「桜田門外ノ変」
当時の桜田門周辺を再現したセットが魅力 【原題】【公開年】2010年
【制作国】日本国
【時間】137分
【監督】佐藤純彌 【原作】吉村昭 【音楽】長岡成貢
【脚本】江良至 、
佐藤純彌【言語】日本語
【出演】大沢たかお(
関鉄之介)
長谷川京子(関ふさ) 柄本明(金子孫二郎) 生瀬勝久(高橋多一郎) 渡辺裕之(岡部三十郎) 加藤清史郎(関誠一郎)
中村ゆり(いの) 渡部豪太(佐藤鉄三郎) 須賀健太(高橋荘左衛門) 本田博太郎(桜岡源次衛門) 温水洋一(与一) 北村有起哉(安藤龍介) 田中要次(稲田重蔵) 坂東巳之助[2代目](有村次左衛門) 永澤俊矢(西郷吉之助(隆盛)) 池内博之(松平春嶽) 榎木孝明(武田耕雲斎) 西村雅彦(野村常之介) 伊武雅刀(井伊直弼) 北大路欣也(徳川斉昭)
【成分】悲しい スペクタクル 勇敢 知的 絶望的 切ない かっこいい 幕末 桜田門 19世紀中頃 日本
【特徴】桜田門外の変から150年を記念して制作された。襲撃の中心となった水戸藩士ゆかりの茨城県がバックアップ。当時の桜田門を忠実に再現したオープンセットが話題になった。これも一種の町興し的映画だろう。
最近の時代劇の傾向なのか、自毛の生え際を活かすカツラメイクとなっているので、不自然な揉み上げや富士額は無くリアルな雰囲気が出ている。
佐藤純彌監督は桜田門外でのチャンバラやその後の実行犯たちの捕縛・拘禁などの現実的表現に精力を傾けている。
【効能】憂国の志士たちの情熱にエナジーをもらう。
【副作用】リアル表現にこだわりながら説明臭い安易な演出にギャップを感じ不快感。
下の【続きを読む】をクリックするとネタバレありの詳しいレビューが現れます。記事に直接アクセスした場合は、この行より下がネタばれになりますので注意してください。
小説の映画化ではなく、事件の映画化を。 私の趣味に合う題材ではあった。活劇が大好きな方、「時代劇」が大好きな方、史実には興味もこだわりも無い方、「晴雨堂の趣味に合う」という文言で果たして自分に合う映画かどうかを観る前に判断されるべきだろう。私の趣味に合わせられない方にとっては、たぶん退屈でつまらない作品にしか見えない事が多いからだ。
「ああ、こいつが面白いというのなら、俺の趣味には合わないなぁ」という判断も、レビューを読むときに必要である。
さて本作の評価だが、「趣味に合う」作品であるも構成や人物描写が中途半端で憤懣を抱いた。及第点だろう。私が制作者兼監督だったら、
吉村昭氏の小説ではなく、主人公関鉄之助自身が書き残した日誌を原作にして、桜田門外の変の前後をリアル実写化する。(そんなことしたら客こないか)
90年代前半に制作されたNHKの歴史ドキュメント「桜田門外の変・時代と格闘した男」があまりにも印象に残っている。全体に関自身が書いた日誌や当時の目撃者たちの文書を元にナレーションが構成され、川谷卓三氏が関鉄之助役を務めるとともに語りも担当し、ときおり水戸方言を混ぜながら関の日誌を基にした文語調表現がリアルで、まるで関の肉声のようだった。(余談1)
残念ながら、本作はリアル桜田門外の変を追求しているようなのだが、リアルな雰囲気とインパクトは川谷卓三版「桜田門・・」には及ばない。
まず冒頭の絵解き説明は作品の格調を落とした。解説には頼らず、できるだけ水戸御老公と井伊大老の議論で収めてほしかった。
時系列を暗殺前後の「現在」と7年前・6年前・2年前とを頻繁に行きき過ぎるのも鑑賞者にストレスを与える。奇を衒わずシンプルに前半を開国騒ぎと井伊と水戸の対立にし、暗殺事件を中盤にもってきて、後半を逃亡にしたほうが良かった。
それから、どの時代劇も井伊を60代の俳優を充てる事が多いが、暗殺された当時の井伊の年齢は44か5である。今の私と歳は変わらん。当時の平均寿命は短いので妥当と思う者もいるだろうが、それは大きな間違い錯覚である。乳幼児や老人の死亡が多かったから数字が低いのであって、当時の40代が今の60に相当するなんて馬鹿なことはない。
