「人魚の森」「人魚の傷」 不老不死モノの傑作。 晴雨堂スタンダード評価
☆☆☆☆ 優
晴雨堂マニアック評価
☆☆☆☆☆ 金字塔
寸評・・人魚モノ・不老不死モノの新機軸であり、金字塔的作品である。日本版ゴシックホラーといっても良いかもしれない。手塚治虫氏の「火の鳥」や萩尾望都氏の「ポーの一族」と並ぶ作品。
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このアニメは、高橋留美子氏が不定期に発表してきた人魚モノの短編漫画が原作である。80年代半ばから90年代半ばまで10年間に渡って不定期に連作され、特撮・アニメ・SFファン羨望の
星雲賞を受賞している。(余談1)
人魚の肉を食べたために不本意ながら不老不死の身体になってしまった
湧太という青年を主人公に各時代のエピソードを描いた短編群の中のタイトルだ。
発表された当時、「うる星やつら」や「めぞん一刻」のギャグ漫画に慣れていた私は「こんなシリアスな漫画も描くのか」と驚いた。手塚治虫氏の「火の鳥」や萩尾素都氏の「ポーの一族」に勝るとも劣らない物語に思えた。
新機軸といっても良いのが、人魚の扱い方である。たぶん、オカルト雑誌などで紹介されている人魚のミイラから連想されたキャラデザインと思うが、童話に出てくるような美しい人魚ではなく、眼が大きく見開き鼻が削げピラニアのように凶暴な生き物だった。
人魚の肉を食べると不老不死になるといわれていても、誰もがなれるわけでなく、血を吐きながら悶死したり、半魚人のような風体の凶暴な「なりそこない」に変化したり、不老不死になれたようでも年月とともに効果が薄れていったりと、体質によって様々という設定にリアリティーがある。
不老不死になってしまった人間の描写も、「火の鳥」や「ポーの一族」に見られるような幻想的ロマンは排されている。主人公は常に孤独で一所に留まることができず、毎回事件に巻き込まれて瀕死の重傷を負う。不老不死といっても、負傷した際の治癒力が異常に高くなるものの細胞は基本的に成長も老化もしないので、怪我をすれば痛いし重傷では治るのに時間がかかるし、バタリアンやゾンバイオのように切り刻まれても生き続ける訳ではない。
特に
湧太の命を奪いかねない強敵真人は不老不死者らしい。見た目は幼い男の子だが、
湧太よりも300年長く生きている。
湧太は500年も生きながら未だ普通の人間に戻ることに未練があるに対し、真人は完全に割り切りか弱い幼児の体を隠れ蓑に次々と手ごろな人間を見つけては利用し用が済めば殺していく。
湧太も真人も数世紀に渡って生きてきたのに何の発展も無い。「火の鳥・未来編」では核戦争で荒廃して死の星になった地球を再建しようと、不老不死となった主人公が一万年かけてバイオテクノロジーを独学して種の復活を試みたり、有機物を仕込んで海にばらまき億年単位かけて元の地球に再構築させ神の様な存在になる。「ポーの一族」ではエドガーとアランが漠然と放浪しているだけではなく、少しずつ「一族」も増やしバンパイヤネットワークらしきものを形成している。
しかし善玉の
湧太も悪玉の真人も、そんな志は無く、数世紀に渡って同じ生活の繰り返しだ。志半ばにして死んでいった「偉人」を思えば、十分すぎるほどの人生の時間を持ちながら、膨大な経験を蓄積しながら、天下統一を行うでなく、世界征服するでなく、宗教の生き神様になるわけでなく、科学の発展に寄与するわけでもない。ひたすら孤独に生き続けるだけだ。
実はこの要素が説得力を増している。湧太は元々室町時代の漁師、真人は鎌倉時代の農民で子供だった。もし、不老不死が織田信長だったら世界征服を成し遂げて神様という怪物になっただろう。しかしこの2人にはそのような発想ができる立場にはいなかった。
知識があれば様々な人生の選択肢を編み出せるし、社会的立場が変化すれば目線が変わり発想にも変化がおきる。しかし湧太も真人も不老不死ゆえに一所に留まって基盤を固める事ができず、永遠に放浪する青年・少年のままだ。しかも不老不死になる確立が低いため、ポー一族のように仲間同士のネットワークも無い。
湧太は「
人魚の森」で同じ不老不死の
真魚という少女を相棒というか伴侶をもつことになった。(余談2)この
真魚の存在は湧太の生き方に大きな影響を与えていくに違いない。あるいは、信長のようなタイプが不老不死となり、陰で世界を支配している強敵と遭遇して戦うか、あるいは湧太と
真魚が仲違いをしてそれぞれの道を歩み、それぞれが帝王・女帝となって対立し戦争を始めるか、あるいは「ゴルゴ13」のように波乱万丈の繰り返しの毎日か、どんな展開の仕方を
高橋留美子氏はとるのだろうか?
