池上彰さんが悼む
「後藤健二さんの不存在は、
ジャーナリズム界の損失」 私にとって、後藤さんは、紛争地取材の大先輩でした。ジャーナリスト歴だけで言えば、私の方が先輩なのでしょうが、戦場取材、紛争取材では彼の方が大ベテラン。リビアやレバノンでの取材でご一緒したとき、彼は、「リスクを冒すにはあまりに危険な取材」と、「リスクを冒す価値のある、そこそこ危険な取材」を峻別する力を持っていました。そんな彼がなぜ……という思いが付きまといます。
今回、朝日新聞記者が、外務省の勧告を無視してシリアに取材に入ったと、読売新聞と産経新聞が批判的に報じています。大新聞の記者が、「危険だから取材に入らない」という態度であったなら、誰が報じるのでしょう。だからこそ、後藤さんの不存在は、日本のジャーナリズム界にとっても損失なのです。(ハフポスト日本版 池上彰コメント抜粋)【雑感】長い記事になりそうなので2回に分けて論述する。まず、「自己責任論」派からの批難に晒されている
後藤健二氏を弁護したい。
前提として知っておかなければならないのは、政府が危険だから止めろと言われて「はい、わかりました、仰せに従い行きません」と言って取材を中止してしまったらジャーナリスト失格である。ジャーナリストとはそういう職業である。そして建前であれ国民の側に立つ第四権力として時の政府を監視する使命を帯びている。
これは近代民主主義の成立とともに発展したジャーナリズムの伝統である。
国民主権の民主制とジャーナリズムは不可分のセットである。 戦場取材は特にジャーナリズムの意義を問われる。戦争とは、国家が伝家の強権を振るう事に踏み切った究極の政策であり、多くの人命が一度に失われるからだ。権力監視を使命とする言論機関としての最重要業務だ。 政府に落ち度が無ければいいのだが、自軍側の取材だけでは時の政府の政策のPRに加担する事になる。対立する側からの取材も必要となっていく。それができるかできないかは、ジャーナリストが所属する国家の民主主義度と言論と表現の自由度、引いては国そのものの国力の充実度を表す。ジャーナリズムが圧迫されている諸国を眺めれば、ジャーナリズムの充実度と国力の充実度がほぼ正比例している。
したがって、保守市民であればなおさらジャーナリズムを圧迫するような事があってはならんし、それを否定するような言動は国を衰亡させると悟らねばならない。
後藤健二氏の行動はこのジャーナリストの伝統に則っている。特に日本のメディアは「社員の安全確保」と「外務省の通達」を理由に問題地域から特派員の引き上げを行っている中で、頼りになるのは会社の縛りが無い後藤氏のようなフリーランスである。
彼は現場で目にしているはずだ。ジャーナリズムの先進国であるアメリカやイギリスの大手メディアが現地入りしているのに、日本では自分のようなフリーランスしかいないという事を。
池上彰氏のコメントもそういった背景がある。
私個人の意見は、後藤氏も私と同じく齢40代後半を過ぎてから子供を授かった父親の身であるので、紛争地域の子供達の事よりも自分の子供の事を優先してジャーナリストから足を洗うべきだった。
ただ、彼の行動を蛮勇と批難するつもりは無い。中東に詳しく経験も積み上げ現地との人脈も築いてきた彼としては、業界のポジションとして行かざるを得なかっただろう。先に殺された湯川氏が中東入りする際には助言を与えたらしく、その事で責任を感じていたとも聞いている。行かなかったら行かなかったで、たぶん仲間や同業者から批難されたと思う。
こういった事情を考えると、一部である「名誉欲」や「金銭欲」でシリア入りしたと括る批判意見には賛成できない。それらの野心が無かったと言い切るつもりはないが、既に中東に慣れた欧米のジャーナリストたちが殺され、ジャーナリストだけでなく現地で人道支援をしている欧米のNGОスタッフも大勢拘禁されている状況ゆえ、火中の栗を拾う覚悟だったと察する。
仲介者やISILに近い人物をガイドに立ててISIL支配地域に入ったのも古くから使われているセオリーの一つではある。 例えば、60年代に本多勝一氏が南ベトナム解放戦線を取材するときは、仲介者を通じて解放戦線側に連絡を入れ、応対に出た若い中隊指揮者と待ち合わせて解放戦線が実効支配している「解放区」へ入った。
またアメリカ南部のアフリカ系住民を取材するときは同じアフリカ系の案内人とともに現地入りしている。突然、単身で行けば他所者の敵性人物と見なされる恐れがあるが、取材対象者と近い人物と一緒に行けば「味方」と見なされやすく安全が確保される。(余談1)
報道によれば支配地域に同行したガイドがグルだったらしい。これでは後藤氏も手も足も出なかっただろう。ISILはジャーナリズムを否定する、単純に人質(カモ)としか見ない。これはネット社会の副作用だ。自前でPRを拡散できるのだから、余計な事をするかもしれない他所のメディアは要らないのだ。
政府は今回の人質事件での批判に「懲りた」のか、勧告や通達だけでは良くないと考え、これも伝家の宝刀ともいえるパスポート返納の命令権を示した旅券法第十九条を持ち出した。
十九条に挙げた該当例「
旅券の名義人の生命、身体又は財産の保護のために渡航を中止させる必要があると認められる場合」を根拠にシリア行きを計画していたフリーカメラマンにパスポートの返納を命令した事がニュースになった。
たしかに合法なのだが、こうなってくるともはやISILの支配地域で住民たちがどんな状況になっているのか判らなくなる。ISIL支配地域に行けるのは、特殊訓練をした軍の情報機関しかないだろう。脱出者からの情報やアメリカを中心とするメディアからの情報で推察するしか手が無い。アメリカもよくプロパガンダで情報操作だけでなく創作までする事が知られているから、逆にISIL擁護派に反論の余地を与えてしまう。
例えば北朝鮮が何か酷い事をやっているらしい噂は以前からあったが、噂だけだと北朝鮮支持者からの反論で打ち消される。潜入取材などのルポがあればこそ説得力があるのだ。(余談2)
だから、素人の渡航制限はやむを得ないとしても、ジャーナリストは敢えて認める度量は国家として必要だ。
一方で一連の安倍批判も見当違いがある。(後編に続く)
(余談1)この取材時では車での移動中に何者かから銃で狙撃されている。まさしくピーター・フォンダ主演「イージーライダー」の世界だ。
(余談2)とどめは拉致被害者の帰国だった。彼ら彼女たちの帰国までは、北支持者たちは「かりにも国家が仮面ライダーに登場する悪の秘密結社ショッカーみたいな事するか! 危険と労力を払って平凡な一般市民や学生を少人数拉致するなんて荒唐無稽で漫画チックや」と一蹴された。
ところが事実だった。
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