しかも、井伊は生活水準の高い上級武士で、本来なら家督を継ぐことのない末の子供だったから30過ぎまで勉学と武芸三昧、現代の大学で30過ぎまで院生やっているのと変わりはない。だからもっと若い俳優、六角精児氏あたりを充ててもらいたかった。
せっかく桜田門外の変勃発150周年の節目に、巨費をかけ、茨城県の全面的協力を得て、演技達者な俳優を揃え、殺陣やメイクをリアルにしながら、私の目には勿体無い構成に見えて残念である。
(余談1)再現ドラマの冒頭は、関鉄之助が逃亡先で日誌を書く場面、「すでに我が同志の多くは黄泉の客となり・・」悲壮感漂う疲れきった関を演じる川谷卓三氏の顔、そこへ関の支援者が「ここは危のうございます! お逃げください!」
大きな目を見開いて振り返る関、脳裏に桜田門が浮かぶ。「三月三日、思えば桜田門外の有事、大雪強風の日なり・・」
場面はまるで百年も前のサイレント映画のような粗い画質の白黒映像となり、桜田門のロケセットを作れない少ない予算をカバーするため背景は霞んで見えなくしている。大雪の中を進む井伊大老の籠と護衛の家来衆。そこへ四方から襲い掛かる水戸浪士たち、不意を突かれた井伊大老の護衛は次々と斬り殺される。身を守ろうと手で防いだために指が飛び散る。やがて1人の浪士が井伊の籠に刀を刺す。
次の瞬間、幕末らしからぬ輪転機やタイプライターの映像、井伊大老暗殺を報じる当時のワシントンポストなどのアップ映像。
この出だしで私の心は鷲掴みにされた。
映画では殆ど割愛されていた関と愛人いのとの馴れ初めや別れも印象深く表現していた。いのが暗い川辺に独り立ちつくし暗い草むらへと消えていくイメージが関の夢に何度も出てしまう場面が関の孤独で冷えた心を表現しているようで良かった。
事件の模様を某藩邸から目撃した者の文書が残っている。
「
窓の下、騒がしきにつき何事ならんと覗きみ候ところ、
既に双方入り乱れての戦いとなりおり候
真剣は間を隔てせりあうよし、昔より聞き及びそうらへども、
この場においてはさでもく、刀半分または鍔元際にてせり合い候
大男一人、大音声を発す 井伊掃部とまで聞こえ候」
とあったそうなのだが、本映画では暗殺者が「井伊掃部!」と叫ばなかったので、ムカついた。
正確な桜田門周辺のロケセットで判る事。 レビュアーの中には、「何で幕府や彦根藩または他藩が救援に駆けつけないのか不自然」とか、「寒い大雪の中、ウロウロと人が徘徊している時点で怪しいと警戒するはず」などと怪訝に思う者がいた。
実は本作での描写は特に不自然ではない。不自然ではないが説明足らずかなと思っている。
まず、救援部隊が駆けつけなかった点、記録では襲撃は僅か3分で終わったそうである。本作ではチャンバラシーンを濃密に描いているので間延びしているが、実際はもっと短く一瞬の出来事だ。事件の目撃者の多くは「何や?騒がしいのう。え? なんじゃ?! ああ! 御大老様が・・!」とあれよあれよの間という感覚だったろう。
法治社会である現代でも同様の現象があった。1985年6月、豊田商事の永野一男会長刺殺事件である。当時、会長宅には大勢の報道関係者が集まっていた。その衆人環視の中で2人の男が窓を割ってドアをこじ開け侵入し永野会長を殺してしまった。窓ガラスを割った段階で器物損壊、しかし大勢の目撃者たちはその行為を咎めなかった。
次に寒い雪の日に桜田門前をウロウロ人が徘徊しているのも実はおかしくないのだ。これは現代に例えると鉄道マニアが目当ての列車が通過するのを待っている感覚に近い。電車の運転手が線路脇で望遠レンズを構えている鉄道ファンたちを目撃して、バズーカ砲を構えるテロリストだぁ、などと慌てるだろうか?
