それでもあの五輪エンブレムは
”パクリ”ではない!
そもそもデザインとは何か? ついに"幻の五輪エンブレム"となってしまった。五輪史上かなりレアなケースではないだろうか。
私個人は撤回に賛成ではない。なぜなら撤回の合理的な理由が見当たらないからだ。しかし、世の中に愛されてこそのシンボルマークであるという主張は、「表現とは伝わってなんぼ」の観点から理解できる。社会のリアクションが"こう"であればそれも正しいのかもしれない。佐野研二郎氏とそのご家族、関係者に対する「誹謗中傷」が、一刻も早くやむことを願う。(現代ビジネス)【雑感】「現代ビジネス」で広告業界に明るい東北芸工大客員教授の
河尻亨一氏が一見すると佐野健二郎氏を擁護しているともとれる記事を書いていた。
河尻氏が問題にしたのは、広告業界で生きるデザイナーと絵画を描く藝術家とは目的も趣旨も違う点を指摘して、佐野氏へのバッシングは広告というものを理解しない素人たちの過剰反応だった。 実はこれに似たような問題を間近で見た事がある。中学3年生の時だった。学校が体育祭のポスターを公募し、私の級友の作品が最終選考まで残ったものの結果は落選してしまった。採用されたポスターを見た級友は周囲をはばかることなく不満をぶちまける。「なんでこれが採用やねん!ど素人の先生が!」
選考した教師たちを「ど素人」とこき下ろす級友は、たしかに画才もセンスもあった。これは友人の贔屓目ではない。何故なら私は彼を蛇蝎と同様に嫌っているからだ。今でもその感情は変わっていない。
級友は小学校高学年の段階で当時流行りのアニメに登場するヤマトやルパンを正確に描写していた。当時の段階で既にデッサン力は高水準で、場末のプロよりも巧かった。
中学の学年通信では各学級の絵心ある生徒が担任教師の似顔絵を描く企画があって彼もクラスを代表して参加した。画力もさることながら、彼だけが陰影を表現する漫画の専門的技法(カケアミ)を手慣れたタッチで描き、ポイントにスクリーントーンを使用していた。明らかに「俺は巧いだけでなくキチンとした知識と技術をもっているやで」と誇示している、もとい、誇示しているように見えた。
後に彼は美術系の大学に進み、アミューズメント関係の会社にデザイナーとして就職し今は大勢のデザイナーやプログラマーを統括する幹部社員におさまっているので、本当にその道のプロになった人間である。
話しを戻そう。
級友のデザインは非常にシンプルなものだった。中央に1人の体操着姿で走る1人の生徒を斜め横から捉えた画像を緑のシルエットで表現し、大きく「〇〇年度〇〇中学校体育祭」のロゴを入れただけのものだった。
採用されたポスターはグラウンドのトラックを魚眼レンズで写したような画像で、ロゴも魚眼描写に合わせて歪みを入れていた。級友のほうが画力はあるが良く言えばスタンダードな構図、私の感情論を加えれば面白みの無い平凡な絵、採用ポスターはハッキリ言って絵は下手糞だったが構図は面白かった。
私は「構図の面白さを評価したんやろ」と呟くと、級友は頭ごなしに「何も解らんお前はだまっとれ」と偉そうに言う。彼を蛇蝎と同じように嫌う理由がこれだ。平素から人を見下す根性が気に入らなかった。
おそらく私は理解し過ぎているからこそ彼の目には馬鹿に見えたかもしれない。級友のポスターは彩色も工夫していた。単に緑色をベタ塗りしたシルエットではなく立体的に濃淡を付け、しかも遠くからでも視認しやすいよう計算されていたのだ。
ところが採用ポスターは近くで見れば面白いのだが、遠くから見ると何やらゴチャゴチャ描き込まれて何のポスターなのか判らない。
級友はポスターカラーで水彩画を描いたのではなくポスターを描いたのだ。あくまでポスターとしての機能を全うさせようと苦心した結果を考慮しなかった審査係の教師を「ど素人」だと怒る気持ちはよく理解できた。だからこそ私はそのとき陰険にも「常日ごろ人を見下す態度をとるからじゃ、ざまぁみさらせ」と冷笑したものだ。
私の中学生時代のエピソードは
河尻亨一氏が指摘する問題にも通じる。級友は中学生の段階で画力と知識と理論を持っていた。後にデザイナーとして就職し統括する立場になった訳だから、私の評価は過大でも過小でもなく冷静な見立てだ。
ポスターは絵画ではない。告示のための絵図という前提条件がある。第三者が見て視認できるものでなければポスターとしての機能は果たせない。級友が怒りを向けた「ど素人」は機能を無視した。(余談1)同じように佐野氏のエンブレムもパクリか否かは別にして機能美を追求した結果ではあるだろう。
機能を重視すると、どうしてもシンプルにならざるを得ないし、表現のバリエーションも限定され、似通ったものになる。おそらく、佐野氏に異議を唱えたデザイナーたちも佐野氏に向けた同様の疑惑にまかせて「調査」をすれば、対岸の火事から火の粉が我が身に降りかかる可能性は否定できない。
とはいえ、やはり佐野氏を擁護するのはもはや難しいのだ。
彼が経営するデザイン事務所「MR_DESIGN」の名称からして既に同様名称の事務所(「MR.DESIGN」こちらはMRの後に点、佐野氏は下線)があり、その経営者は「ボクがこの社名を付けたのは2006年、彼(佐野氏)より2年以上も前に開業し、考え抜いて付けた名前」ゆえ名称変更をするつもりはないと主張している。
同じ名称、点と線の違いのみ。佐野氏のスキャンダルのおかげで、佐野氏とは直接の利害関係はないにも関わらず同事務所には抗議や嫌がらせの電話が殺到しているという。事業所名からこれまで手がけた作品まで突っ込みどころがこれだけ多いと、広告というものが如何なるものかを知るプロの御仁でも、
五輪エンブレムは庇えても佐野健二郎氏個人を庇いきれない。
(余談1)以前、Twitter上で多言語表示の問題で議論になったことがあったが、あの時も私は機能面を重視した判断をしたのに対して、相手は機能面を完全に無視して理念に固執していた。
多言語表示について。晴雨堂は隣国の公用語(中・韓・露・英)で線引が妥当と考える。 近頃の現象[一一一九]
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