にあり得ない。
(余談2)元々は反核に加えて反権力も重要な柱で、シリーズ1作目1954年版ではゴジラが国会議事堂を叩き潰す場面が描写されている。
また「シン・ゴジラ」では役人賛歌・自衛隊賛歌とも解釈できるほどの内容だが、以前のゴジラ映画では自衛隊は簡単に捻り潰される存在で、未確認の噂だが自衛隊から「これでは税金泥棒ではないか」と苦言が寄せられたという。
「シン・ゴジラ」は制作に協力する政府や自衛隊に気を遣った内容であることから、左派系のゴジラファンは憤慨している。



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護憲派が抱えるジレンマ。 近頃の現象[一二八八]
安倍首相は、臨時国会の閉会を受けて、10日午後6時に記者会見し、自民党の憲法改正案を国会に提示できなかったことに関連し、2020年の新憲法施行にあらためて意欲を示した。
安倍首相は、「国民的な議論を深めていくために、一石を投じなければならないという思いで、2020年を、新しい憲法が施行される年にしたいと申し上げましたが、今もその気持ちには、変わりはありません」と述べた。
さらに安倍首相は、「憲法改正を最終的に決めるのは国民だ」と強調した。(フジテレビ系)
【雑感】自民党は1955年結党以来一貫して「憲法改正」を党是としてきた。半世紀以上の時を経て、国会の三分の二を与党が制覇し改正発議ができる位置にまでやっと到達した訳なので、自民党総裁である安倍氏が改憲の意欲を強調するのは至極当然だろう。
あとは日本国の主権者たる国民の投票により多数決で承認か否かを決める。憲法には「この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」とあるので、国民の半数以上という非常に高いハードルを越えなければならないイメージがあるのだが、実はけっこう曲者である。
条文を読む限りでは、投票または選挙は具体的にどのようなシステムで行うかは記されておらず、詳しい方法は国会が決めることになるのだが、現在の国会で圧倒的イニシアチブを握っているのは安倍政権である。また条文には「その過半数の賛成」とあるが、「その」は投票者の半数以上を指すのか、総主権者の半数を指すのかで紛糾している。
仮に投票者の半数であれば、従来の国政選挙の感覚で行われてしまうと半数程度が棄権するので得票率半分弱と合わせて考えると、憲法改正のハードルは総主権者の四分の一でOKなんて事にもなりかねない。
なので改憲の現実味はかなり強くなっていると思った方がいいだろう。とどめにアメリカが改憲を支持すれば怖いものなしだ。
自民党の改憲に対して、現国会では共産党・社民党・立憲民主党などを中心とする勢力が護憲を名乗り反対している。Twitter上ではしばしば護憲派を名乗る御仁が今上陛下や秋篠宮殿下の御言葉を引き合いに出して自民を批判し、それを社会主義者を標榜する左派の御仁が「天皇制を認める発言」だと護憲派の人を批判したりと奇妙な現状が発生している。逆に安倍政権を支持する一部の者が陛下や殿下を「パヨク」などと罵る。私が学生だった30年前なら荒唐無稽なギャグだ。(余談1)
もともと共産党や旧社会党は「社会主義革命」を目指す革命政党を名乗っていた。なので言うまでもなく実は護憲ではなく改憲の立場だった。改憲個所は一条から八条である。
左翼と呼ばれる勢力、日本では元々社会主義者を指していて、社会主義者にとっては天皇制を規定する一条から八条は容認できないものだった。廃止するべき特権階級を憲法が一条から八条という、いの一番に定めているからである。国民主権を定めた一条も、象徴天皇制を規定した後に「主権の存する日本国民の総意に基く」と続いている。左翼から見れば「天皇制を定めたついでに国民主権やと?!」となる。考えようによっては、積極的に天皇制を保障した憲法という解釈をする左翼の知人もいた。
ところが、私が物心ついたころには左翼の改憲論は影を潜めていた。90年代に入ると共産党や旧社会党勢力の社民党や新社会党、そして民主党の一部は「護憲」を強調するようになった。土井たか子氏や辻元清美氏が護憲を訴えるテレビCMまで制作していたのを覚えている人もまだいるだろう。
護憲を名乗るようになった理由は簡単である。改憲の土俵で闘っては、圧倒的に数が多く政権与党という有利な立場にいる自民党の改憲案に寄り切られる懸念があるからだ。戦争放棄を謳った九条をはじめ、基本的人権を謳った十一条から四十条が改悪されるリスクがある。(余談2)
故に変化を嫌う「保守的な日本人」の特性を利用し護憲を戦術として前面に出すようになった。自民党の改憲の土俵では闘わない。そして支持する数ある条文で特にインパクトのある九条を旗頭に、全国各地で「〇〇九条の会」が立ち上がることになった。
但し、この護憲戦術には副作用がある。旧社会党系の市民運動に参加していた時代、私は天皇制を否定的に主張する人に大勢出会ったが、具体的に廃止に向けた改憲運動を展開する者は限りなくゼロに近い。護憲や護九条を主張しても一条から八条の改憲を訴えた時点でそれは護憲ではなく自民党案とは別の意味の改憲論者となる。
「日本国憲法を守る」という主張である限り、一条から八条も日本国憲法の一部である。護憲派の多くは一条から八条は見て見ぬふりをした。九条をはじめ、十一条から四十条や、地方自治法を定めた九十二条から九十五条を「日本国憲法の精神」と見なして一条から八条は無かったかのように議論を避けた。
事実上、天皇制の容認である。
私が「事実上の容認だろ?」と突っ込みを入れた80年代・90年代の左派系市民運動家たちは顔を真っ赤にして怒ってきたものだが、最近は潮目が変わってきた。
というのも、今上陛下が憲法への遵守を強調したり、秋篠宮殿下が憲法との整合性を懸念したりと、安倍政権下の日本国政府に異例の意見をされている。また参議院の山本太郎氏が園遊会の席上で今上陛下に書簡を直接手渡した事件は記憶に新しい、まるで足尾銅山の田中正造か226事件の青年将校のような感覚。
自民党の圧倒的安定多数の議席下では護憲派も以前のような力はない。見方を変えれば、今上陛下とその御長男と御次男が最高の影響力を誇る護憲派となってしまわれた。かつての護憲派は初期の「週刊金曜日」の投書欄を読めばわかるように護憲を主張しながらも憲法の一部である一条と八条を無視して反天皇制を述べる「矛盾」を抱えていたが、今や陛下の言動を支持する護憲派がTwitter上で増えつつある。
そしてかわりに安倍支持の「保守」や「右翼」が皇室を批判・・いや批判という次元ではない、「パヨク」などと見当違いの中傷する時代となった。
(余談1)念のためにいうが、「パヨク」はもっぱら左翼の別称であるが、その対象範囲は本格の社会主義者からリベラルな自由主義者まで範囲が広がり今では安倍政権に反対しないまでも異論・諫言・懸念の表明にとどめている者にも「パヨク」のレッテルを張る傾向が強くなっている。
そういう意味では安倍支持者にとっては陛下や殿下も「パヨク」になるのだろうが、本来の左翼の別称という意味なら見当違いの中傷だろう。社会主義者にとって王侯貴族の特権階級はあってはならない存在なので、皇統の存続を常に考えておられる皇族が自らの存在を否定するはずがない。
(余談2)因みに私は当ブログやTwitterでも繰り返し主張しているように「表現の自由」真理教の信徒である。なので二十一条の支持者だ。



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