つまり当時は大名行列のオタクがいて、大名・旗本の氏名や家紋・格式・知行などを記したデータブック「武鑑」を手にしながら江戸城を出入りする大名行列を見物していた。本作にも描写されていた立ち食い蕎麦屋の屋台は、そんなオタクを相手に商売をしていたのである。オタクにとっては雨も雪も関係ない。
もっとそんなオタクたちの描写をしていれば、関たちが怪しまれずに待ち伏せできたのかも判っただろうに。
本作の良い点は桜田門周辺のリアルセットである。たしかに襲撃の地理条件が良く判り、講談や時代劇の感覚に囚われず事件を冷静に考察できる。
彦根藩邸の門から桜田門まで非常に近いし広い道なので見通しが良すぎる。時代劇では井伊が決死の覚悟で登城に臨んだかのように描写される事があるが、まったく暗殺を予期しなかったと思う。本作の伊武直弼のごとく用人の注進を一笑にふした態度が実情ではないかと思う。
昔から矛盾を感じたのは井伊側の警護が刀にカバーをかけている点だ。襲撃を警戒していたなら刀を抜きやすいようにしているはずだ。
また今回の映画で彦根藩邸と桜田門がかなり近い事が判った。行列の供回りは公儀によって定められているにしても、もしもの事が起こったときに備えて藩邸に救援部隊を配備することもできたはず。しかし備えを全くしていなかった。
おそらく決死の覚悟で幕政に臨んだ井伊直弼ではあったが、不穏分子をあらかた粛清したので安心したのではないか。また事件の目撃者の文面にもあるように、咄嗟の事で眺めているしかできなかった様子。すなわち、泰平の世が続いたために平和ボケしていたのだ。
晴雨堂スタンダード評価
☆☆☆ 良
晴雨堂マニアック評価
☆☆ 凡作晴雨堂関連作品案内桜田門外ノ変オリジナルサウンドトラック
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小説の映画化ではなく、事件の映画化を。 私の趣味に合う題材ではあった。活劇が大好きな方、「時代劇」が大好きな方、史実には興味もこだわりも無い方、「晴雨堂の趣味に合う」という文言で果たして自分に合う映画かどうかを観る前に判断されるべきだろう。私の趣味に合わせられない方にとっては、たぶん退屈でつまらない作品にしか見えない事が多いからだ。
「ああ、こいつが面白いというのなら、俺の趣味には合わないなぁ」という判断も、レビューを読むときに必要である。
さて本作の評価だが、「趣味に合う」作品であるも構成や人物描写が中途半端で憤懣を抱いた。及第点だろう。私が制作者兼監督だったら、
吉村昭氏の小説ではなく、主人公関鉄之助自身が書き残した日誌を原作にして、桜田門外の変の前後をリアル実写化する。(そんなことしたら客こないか)
90年代前半に制作されたNHKの歴史ドキュメント「桜田門外の変・時代と格闘した男」があまりにも印象に残っている。全体に関自身が書いた日誌や当時の目撃者たちの文書を元にナレーションが構成され、川谷卓三氏が関鉄之助役を務めるとともに語りも担当し、ときおり水戸方言を混ぜながら関の日誌を基にした文語調表現がリアルで、まるで関の肉声のようだった。(余談1)
残念ながら、本作はリアル桜田門外の変を追求しているようなのだが、リアルな雰囲気とインパクトは川谷卓三版「桜田門・・」には及ばない。
まず冒頭の絵解き説明は作品の格調を落とした。解説には頼らず、できるだけ水戸御老公と井伊大老の議論で収めてほしかった。
時系列を暗殺前後の「現在」と7年前・6年前・2年前とを頻繁に行きき過ぎるのも鑑賞者にストレスを与える。奇を衒わずシンプルに前半を開国騒ぎと井伊と水戸の対立にし、暗殺事件を中盤にもってきて、後半を逃亡にしたほうが良かった。
それから、どの時代劇も井伊を60代の俳優を充てる事が多いが、暗殺された当時の井伊の年齢は44か5である。今の私と歳は変わらん。当時の平均寿命は短いので妥当と思う者もいるだろうが、それは大きな間違い錯覚である。乳幼児や老人の死亡が多かったから数字が低いのであって、当時の40代が今の60に相当するなんて馬鹿なことはない。
しかも、井伊は生活水準の高い上級武士で、本来なら家督を継ぐことのない末の子供だったから30過ぎまで勉学と武芸三昧、現代の大学で30過ぎまで院生やっているのと変わりはない。だからもっと若い俳優、六角精児氏あたりを充ててもらいたかった。
せっかく桜田門外の変勃発150周年の節目に、巨費をかけ、茨城県の全面的協力を得て、演技達者な俳優を揃え、殺陣やメイクをリアルにしながら、私の目には勿体無い構成に見えて残念である。
(余談1)再現ドラマの冒頭は、関鉄之助が逃亡先で日誌を書く場面、「すでに我が同志の多くは黄泉の客となり・・」悲壮感漂う疲れきった関を演じる川谷卓三氏の顔、そこへ関の支援者が「ここは危のうございます! お逃げください!」
