「太陽の季節」
青春映画のエポックメーキング 【英題】【公開年】1956年
【制作国】日本
【時間】89分
【監督】古川卓巳
【原作】石原慎太郎 【音楽】佐藤勝
【脚本】古川卓巳
【出演】長門裕之(津川竜哉) 三島耕(兄・道久) 清水将夫(父・洋一) 坪内美詠子(母・稲代)
南田洋子(武田英子) 東谷暎子(幸子) 小野三津枝(由紀) 市村博(佐原) 佐野浅夫(江田)
石原裕次郎(伊豆) 野口一雄(西村) 沢井謙(田宮) 須藤孝(松野) 吉田光男(拳斗選手) 関弘子(エルザー) 南部美野(サリ) 久場礼子(マリー) 河上敬子(ミッチー) 明石淳子(ジェリー) 紅沢葉子(英子の母) 岡田真澄(バンド・マスター) 三鈴恵以子(女給) 松原京子[女優](海水浴場の女) 阿部幸四郎(審判)
石原慎太郎(サッカー選手) 福田トヨ(菓子の家の女中) 花村信輝(顔役) 八代康二(顔役)
【成分】切ない 粗暴 恋愛モノ 青春モノ 太陽族 1950年代 白黒映画
【特徴】青春映画のエポックメーキング。
原作者は政治家になる前の新進小説家
石原慎太郎氏、この「
太陽の季節」で芥川賞作家となる。実弟
石原裕次郎氏は本作でチョイ出演、記念すべき映画デビュー作だ。石原プロの栄光の原点である。
本作をきっかけに「太陽族」ブームが起き、巷で本作の主人公たちを真似た遊び人が街中を闊歩、映画会社も同様スタイルの映画を連作し一儲け。そのため、若者に有害影響を与える「危険」から映倫が設置、本作は映倫の生みの親である。そして、本作の共演がきっかけとなり、数年後に長門・南田両氏は結婚する。
まだ20代前半の
南田洋子氏、サザンの桑田佳祐そっくりの
長門裕之氏、スリムで脚の長い裕次郎氏は貴重映像。
【効能】ベテラン俳優たちの若々しい姿と演技に鑑賞者も青春回帰できる。「近頃の若者は・・・」と苦言する老人たちへの反論材料となる。いつの時代も若者はバカをやっているのだと納得・安心する。
【副作用】身勝手な若者たちに激怒。
下の【続きを読む】をクリックするとネタバレありの詳しいレビューが現れます。
悲劇のヒロイン南田洋子 この映画を観たのは、たしか
石原裕次郎氏の追悼特集だった。あの頃は連日裕次郎主演映画が放送されていたのだが、この作品では主人公の遊び友達の1人という役どころで、脇役というよりはチョイ役といった方が良い。
主役は
長門裕之氏と
南田洋子氏、当時の長門氏はサザンの桑田佳祐氏にそっくりで、
南田洋子氏も後年のトレードマークとなったオカッパ頭のようなヘアースタイルではなく、現代でも通じるお洒落な髪型で、普通に可愛らしい女性だったように記憶している。チョイ役で出ていた裕次郎氏はスリムで悪ガキといった感じ、私の世代では「太陽にほえろ」の少し肥えて顔がでかくなったボスのイメージだったから新鮮に感じた。
この作品は様々な意味合いがある。原作者はまだ政治家になる前の新進小説家
石原慎太郎氏で、この「
太陽の季節」で芥川賞作家となる。(余談1)
当初はスタッフとして参加していた裕次郎氏はチョイ役出演となり本作が記念すべき映画デビュー作だ。石原プロの栄光の原点である。
本作をきっかけに「太陽族」ブームが起き、巷で本作の主人公たちを真似た遊び人が街中を闊歩、映画会社も同様スタイルの映画を連作し一儲け。そのため、若者に有害影響を与える「危険」から映倫が設置された。本作は映倫の生みの親なのである。(余談2)
そして、本作の共演がきっかけとなり、数年後に長門・南田両氏は結婚する。
様々な点でそれ以前の邦画とは一線を画すエポックメーキング的作品なのだが、私はあまり良い印象は持っていない。当時の遊び人の風俗を知る(余談3)歴史的資料価値はある事と、「近頃の若者は・・」と嘆く老人たちに向かって「お前らの世代かてアホはおるやないか」と反論する材料にはなる。
主人公がトンデモない奴だ。マッチョ志向で強さをアピールしたり女性を独占することしか頭に無い。高校生の分際で飲む・打つ・買う三拍子。その餌食になるのが、たまたま通りかかった20歳前後くらいの少女だ。その役を
南田洋子氏が演じる。女を求めて街をさまよう主人公たちにナンパされるのだ。
ボクシングの場面で主人公とヒロインは急接近するので純情路線のスポコンになるのかと思ったら、ヒロインの存在が鬱陶しく思うと横恋慕している自分の兄に5千円(現在の物価で換算すると3万円くらい?)で売り渡す、なんじゃこりゃ?