(余談1)ノーベル賞並の権威をもった世界のSF文学賞であるヒューゴ賞に倣って日本で設立された賞。
(余談2)湧太には子供も子孫も居ないし、つくった形跡は作中には無い。仮に
真魚と契っても子供はできない?
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このアニメは、高橋留美子氏が不定期に発表してきた人魚モノの短編漫画が原作である。80年代半ばから90年代半ばまで10年間に渡って不定期に連作され、特撮・アニメ・SFファン羨望の
星雲賞を受賞している。(余談1)
人魚の肉を食べたために不本意ながら不老不死の身体になってしまった
湧太という青年を主人公に各時代のエピソードを描いた短編群の中のタイトルだ。
発表された当時、「うる星やつら」や「めぞん一刻」のギャグ漫画に慣れていた私は「こんなシリアスな漫画も描くのか」と驚いた。手塚治虫氏の「火の鳥」や萩尾素都氏の「ポーの一族」に勝るとも劣らない物語に思えた。
新機軸といっても良いのが、人魚の扱い方である。たぶん、オカルト雑誌などで紹介されている人魚のミイラから連想されたキャラデザインと思うが、童話に出てくるような美しい人魚ではなく、眼が大きく見開き鼻が削げピラニアのように凶暴な生き物だった。
人魚の肉を食べると不老不死になるといわれていても、誰もがなれるわけでなく、血を吐きながら悶死したり、半魚人のような風体の凶暴な「なりそこない」に変化したり、不老不死になれたようでも年月とともに効果が薄れていったりと、体質によって様々という設定にリアリティーがある。
不老不死になってしまった人間の描写も、「火の鳥」や「ポーの一族」に見られるような幻想的ロマンは排されている。主人公は常に孤独で一所に留まることができず、毎回事件に巻き込まれて瀕死の重傷を負う。不老不死といっても、負傷した際の治癒力が異常に高くなるものの細胞は基本的に成長も老化もしないので、怪我をすれば痛いし重傷では治るのに時間がかかるし、バタリアンやゾンバイオのように切り刻まれても生き続ける訳ではない。
特に
湧太の命を奪いかねない強敵真人は不老不死者らしい。見た目は幼い男の子だが、
湧太よりも300年長く生きている。
湧太は500年も生きながら未だ普通の人間に戻ることに未練があるに対し、真人は完全に割り切りか弱い幼児の体を隠れ蓑に次々と手ごろな人間を見つけては利用し用が済めば殺していく。
湧太も真人も数世紀に渡って生きてきたのに何の発展も無い。「火の鳥・未来編」では核戦争で荒廃して死の星になった地球を再建しようと、不老不死となった主人公が一万年かけてバイオテクノロジーを独学して種の復活を試みたり、有機物を仕込んで海にばらまき億年単位かけて元の地球に再構築させ神の様な存在になる。「ポーの一族」ではエドガーとアランが漠然と放浪しているだけではなく、少しずつ「一族」も増やしバンパイヤネットワークらしきものを形成している。
しかし善玉の
湧太も悪玉の真人も、そんな志は無く、数世紀に渡って同じ生活の繰り返しだ。志半ばにして死んでいった「偉人」を思えば、十分すぎるほどの人生の時間を持ちながら、膨大な経験を蓄積しながら、天下統一を行うでなく、世界征服するでなく、宗教の生き神様になるわけでなく、科学の発展に寄与するわけでもない。ひたすら孤独に生き続けるだけだ。
実はこの要素が説得力を増している。湧太は元々室町時代の漁師、真人は鎌倉時代の農民で子供だった。もし、不老不死が織田信長だったら世界征服を成し遂げて神様という怪物になっただろう。しかしこの2人にはそのような発想ができる立場にはいなかった。
知識があれば様々な人生の選択肢を編み出せるし、社会的立場が変化すれば目線が変わり発想にも変化がおきる。しかし湧太も真人も不老不死ゆえに一所に留まって基盤を固める事ができず、永遠に放浪する青年・少年のままだ。しかも不老不死になる確立が低いため、ポー一族のように仲間同士のネットワークも無い。
湧太は「
人魚の森」で同じ不老不死の
真魚という少女を相棒というか伴侶をもつことになった。(余談2)この
真魚の存在は湧太の生き方に大きな影響を与えていくに違いない。あるいは、信長のようなタイプが不老不死となり、陰で世界を支配している強敵と遭遇して戦うか、あるいは湧太と
真魚が仲違いをしてそれぞれの道を歩み、それぞれが帝王・女帝となって対立し戦争を始めるか、あるいは「ゴルゴ13」のように波乱万丈の繰り返しの毎日か、どんな展開の仕方を
高橋留美子氏はとるのだろうか?
(余談1)ノーベル賞並の権威をもった世界のSF文学賞であるヒューゴ賞に倣って日本で設立された賞。
(余談2)湧太には子供も子孫も居ないし、つくった形跡は作中には無い。仮に
真魚と契っても子供はできない?
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