大きな目を見開いて振り返る関、脳裏に桜田門が浮かぶ。「三月三日、思えば桜田門外の有事、大雪強風の日なり・・」
場面はまるで百年も前のサイレント映画のような粗い画質の白黒映像となり、桜田門のロケセットを作れない少ない予算をカバーするため背景は霞んで見えなくしている。大雪の中を進む井伊大老の籠と護衛の家来衆。そこへ四方から襲い掛かる水戸浪士たち、不意を突かれた井伊大老の護衛は次々と斬り殺される。身を守ろうと手で防いだために指が飛び散る。やがて1人の浪士が井伊の籠に刀を刺す。
次の瞬間、幕末らしからぬ輪転機やタイプライターの映像、井伊大老暗殺を報じる当時のワシントンポストなどのアップ映像。
この出だしで私の心は鷲掴みにされた。
映画では殆ど割愛されていた関と愛人いのとの馴れ初めや別れも印象深く表現していた。いのが暗い川辺に独り立ちつくし暗い草むらへと消えていくイメージが関の夢に何度も出てしまう場面が関の孤独で冷えた心を表現しているようで良かった。
事件の模様を某藩邸から目撃した者の文書が残っている。
「
窓の下、騒がしきにつき何事ならんと覗きみ候ところ、
既に双方入り乱れての戦いとなりおり候
真剣は間を隔てせりあうよし、昔より聞き及びそうらへども、
この場においてはさでもく、刀半分または鍔元際にてせり合い候
大男一人、大音声を発す 井伊掃部とまで聞こえ候」
とあったそうなのだが、本映画では暗殺者が「井伊掃部!」と叫ばなかったので、ムカついた。
正確な桜田門周辺のロケセットで判る事。 レビュアーの中には、「何で幕府や彦根藩または他藩が救援に駆けつけないのか不自然」とか、「寒い大雪の中、ウロウロと人が徘徊している時点で怪しいと警戒するはず」などと怪訝に思う者がいた。
実は本作での描写は特に不自然ではない。不自然ではないが説明足らずかなと思っている。
まず、救援部隊が駆けつけなかった点、記録では襲撃は僅か3分で終わったそうである。本作ではチャンバラシーンを濃密に描いているので間延びしているが、実際はもっと短く一瞬の出来事だ。事件の目撃者の多くは「何や?騒がしいのう。え? なんじゃ?! ああ! 御大老様が・・!」とあれよあれよの間という感覚だったろう。
法治社会である現代でも同様の現象があった。1985年6月、豊田商事の永野一男会長刺殺事件である。当時、会長宅には大勢の報道関係者が集まっていた。その衆人環視の中で2人の男が窓を割ってドアをこじ開け侵入し永野会長を殺してしまった。窓ガラスを割った段階で器物損壊、しかし大勢の目撃者たちはその行為を咎めなかった。
次に寒い雪の日に桜田門前をウロウロ人が徘徊しているのも実はおかしくないのだ。これは現代に例えると鉄道マニアが目当ての列車が通過するのを待っている感覚に近い。電車の運転手が線路脇で望遠レンズを構えている鉄道ファンたちを目撃して、バズーカ砲を構えるテロリストだぁ、などと慌てるだろうか?
つまり当時は大名行列のオタクがいて、大名・旗本の氏名や家紋・格式・知行などを記したデータブック「武鑑」を手にしながら江戸城を出入りする大名行列を見物していた。本作にも描写されていた立ち食い蕎麦屋の屋台は、そんなオタクを相手に商売をしていたのである。オタクにとっては雨も雪も関係ない。
もっとそんなオタクたちの描写をしていれば、関たちが怪しまれずに待ち伏せできたのかも判っただろうに。
本作の良い点は桜田門周辺のリアルセットである。たしかに襲撃の地理条件が良く判り、講談や時代劇の感覚に囚われず事件を冷静に考察できる。
彦根藩邸の門から桜田門まで非常に近いし広い道なので見通しが良すぎる。時代劇では井伊が決死の覚悟で登城に臨んだかのように描写される事があるが、まったく暗殺を予期しなかったと思う。本作の伊武直弼のごとく用人の注進を一笑にふした態度が実情ではないかと思う。
昔から矛盾を感じたのは井伊側の警護が刀にカバーをかけている点だ。襲撃を警戒していたなら刀を抜きやすいようにしているはずだ。
また今回の映画で彦根藩邸と桜田門がかなり近い事が判った。行列の供回りは公儀によって定められているにしても、もしもの事が起こったときに備えて藩邸に救援部隊を配備することもできたはず。しかし備えを全くしていなかった。
おそらく決死の覚悟で幕政に臨んだ井伊直弼ではあったが、不穏分子をあらかた粛清したので安心したのではないか。また事件の目撃者の文面にもあるように、咄嗟の事で眺めているしかできなかった様子。すなわち、泰平の世が続いたために平和ボケしていたのだ。
晴雨堂スタンダード評価
☆☆☆ 良
晴雨堂マニアック評価
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