さらに主人公の子供を身篭ると中絶を強要する。挙句に中絶手術が失敗して死んでしまう。なんたる身勝手なチャラ男なんだ。
ラスト、ヒロインの葬儀に主人公は弔問に訪れる。TPOは一応心得ているのか、学生服をきちんと着こなしていた。参列者から注がれる非難の目。主人公は遺影をしばらく見つめるや、お香を掴んで遺影に投げつける。まるで織田信長が父親の葬儀にしたかのようだ。悲しみにくれる遺族に向かってトンデモない狼藉、さらに「あんたたちには解らないだ!」と捨て台詞を吐いて出て行く。外套を小脇に抱え早歩きでツカツカと去っていく学生服の後姿でジ・エンド。
おいおい、何を悲劇のヒーローみたいにカッコつけとんのや。俺が遺族だったら、全員で取り囲んでボコボコにして、棺の前に土下座させて、何時間も吊るし上げにして精神を崩壊せしめ身も心も廃人にしてやる。
おそらく殆ど人はカッコ良い、スタイリッシュ、多感で危うく儚い青少年、という具合で肯定的に楽しむのだろうが、私は別の意味で感情移入して不愉快になった。
とはいえ、長門・南田両氏の「夫婦生活」の始りは本作での共演からかもしれない。
南田洋子氏の訃報を聞いたとき、思い浮かんだのがこの作品のラストだった。作品から半世紀の時を経て本物の葬式に臨まなくてはならないとは、奇妙で切ない因縁だ。
(余談1)ハッキリいって私は「
太陽の季節」はあまり好きではない。ただのチャラ男の物語ではないか、と思った。ただ「恋空」のように首を傾げるところは無く、こんなアホな奴たしかにいたな、とムカついたので、それは小説家としての腕前の良さか。
(余談2)祖母は
長門裕之と
南田洋子のラブシーンを否定的なニュアンスで「過激な描写」と言っていた。私の目には普通のラブシーンにしか見えなかったのだが、当時の紳士淑女にはポルノチックに見えていたのか?
(余談3)主人公は高校生のくせに背広ネクタイ姿になるときもあった。そういえば、私の世代でも坊主頭の中高生のくせに背広ネクタイで彼女と初詣に行く奴がいたから、それに似ているのか?
もしかして
長門裕之氏は高校生ではなく大学生だったかもしれない。当時の大学生は学生服を着ていたから。
晴雨堂スタンダード評価
☆☆☆ 良
晴雨堂マニアック評価
☆☆☆ 佳作 晴雨堂関連書籍案内太陽の季節 (新潮文庫) 石原慎太郎
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悲劇のヒロイン南田洋子 この映画を観たのは、たしか
石原裕次郎氏の追悼特集だった。あの頃は連日裕次郎主演映画が放送されていたのだが、この作品では主人公の遊び友達の1人という役どころで、脇役というよりはチョイ役といった方が良い。
主役は
長門裕之氏と
南田洋子氏、当時の長門氏はサザンの桑田佳祐氏にそっくりで、
南田洋子氏も後年のトレードマークとなったオカッパ頭のようなヘアースタイルではなく、現代でも通じるお洒落な髪型で、普通に可愛らしい女性だったように記憶している。チョイ役で出ていた裕次郎氏はスリムで悪ガキといった感じ、私の世代では「太陽にほえろ」の少し肥えて顔がでかくなったボスのイメージだったから新鮮に感じた。
この作品は様々な意味合いがある。原作者はまだ政治家になる前の新進小説家
石原慎太郎氏で、この「
太陽の季節」で芥川賞作家となる。(余談1)
当初はスタッフとして参加していた裕次郎氏はチョイ役出演となり本作が記念すべき映画デビュー作だ。石原プロの栄光の原点である。
本作をきっかけに「太陽族」ブームが起き、巷で本作の主人公たちを真似た遊び人が街中を闊歩、映画会社も同様スタイルの映画を連作し一儲け。そのため、若者に有害影響を与える「危険」から映倫が設置された。本作は映倫の生みの親なのである。(余談2)
そして、本作の共演がきっかけとなり、数年後に長門・南田両氏は結婚する。
様々な点でそれ以前の邦画とは一線を画すエポックメーキング的作品なのだが、私はあまり良い印象は持っていない。当時の遊び人の風俗を知る(余談3)歴史的資料価値はある事と、「近頃の若者は・・」と嘆く老人たちに向かって「お前らの世代かてアホはおるやないか」と反論する材料にはなる。
主人公がトンデモない奴だ。マッチョ志向で強さをアピールしたり女性を独占することしか頭に無い。高校生の分際で飲む・打つ・買う三拍子。その餌食になるのが、たまたま通りかかった20歳前後くらいの少女だ。その役を
南田洋子氏が演じる。女を求めて街をさまよう主人公たちにナンパされるのだ。
ボクシングの場面で主人公とヒロインは急接近するので純情路線のスポコンになるのかと思ったら、ヒロインの存在が鬱陶しく思うと横恋慕している自分の兄に5千円(現在の物価で換算すると3万円くらい?)で売り渡す、なんじゃこりゃ?
さらに主人公の子供を身篭ると中絶を強要する。挙句に中絶手術が失敗して死んでしまう。なんたる身勝手なチャラ男なんだ。
ラスト、ヒロインの葬儀に主人公は弔問に訪れる。TPOは一応心得ているのか、学生服をきちんと着こなしていた。参列者から注がれる非難の目。主人公は遺影をしばらく見つめるや、お香を掴んで遺影に投げつける。まるで織田信長が父親の葬儀にしたかのようだ。悲しみにくれる遺族に向かってトンデモない狼藉、さらに「あんたたちには解らないだ!」と捨て台詞を吐いて出て行く。外套を小脇に抱え早歩きでツカツカと去っていく学生服の後姿でジ・エンド。
おいおい、何を悲劇のヒーローみたいにカッコつけとんのや。俺が遺族だったら、全員で取り囲んでボコボコにして、棺の前に土下座させて、何時間も吊るし上げにして精神を崩壊せしめ身も心も廃人にしてやる。
おそらく殆ど人はカッコ良い、スタイリッシュ、多感で危うく儚い青少年、という具合で肯定的に楽しむのだろうが、私は別の意味で感情移入して不愉快になった。
とはいえ、長門・南田両氏の「夫婦生活」の始りは本作での共演からかもしれない。
南田洋子氏の訃報を聞いたとき、思い浮かんだのがこの作品のラストだった。作品から半世紀の時を経て本物の葬式に臨まなくてはならないとは、奇妙で切ない因縁だ。
(余談1)ハッキリいって私は「
太陽の季節」はあまり好きではない。ただのチャラ男の物語ではないか、と思った。ただ「恋空」のように首を傾げるところは無く、こんなアホな奴たしかにいたな、とムカついたので、それは小説家としての腕前の良さか。
(余談2)祖母は
長門裕之と
南田洋子のラブシーンを否定的なニュアンスで「過激な描写」と言っていた。私の目には普通のラブシーンにしか見えなかったのだが、当時の紳士淑女にはポルノチックに見えていたのか?
(余談3)主人公は高校生のくせに背広ネクタイ姿になるときもあった。そういえば、私の世代でも坊主頭の中高生のくせに背広ネクタイで彼女と初詣に行く奴がいたから、それに似ているのか?
もしかして
長門裕之氏は高校生ではなく大学生だったかもしれない。当時の大学生は学生服を着ていたから。
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☆☆☆ 良
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☆☆☆ 佳作 晴雨堂関連書籍案内太陽の季節 (新潮文庫) 石原慎太郎
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長門さんが桑田さんにクリソツだというのは本人たちや
その周囲でもよく知られていた話らしく、
20年以上前、真夜中にTVでやっていたSAS+SETのバラエティ番組で
桑田さんのラブコメ系寸劇の相手役を南田さんがやってました。(笑)
南田さんの態度や言葉遣いが、長門さんに対するように見えたのがおかしかった記憶が。